174話『届く声』
「私はアイツの存在そのものが、嬉しくって仕方ない。靖治が今日も生きていてくれている、そのことが誇りだよ。産まれてきてくれて本当に良かった」
靖治の生存を我が身の幸せのように語る満希那は、歯を見せてにっと笑っていた。
その言葉の意味が、イリスにもわかる気がした。
靖治の笑顔が、声が、言葉が、イリスの胸にも残っている。それが今のイリスを形作ってくれている。
――靖治がいたから、自分がいる。そのことにイリスは瞳を伏せて胸が満たされるのを感じた。
「そうですね……私も、靖治さんが生まれてきてくれて良かった……」
靖治との出会いでイリスは生まれたし、靖治の存在がアリサとナハトとも引き合わせてくれた。
優しい靖治と、世話を焼きなアリサと、落ち込みやすいがいざって時には頼りになるナハト。
みんな、みんな素晴らしい、イリスにとって誇れる仲間。
「今のみんなと一緒に、いつかの来る終わりまで、平穏無事に歩んでいきたいです――――」
――――けて
何者かの声が胸の奥に到来して、イリスは瞳を開いた。
「――! これは……」
謎の声にコアを揺り動かされて、瞳の色をざわめかせたイリスが椅子を蹴って立ち上がり、真っ白な天蓋を仰ぎ見る。
周囲を見渡すイリスに、満希那が眼鏡の奥から訝しむような視線を送った。
「どうした?」
「声が……声が聞こえたんです」
「声? 現実の体に呼びかけられたんだろ、肉体に干渉されれば夢にも響く」
冷静に推察した満希那は、あまり気に留めずティーカップのココアを音を立ててすすっている。
だがイリスはそれで納得に至らず、なおも声の主を探そうとした。
「いえ、違います。知らない声……いえ、懐かしいような……とにかく身近にいる誰の声でもないです」
「気のせいじゃないのか、ここは隔絶したお前の夢の世界だぞ」
「でも、でも確かに……」
――――助けて――助けてよぉ――
今度こそハッキリと聞こえた。イリスの胸の奥に直接届いてくるような声は身に迫る悲痛さがあった。
「また聞こえた! 幻聴なんかじゃない、確かに誰かが私に助けを求めてます!」
満希那が目をしばたかせる前で、イリスは確信を得て険しい顔をしている。
「この声……無視しちゃいけない気がする……」
瞳を震わせながら冷や汗を足らすイリスの姿を見て、それまで楽観的に構えていた満希那も表情を引き締め、夢に用意したテーブル一式をかき消して立ち上がった。
「探るぞイリス、意識の垣根を超えて声を届けるなんて尋常じゃあない。それが本当に単なるSOSか、あるいは悪意を持った罠か、ここでその正体を見極める必要がある」
「ハイ! でも確かめるってどうやって……」
「お前は耳を澄まし続けろ! その声に意識を傾けるんだ、逆探知は私がやる」
そう言いながら満希那が手をかざすと、彼女の周囲にホログラム状のモニターやキーボードのような入力機器が現れる。どういう仕組みかはわからないが、この夢の中で起こっている出来事を解析しようとしているようだ。
満希那に任せ、イリスはもっとよく声を聞こうとした。自然と両手は祈るように組まれ、ギュッとまぶたが閉じられる。
「お願い、もっと声を……あなたの声を聴かせて……」
――けて――助けて――助け――――
イリスが祈れば声は絶え間なく響いてきた。
それを満希那のほうでも補足したようで、モニターの片隅に座標を示す光点がポンと表示される。
「声を捉えた……出処は……夢と現実の境界線上近く、酷く曖昧なところからだ。その声を発してるやつはまともな状態じゃないぞ、自発的な行動じゃなけりゃこれは……」
眉間にシワを寄せて考え込む満希那は、強硬手段に出た。
「イリス、ここを出て詳細座標へ向かうぞ」
「どうするんです!?」
「このお前の夢を崩壊させる! ちょっとした幽体離脱みたいなもんだ。お前の魂が現実へと引き戻される瞬間を利用し、世界を飛ぶぞ!」
「え、えぇ!?」
突然の宣告にイリスが慌てるのを無視し、満希那は白衣のポケットに手を突っ込むと、奥からおもちゃのような物体を取り出した。
ゴムでできた袋の口に注射器を埋め込んだようなそれを握ると、イリスの胸に服の上から勢いよく突き刺した。
夢とはいえ、体の奥深くに異物を挿入され、イリスは目をむいた。
