188話『誰もが備え、そして動きだす』
ごめーん、今日いっぱいいっぱいなんで休むー
『私たちとパーティを組んでくれませんか?』
・我流大剣二刀流アラタの場合
「断る。所詮、冒険者なんて粋がったクソどもだ、昨日今日で協力なんてできるか。敵に不死がいるという情報を入手できたことは感謝する、だがガキのオモリはゴメンだ。バケモノが怖いなら宿に籠もって目と耳を塞いで寝てな、後はオレが終わらせてやる」
・ビーストテイマーサキの場合
「嫌だね。いいかい、戦場で背中任せるのに一番大切なのは信頼関係だよ。アタシぁ、アリサの実力は信頼してるが、他の奴らはそうじゃない。何処の馬の骨とも知らない奴らと一緒にあっちゃあ、ウチのカワイコちゃんたちが殺気立っちまうんだよ。喰い殺されたくなきゃ他所へ行きな」
「グルル」
「クゥーン」
・道化師兄弟レヒト&リンクの場合
「チョット待ってネ! いま弟が不死者を相手に笑いを取るサイコーにハッピー&クレイジーな出し物を考えてるからサ!」
「ンン~……そうだ兄さん! 脳みその入れ替えショーとかどうかな!? 自分の頭の中がホントにおがくずになったら死なない人もびっくりするよ!」
「オゥ! そいつはイイネ、冴えてるぜ弟よぉ~!!!」
・翅族の勇士キッカー・ハンサの場合
「ボク一人が君たちのパーティに加わったところで、意味があるとは思えないな! 翅持ちとしての機動力を活かすなら、組む相手は同程度の速度の持ち主でなければならない。ナハト君の同行が願えないならボクは一人で向かうとも。戦場で出逢えばその時はよろしく頼むよ!」
「うぅ~、みんな話を聞いてくれませんでした……!」
「あっはっは、案の定だね」
ガヤガヤと騒々しいテイルネットワーク社で食堂のテーブルに着きながら、イリスは苦々しい顔をして苦悩を漏らしていた。
こんな時だからこそ冒険者は稼ぎ時だ。蜘蛛型魔獣に直接挑むような命知らずはごく少数だが、いざという時に逃げたい人々の護衛依頼程度なら引き受けるという者は多い。クライアント側もこのドサクサに悪さをしたい人もいるし、それを防ぎたい人など様々だ。
時折、街の外から地響きが届いてくる中、仲介屋であるテイルネットワーク社は繁盛している。
すでに靖治たちはガネーシャ神の分身と依頼契約を終え――契約の際には靖治のカードを見て「泥んこ級って何!? 何これホントに大丈夫!? バグってない!?」と驚かれた――今は戦い前の腹ごしらえを済ましたところだった。
これから魔獣攻略に挑む冒険者が万全の備えで挑めるように、ガネーシャ神の本体が死ぬ気で頑張って時間を稼いでくれている。そのため、依頼を受けた冒険者は作戦時間までに準備を整えねばならない。
だが靖治とアリサとナハトが普通の顔をして昼食後のお茶をすする前で、イリスは拳でテーブルを叩いて憤慨していた。
「どうして冒険者って勝手な人達ばかりなんですか! もう!」
「まあそんなもんよ。いきなり組めって言われたって無理ってもんでしょ」
「わたくしとしては、このメンバーで挑むことが最善と思いますわね。不慣れな連携で共闘したところで危険が増すだけでありましょう。護衛対象がいるにしろ、ね」
これからの戦いにおいての事情が変わり、慌てたイリスが周りに頼ろうとしてみたのだがにべもなく断られたが、アリサやナハトにすれば当然の結果と言ったところだ。むしろ下手に善意の協力者などが現れなくてホッとしている。
そこに入り口から喧騒を突き破って、ガネーシャ神の呼び声が届いてきた。
「おぅい、万葉靖治クンよぉー! 頼まれたもの持ってこさせたぞい……持ってこさせたぞう!」
「おっ、ありがとうございます」
靖治は一人で立ち上がって、ガネーシャ神が連れた商人から要望した品を受け取った。
今回の依頼のために用意してもらった装備だ。内容はタクティカルベストにアサルトライフル、それに弾薬。いつもと違ってこれくらいの備えは必要だろう。
