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メルクニア戦記  作者: 風花
第五章
84/113

幕引きは静謐な夜に

 夜が更け、遊び人たちが酔い潰れて眠りについた頃。

 マリス・メルクニアは、一瞬にして酔いを払った。その瞳は冷徹なほどに冴え渡り、彼の手には遊びの道具ではなく、一族が最後に残した「鍵」が握られていた。

「……マリス様。準備は整いました」

 下男に変装したレオナール王子の側近が現れる。マリスは暖炉に放蕩の証拠を詰め込んだ封筒を投げ入れ、完璧な「夜逃げ」の舞台を作り上げた。


 別邸の裏口。そこには、馬を用意したレオナール王子が独りで待っていた。

「……通行許可証だ。北方の防疫地域へのな。これがあれば、どんな検問も無検査で通れる。……一度渡れば、もう戻れぬぞ、マリス」

「戻るつもりはありません。殿下。……あなたがこの地獄で独り、王座を狙う間、私は北の荒野で『牙』を育てます」

 マリスは、レオナールの手を強く握った。若き二人が交わした、王国を裏切り、世界を創り変えるための血の盟約。

「……行け。お前の『名前』は、私がここで守り通してやる。……達者でな」


 マリスは夜の闇に紛れ、王都を駆け抜けた。北門を抜ける際、彼は一度だけ振り返った。かつて自分が「無能」として虐げられ、父や兄たちが「英雄」として使い潰された黄金の都。今、そこにはメルクニアの人間は一人もいない。

 マリスが北の街道を走る中、背後の王都では、ゼノス帝国の大蔵卿フランが仕掛けた「経済の罠」が静かに発動し始めていた。通貨は暴落し、王宮はメルクニアのことなど考える余裕を奪われていく。


 夜明け。

 アルザスの峻険な山脈が、朝日に照らされて白銀に輝き始めた。雪解けのぬかるみを進み、マリスはついに、地図にも載らない古い砦の跡地に辿り着いた。そこには、先に到着していたセシルやウルフたちが焚く、再会の狼煙のろしが細く上がっていた。

「……遅かったな、マリス」

 砦の入り口で、ウルフが腕を組んで待っていた。その背後には、すでに開拓の準備を始めている精鋭たちの姿。ウルフはマリスの無事を確認すると、微かに微笑み、砦の奥へと視線を送った。

「……待っているぞ」


 マリスは馬を降り、ウルフに促されるまま砦の奥へと歩を進めた。

 冷たい風が吹き抜ける中、古びた石造りの塔のテラスに、一人の女性が立っていた。

 エレナ・アーシア。

 彼女は、王女としての華やかなドレスではなく、アルザスの厳しい気候に耐えるための、厚手の羊毛のコートを身に纏っていた。その横顔は、王宮で見せた悲劇の姫君のものではなく、自らの意志で荒野を選んだ者の、凛とした強さを湛えている。

「……エレナ」

 マリスの声に、エレナが振り返った。

 彼女の瞳に、朝日に照らされたマリスの姿が映る。王都での自堕落な演技を捨て、一族の未来を背負った男の、真っ直ぐな瞳。

「マリス様……!」

 エレナは、王女としての礼儀も忘れ、マリスの胸へと飛び込んだ。マリスは彼女を強く抱きしめ、その体温を確かめた。

「遅くなってすまない。……エレナ。君を、こんな何もない場所に連れてきてしまった」

「いいえ。……あなたがいる場所が、私の居場所です。……マリス様。私たちは、自由になったのですね」

 エレナはマリスを見上げ、涙を浮かべながら微笑んだ。王都では許されなかった、一人の男と女としての、真実の再会。

「ああ。……形式上の婚約は、もう王の手によって破棄された。君はもう、王女ではない。……私は、君に指輪も、華やかな式も、今は何も用意できない」

 マリスは、エレナの頬を伝う涙を指先で拭った。

「だが、エレナ。君への誓いだけは、この白銀の地で、一生守り抜く。……いつか、この荒野を、君が安心して笑える場所にしてみせる」

「はい。……信じています。私の、英雄」

 二人は、誰の目にも触れないアルザスの空の下、静かに唇を重ねた。

 祝福の鐘も、会食の音楽もない。ただ、凍てつくような冷気と、再会を祝う一族の狼煙だけが、彼らの誓いの証人であった。


 メルクニア一族、離脱完了。

 王国という檻を抜け出した彼らは、再会の喜びを噛み締め、アルザスの厳しい冬を越えるための戦いを、今、始めた。

 自らの意志で地獄を選び、自らの手で未来を掴む、「野生の怪物」となったのだ。


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