ホリーホックホーリー㊱
島の家で仮眠を取った俊葵達は、午後の早い時間、港にやって来た。
予定では、二時間ほど早い便に乗るはずだった瑠璃と太郎も、洋子と俊葵に合わせて果島回りに乗る事になったのだ。
「一時間半も余計に時間が掛かるのに、瑠璃さん、よろしいの?」
洋子が瑠璃の疲れ具合を気遣って言うと、
「もちろん。ご覧の通り体調は良いですし、洋子さんが、稀世果が見つかった果島に船の上から手を合わせると仰るのに、波間の人間がそうしない訳にはいきませんよ。なーんて言うのは建前で、本当は、もっと洋子さんとおしゃべりしていたいだけなんですけどね。」
と言って、瑠璃は舌を出した。
二時間強の航海のほとんどを俊葵は一人、後部デッキの上で過ごした。
事件解決の重大局面だったあの突入作戦に、直接加わっていない俊葵には、終わったという感覚がいまいち掴めないでいた。
ーーまた何かのきっかけで、警察に容疑を掛けられるんじゃないか、
マスコミが家の前に集まるんじゃないか、家の電話が鳴りっぱなしになるんじゃないかーー
それを知ってか知らずか洋子が、『波間の地所をお祓いしましょう。』と言い出した。
すると事態はどんどん動いていった。まず、今の所有者を突き止め、立ち入りの許可を取ろうと糺も動いた。意外にも現在の所有者は、お祓いに理解を示してくれたという、
ーーだから昨日から今日にかけての、あのお祓いの儀式が実現したんだけど、ーー
リアリストの俊葵には、戸惑うことも多く。神霊的な事は中々受け入れ難い。
ーーもちろん、お母さんのこと信頼しているし、なんなら、気持ちも身体も軽い。状況から言ってもあのお祓いのおかげだし、ーー
フェリーが速度を落とし始めた。
凪いだ海上を走る時は揺れていなかった船が速度がゆっくりになると、ユーラユラと大きく揺れる。
「俊葵君。そろそろ着くよ。」
船室から太郎が声を掛けてきた。
俊葵は、ドアを開けたままで待っている太郎の元に、ヨタヨタしながら近づき、その歩き方が自分でも可笑しくて、クスクス笑った。
そして、
「大きく揺れる甲板を歩くと、何だか波の上を歩いているような気分になりません?」
と言った。
太郎は目を見張って、ブブッと吹き出すと、大きく背伸びをして俊葵の頭をくしゃくしゃに混ぜた。
瑠璃と太郎とは、フェリーターミナルの玄関で別れた。
車で来ていた太郎は、送るよと、誘ってくれていたが、
行きは荷物があったから、父の車で送ってもらったし、俊葵がヨーロッパに行ったら、電車にはしばらく乗れないからと言うと、折れてくれて、じゃあ気を付けてと先に帰って行った。
ターミナルの真ん前の停留所まで、ゆっくり歩く。
ここは終点なので、電車を乗り逃すことはない。
「疲れてるのに、俺の我儘でごめん。」
と言うと、
「何言ってんの。私の方こそ、こんなに穏やかな気持ちで、俊葵と並んで歩けるなんて、何年振りかしら?なんて噛みしめていたところよ。」
と、洋子はにっこり笑った。
屋根付きの真新しい停留所は、普段通勤通学でフェリーを使う客の為か、多めにベンチが設えられている。
ちらりと見回すと、今は誰もいないようだ。
腰を下ろすと、海風が汗ばんだ肌をサラッと撫でていった。
「やっぱり自然の風は良いわね。」
時刻表ではもうすぐ電車が来るはずだ。
カンカンカンカン…
警報音が鳴り、すぐ側にある遮断機が降り始めた。
洋子は、財布を取り出し、市内均一料金きっちりを俊葵に握らせた。
その用意周到さに、俊葵は、小さな頃に戻ったような気分になった。
ゴロゴロと音を立ててやって来たのは、古いタイプの車両で、ステップを二段登って車内に入った。
「ここにしましょう。」
洋子が最後尾を指差した。始発になるから、乗客は洋子と俊葵の二人だけだ。満員になるまでいいかと、俊葵も腰を下ろす。
「葵がね、」
電車がゆっくりと動き出すと、洋子が話し始めた。
「西崎さんに、お墓参り行きたいんだけど、って言ったそうなの。」
「なんで西崎さんに?」
「あんな事があって、一人で行くのが怖いのもあるんでしょうけど、だからといって一緒に来てくれる人がいないのかも知れないわ。」
「祖父さんか祖母さんがいるだろ?」
いささか拗ねて聞こえだろうか、俊葵は洋子をちらりと見た。
「その人達こそ全く当てにならないんじゃないの!」
洋子は、目をきょろきょろと剽げて見せる。
「あはは、」
「それでね。西崎さんが言ったそうなの。丁度、島に行く用事があるし、私も俊葵も来る。一緒にお墓参りしたらどうか。って、
西崎さん、港で言ってたわ。きっと来ると思ったんですけど、とうとう来ませんでしたねって、」
「ふぅーん。」
俊葵は気の抜けたような返事をして、後ろ向きに流れていく景色に目を移した。
沿線住民が線路沿いに植えたり、あるいは種がこぼれたりして増えた草木が、電車が通り過ぎるたびに、線路の内側に大きくなびいている。
乗客がないまま、いくつかの停留所を通過していったが、ようやく乗客があったのか、電車は段々と速度を落とし、やがて止まった。
「わぁー、」
窓の外に目を遣った洋子が声を上げた。
その声に俊葵も目を向ける。
そこはもう、立葵、立葵、立葵…
プラットホームの脇、線路脇、駐輪場の脇も立葵の群生だった。
「ふふ、」
洋子が笑った。
振り向いた俊葵に、
「お兄さん家の最寄りよね。ここ、」
洋子がいたずらそうに笑った。
「あ、そうだね。 一葵父さんの仕業かもね。あはは、」
ビーッ、
ドアが閉まった。ゆっくりと電車が動き出す。
「立葵って、holly hockっていうのよね。」
「うん、確か、」
「十字軍が聖地からもたらした、holy flower《聖なる花》」
「へぇー。それは知らなかった。」
「日本語の“仰日”もお天道様を仰ぎ見る花という意味だわ。」
「うん、」
立葵の群生は驚くほど長く続いていた。
紅色、白、黄色、紫、
電車が通り過ぎるたびにまるでお辞儀をしてくれているようだ。
カンカンカンカン…
踏切を通り過ぎる。
遮断機が上がると同時に、自転車や自動車が線路上を行き交う。
そこに、横断する事なく、線路の上に立ち、こちらを向いている人影があるのに気が付いた。
「あ、葵!」
思わず俊葵は立ち上がった。
さっき一人だけ乗った別の乗客も驚いて俊葵を見上げる。
「お客様。走行中は立ち上がらない様に願います。」
車内アナウンスで注意されてしまい、慌てて腰を下ろした。
「え、どこ?」
洋子が、俊葵の視線の先を見た時には、その姿はどこにも無かった。」
「ごめん勘違い。」
俊葵は頭を掻いた。
「あんなに立葵が咲いていたんですもの。もしかしたら、立葵の花の精を見たのかも知れないわね。」
洋子が楽しげに笑った。