受け取った茶色のベストに目を輝かせた靖治は、早速学生服の上から身に着けてみて、興奮で鼻息を荒くした。
「これでよし」
「よしって、ホントにそれでいいのん? ただのアサルトライフルって、それ死ににいくようなもんじゃねぇー?」
「あはは、死中に活ありってなもんですよ。なんとかします」
タクティカルベストの感触を確かめながら、ライフル用のマガジンをポケットに詰め込む。実はハヤテが使っているのを見て憧れていたのだ。
「外の様子はどうですか」
「ワシの本体でなんとか抑えこんどるが、明日までは絶対保たんじゃろう。せいぜい夜か、早けりゃ夕方にはワシ死んじゃって街は壊滅だな。行くってんなら頼むぞマジでね」
「はい、あの魔獣は必ず止めますよ」
ガネーシャ神は「ほんじゃ、他の分身が街の出入り口で待っとるから、時間までに来てね。例の物のほうはそこで渡すから」と言い残して去って行くのを見送ってから、靖治はライフル片手にウキウキ気分で仲間たちのテーブルに戻る。
「えっへっへー。どうだい、似合ってるかい?」
「えぇ、とても凛々しいお姿ですよ」
「馬子にも衣装って感じ? 」
世辞と率直とを受け取りながら靖治が椅子に座るのを、イリスはどこか悔しそうな眼で眉をひん曲げながら見ていて、強く打ちひしがれた様子でガックリとうなだれる。
「うぅぅぅぅぅぅ、まさかまた靖治さんを連れて行くことになるなんて……」
「しょうがありませんわね。あの吸血鬼を相手にするなら、わたくしども三人がセイジさんの護衛につかねばなりませんし」
「ここで待つか連れて行くかなら、そりゃ行くしか無いわよね。他のやつに明日の命運を任せるなんてまっぴら御免だし」
先の騒動で靖治の身柄を狙ってきたハングドマンという吸血鬼、その行動から考えて靖治を一人街に残していくわけにはいかなくなっていた。
底知れないハングドマンに靖治を護りながら対抗するのは、最低でもイリス、アリサ、ナハトから二人は必要だ。そんなにも攻略メンバーが減れば、蜘蛛型魔獣を止めるのに失敗してしまうかも知れない。
それならば、靖治もいっそもうイリスたちに付いて行ってしまおうというのが最終的な結論だった。
恐らくこれが最善だ、とはいえ大変危険な選択であり、イリスは靖治を危険な戦場へ連れて行くことに唸り声を漏らしっぱなしだ。
表情を歪めるイリスを見ながら、ナハトがため息をついて靖治へ問いかける。
「セイジさん、確認いたしますが、本当に御身を狙われる理由について覚えはないのですね?」
「ないない。しかも命とかじゃなく生け捕りでしょ? ますますわからないよ。知り合いだってそうは多くないし」
何故、靖治が蜘蛛型魔獣の内部へ連れて行かれそうになったのか、理由も目的も皆目検討がつかない。
ハングドマンの言葉をメモリーから洗い出し、イリスが辛うじて出た推測を言葉にする。
「あの吸血鬼の言葉から唯一手がかりとなるのは、靖治さんが何らかの『因子』を持っていると言っていたことです。それが何を意味するのかはやはり不明ですが……」
「因子かぁ……」
その単語に、靖治の頭の裏側にひっかかるものが確かにあった。
確かそれは、夢を通してとある魔女と初めて出会った時。彼女は依代として平行世界から別の万葉政治の、近い年頃の遺体を探そうとして苦労したんだと憤慨した。
『大体が二歳の頃に発作を起こしてドロップアウト! 2割くらいは流産して生まれる前に死んでるし、よしんば保っても10代までにほぼすべて死亡だ、どーなってんだお前の因子は、ふざけんな!』
靖治は含み笑いをこぼした。
「……まさかね」
「どうしたよ、なんか知ってるわけ?」
「いや、何でもないよ」
もしこの予想が的中しても、それはきっと万葉靖治から切り離すことの出来ないものだ。あるいは生涯の友、あるいは半身とも言っても良い。
それが靖治にとって『死』との付き合いなのだから。
「しっかし、どうしてこうコイツとの旅は変なのに絡まれるかなー。呪われてんじゃないの?」
「いやー、おかげで刺激的で楽しいね」
「私は楽しくないですー!!」
朗らかに笑う靖治に心の叫びを上げたイリスは、不満そうな顔のままスプーンを掴み、目の前にあった真っ赤なカレーをすくってその辛さに「うぅー、いたーい! 違った、辛いです!」と悶えていた。
タバスコを入れまくった激辛カレーを味わうイリスを見て、アリサが頬杖をつきながら尋ねた。
「イリスはなんでまた食ってるわけ?」
「感情値のブレが大きくなる毎に、何故か『またあの辛いのを食べたい!!』と感じてしまって……もう、こんなの食べなきゃやってられないのです!」
「まあいいけど、とっとと食いなさいよ。そろそろ時間やべーし」
靖治の準備も済んだ。他の荷物は宿で預かってもらったため、後は集合場所に向かうだけなのだが、辛さに悶えてばかりのイリスが時間をかけていたので、そろそろ余裕がなくなってきた頃だ。
「うふふ、ヤケ食いするイリスさんもかわいい……あっ、口元が汚れていますわよ。ホラ、こっちを向いて?」
「ナハトはダダ甘やかしモードだし。コイツ、ぜってー人を駄目にするタイプだわ……」
「そ、そんなことありませんわ! チキンと節制も管理できます! ……多分」
能天気男にヤケ食いする機械、悦に浸る不審なエロ天使。
だらしないメンバーを見て肩を落としたアリサが、事前に最後の確認をするため指を立てて口を開く。
「ともかく、頭の痛い問題は、この馬鹿が狙われてるから護衛が必要ってことが一つと、敵に不死者が組みしていることが一つ」
「むぐむぐ。吸血鬼は厄介ですね。あぐあぐ」
ハングドマンは己を吸血鬼と語ったし、事実黒い翼やコウモリへの変化、急速な自己再生能力を有していた。『不死者』と呼んで過言でないはずだ。
「ドラキュラって言えば弱点は十字架とか聖水とかかな?」
「ごくん。それは個体や由来の世界によります。ひとえに吸血鬼と言ってもここは色んな存在が集まってくるワンダフルワールドです。世界が違えば同じ名前でも微妙に性質が違ったりします、個別の弱点を探るのは得策ではありません」
カレーをすべて食べ終えたイリスが、ナハトに口元を拭かれながら見識を述べる。
「不死っつっても程度にもよるしね。粉微塵にすれば死ぬやつもいれば、火口に突っ込んだって平気な顔で無から蘇るやつもいる。下位の不死程度なら、アグニの火で燃やせば殺せるんだけど」
「生き延びた年数にもよると、噂を聞いておりますわ。長くを生きた不死ほど、存在が固定化し死ににくくなると」
食事も終わり、靖治はアサルトライフルのスリングを肩にかけて立ち上がった。他の仲間たちも同様に席を立ち、店を出て石畳の道を歩き出す。
「まあ、相手が不死者だからって、考えることはシンプルなのよ。ようは敵を殺し切る武器を用意すればいい」
一行が移動したのは、街の端にある西側の門。街全体を包む結界に囲まれ、門も閉じたこの場所は人気が少なく閑散としていた。
そこに集まったのは街の統治者であるガネーシャ神と、彼からの依頼を受けた冒険者たち。その数は十数人程度だ、これからやろうとすることを考えれば決して多くはない。
靖治たちの他には、やはりビーストテイマーのサキ、道化師兄弟、翅族のキッカー・ハンサ、大剣使いのアラタが先に来て佇んでおり、他にも名も知れぬ命知らずが何人か。
最後にやってきた靖治たちの顔を見て、ガネーシャ神が神妙に口を開いた。
「よくぞ集まってきてくれた冒険者諸君。この街の未曾有の危機に名乗りを上げてくれて、まずは感謝を表明したい」
挨拶もそこそこにして、象頭の神は部下に机を持ってこさせると、その上に何かの包みを置いて封を開いた。
布の下から現れたのは、禍々しい色合いの鉄紺に緑色の魔力のラインが走る、15cmほどある大きな釘だった。
「対不死用魔導兵装だ。紀伊の隠れ里に集まった魔法使いたちが作った、不死を殺戮する理論の詰まった呪いの魔釘。銘は『アンサラー』小型で軽量、魔力の類を通せば作動する。あとは心臓にブチ刺してやればいい」
これがアリサの言う対不死の答え。このワンダフルワールドに不死者が転移してきたように、それを滅ぼす武器や存在もまた次元光に乗ってやってきている。
そしてそれを金に変えようと者もいた。生産数が少なく希少ではある商売ルートに乗って流通し、この街にも残っていた対不死の必殺兵器。
簡単な武装だが、その釘の内側に込められたのは製造者である魔法使いの意地とプライド、そして不条理を人間の努力で超えようとする尋常ならざる執着心だ。見た目からもどこか重々しい空気が漏れ出しており、視る者の喉元をえぐるような圧迫感があった。
「敵に吸血鬼がいるという情報があり、急遽人数分かき集めた。戦いに出向く者は一つずつ持っていってくれ」
冒険者たちは各々手を伸ばし、並べられた魔釘から一つを手に取る。
靖治たち四人もガネーシャ神からこれを受け取ったが、靖治とイリスはそれをアリサとナハトに渡した。
「魔力か、僕じゃ無理だな」
「ロボットの私も使えませんね」
「一応持っとくけど、使うならナハトよね」
「えぇ、ハングドマンが現れればわたくしが相手をしましょう」
アリサは腰のポーチに魔釘をしまい、ナハトは呪符の塊の内側へ他の武器と一緒に格納した。
そしてガネーシャ神の手元には釘が一つだけ残り、アラタへと声がかけられる。
「そこの大剣使い、とっとと取れ」
「必要ない。武器は自前を使う主義だ」
マフラーの下からくぐもった声を出してアラタは断った。
「ほんじゃあ……これ欲しい人ー!! ジャンケンな、ジャンケン!」
「ハイハイハーイ!! あたしいる、あたしー!!」
「アリサさん、欲張りですね!?」
お高い武器に色めき立った業突く張りたちが、前に出て必死な顔をして顔を突き合わせる。
掛け声とともに数度のジャンケンが繰り返され、最後に負けたアリサは歯切りしして勝ち残ったビーストテイマーサキを睨みつけていた。
「こんの、サキ! あんたこんなのいらないでしょ、よこしなさいよ!」
「そりゃこっちの台詞だよ。使う気ないくせに、はしたないくらいに欲しがって。アタシに貰われたほうがこの黒光りする可愛い釘ちゃんも浮かばれるってもんさ!」
みっともなく罵り合う女二人に場が緩んだが、ガネーシャ神が咳払いをして気を引き締める。
「では突入までの作戦内容を確認するぞう。現在も街の外ではこのワシ、ガネーシャ神の本体とアンフィスバエナが蜘蛛型魔獣術式『ヴォイジャー・フォー・デッド』と戦闘中。敵術式内部への侵入はワシの本体がサポートする」
ガネーシャ神は机の上に地図を開き、指差しながら説明した。
「何はともかく、まずお前たちは街の外に出なきゃならんが、街はワシの作った結界で閉じとる。そのため門の周辺のみ結界に穴を作る。当然そこには敵術式の子機が殺到してくるじゃろう、お前達はまず結界の修復完了までそれを防衛して、終わったら街から離れた場所にある指定のポイントまで移動じゃ。そこまで来たら後はワシに任せんしゃい。空中からの突入予定の者も、そこまでは共同してくれ」
作戦と言っても細かいものではない、大まかな段取り程度のものだ。実際の動きはすべて個々人に裁量になる。
それは冒険者たちの足並みを無理に揃えさせようとしても無駄であるからというだけではない、曲がりなりにもここに集まった者たちは、いかなる危険も顧みずこの街を救うため集まってきた勇敢なる戦士だ。
ガネーシャ神は彼らを信頼に置くことに決めたのだ。
「後のことはお主たちに任せる!! 準備はいいか、蛮勇を誇る偉大なる大馬鹿どもたちよ!!」
この言葉に、冒険者たちは拳を握りしめ、胸の闘志を奮い立たせた。
ガネーシャ神が激励を浴びせている頃、肉樹の虚では帰還したハングドマンが術師であるラウル・クルーガーと向き合っていた。
すでに戦闘で終わった傷は完治しており、衣服まで完全再生して汚れ一つない姿で真っ直ぐに立っている。
「――ということだ。力足らずで申し訳ないが、彼はもうすぐここに来るだろう」
「ほう、それはそれは……」
相変わらず魔獣に取り込まれた犠牲者が――殺してくれ――と哀れな合唱を響かせてくる中で、ハングドマンは冷静な予想を語った。彼は、万葉靖治の行動を予見していたのだ。
「そんなに長く話したのではないが、彼の眼は君にとても良く似ていた。何が合っても前へ進み続ける、そのような人間だよ。だからきっと、ここへ来るさ」
それを聞いたラウルは、車椅子の肘置きを握りしめ、薄気味悪い笑い声を漏らしている。
「来るか……クフフ……」
「あぁ、来るだろうとも。観測してみたが、すでに彼は行動を開始しているようだよ」
確信を持ってハングドマンが手をかざすと、手の平に現れたのは街の西門前に集まった冒険者たちのホログラムだった。
その中の一人、伊達眼鏡を少年をズームアップされるのを見て、ラウルは高圧的な態度の下に歓喜を秘めて鼻を鳴らした。
「フン、失敗してノコノコと戻ってきた時は信じられない気持ちであったが、結果的には良い方向に運んでくれたと一応は感謝しよう。そうか、彼がそうなのか。この少年の方から来てくれるとは、なんとも光栄で喜ばしいことではないか。やはり死の因子は、この術式に惹かれ合ってここに来たか? これが運命だというのか? ならばそれは、我が行いを祝福してくれていると言っていい」
好きなように解釈して、とうとう笑いを抑えきれなくなったラウルは、声を響かせながら車椅子を前へ動かす。
「フハハ! こんなに華やかな気分は息子の結婚式以来だよ、ワシ自ら歓迎せねばなぁ。来るがいい。死の因子、死を識る者、死の超克者よ。お前が我が災厄術式と混じった時、ワシは本懐に辿り着くのだ。ク、クク、クハハハハハハハハハ!!!」
野心を胸にラウルが肉樹のもとから去り、通路の暗がりに消えていく姿を、ハングドマンはその場に立ったまま何も言わず見送った。
それから目を伏せた彼は空気中のナノマシンを集めて、目の前にピアノを一つこしらえた。
椅子に腰を下ろしたハングドマンは、やせ細った指でお得意の鎮魂歌を奏で始める。
「――モーツァルト、レクイエムニ短調第13曲神の小羊――」
自らの演奏に合わせて彼は歌った、救いを求める歌を、安寧を求める歌を。
誰かの代わりに、誰かのために、誰も願っていないにもかかわらず。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,miserere nobis.
神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、我らをあわれみ給え。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,miserere nobis.
神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、我らをあわれみ給え。
Agnus Dei, qui tollis peccata mundi,dona nobis pacem.
神の子羊、世の罪を除きたもう主よ、我らに平安を与え給え。
――殺して―― ――殺してよぉ―― ――殺してくれぇ――――
――――殺してぇぇぇぇぇぇぇぇ――
悲鳴に重ねられ、ハングドマンの整った歌声が空気を震わせる。
だが肉樹に囚われた人々は苦悶に必死で聞く耳を持たず、その麗しい歌を聞くものは誰もいない。
それでもハングドマンは歌い続けた、これからこの忌まわしい死地に集まるすべての人のために。