「いたぁ!? 何するんです!?」
「お前のフォースマテリアルを利用する。この夢の空間をフォースマテリアルでいっぱいにすればキャパオーバーでぶっ壊れるはずだ」
満希那の解説が終わるやいなや、イリスの胸のコアが強制的に起動して熱くなり、作り出されるフォースマテリアルがこの夢の場所にまで届いてくる。
溢れ出したマテリアルが突き刺したゴム袋の中に注入されると、袋がプクーっと風船のように膨れ上がって、あっという間に二人の頭上を塞ぐほどまで巨大化した。
「えっ……うぇぇぇぇぇぇ!?」
目を丸くするイリスが心の準備を完了するより早く、風船は『バァァン!!!!』と大砲のような音を立てて破裂し、それに続いて真っ白な夢の世界がガラスのごとく砕け散った。
足元が崩壊し、真っ暗闇の空間に放り出されたイリスは、天と地もわからない世界の狭間で血相を変えて悲鳴を上げる。
「きゃぁああああああ!?」
「命はなんだって自分だけの世界を創り出す力を持っている、夢とは何もない領域に創られた自己世界。夢から放り出されれば、そこは世界の裏側だ」
宇宙空間にも似た暗闇でイリスが夢我夢中に手足を振り回すのをよそに、満希那は直立の姿勢で裏世界を流されながら逐次モニターをチェックしている。
「大丈夫なんですかそれ!?」
「意識をしっかり保たないと自己存在が暗黒に溶けて消滅する。しっかり自分の名前を思い出しとけ。今はこの領域を飛び回るぞ」
「え、えぇ!? えーと、私はイリス! 私はイリスですよー!!」
無情に返されてイリスは慌てて名前を声に出す。だがそのあいだにも、頭の片隅ではしっかりと謎の声のことを意識していた。
声はやはり繰り返し届いてきて、満希那もそれをチェックしていた。彼女はイリスの腕を掴んで引っ張ると、暗闇の空間で白衣をたなびかせて飛び回る。
移動を開始しながら、少しずつ冷静になってきたイリスの目に、段々と風景のようなもので見え始めた。
空のような青々しい地平線のような、あるいは水平線のようなものから、無数の白いモヤのようなものが暗黒空間に伸びてきていて、その先はフラスコのように膨らんで奥に何かが透けて見える。
「あれはなんですか? 天井……いや地面? から伸びた煙のような……」
「他のやつらの夢だ。みな眠りの扉から現実を抜け出し、こうやって独自の世界を形成している。同時にあれらが現実の世界を支えてるんだ。それより今は急ぎ飛ぶぞ! 魂だけで活動する今の我々に、時間も空間も関係ない!」
二人の体は暗闇の中で一気に加速して、周囲の夢々が猛スピードで後ろに過ぎ去っていく。
イリスが目を回しそうになっていたが、すぐに満希那は移動を停止して青の天蓋を仰ぎ見た。
「座標はここだ! 現実で言うと明石付近だな。イリス、まだ声は聞こえてるか!?」
「ハイ、ずっと!」
「よし……エコーから現実での状況投影に成功! モニターに映すぞ!」
解析を終えた満希那はホログラムのモニターを巨大化させてイリスにも見やすくすると、そこに探り出した光景を映し出した。
最初はモザイクのような状態だったが次第に鮮明に現れだす。見え始めたのは海沿いの地形と、地形を踏み荒らす巨大な物体だ。
崖を崩し、木々をへし折りながら突き進むのは、どうやら『赤黒い蜘蛛』のような形をしていた。
「これは、蜘蛛……?」
「それなりにでかいな、頭の先から肛門までの体長はおよそ100メートル、だが体積との質量比がイカれてる、内部が異空間化してるようだ。後体の盛り上がった上部に木のような構造物……いや、待て、何だこれは……」
赤黒い蜘蛛のようなそれは、満希那の言う通り体の後ろ側の膨れ上がった部分から、更に巨大な木のようなものが生えていて、葉のない暗い枝を天へと突き上げていた。
その姿をハッキリと視認したからだろうか、イリスに届いてくる声が急に明瞭になりだす。
――――助けて……助けて……助けてよぉ……――
「この声、聞き覚えが……」
メモリーの奥底を刺激する声に、イリスが胸騒ぎを覚える。
その隣で、満希那が顔色を変えていきり立った声を上げた。
「これは木じゃない! 肉体を溶かされて互いに接続された生物でできてやがる! いや、この蜘蛛全体がそうなんだ!! 声の出処は、後部の肉の樹を構成する一個人からだ!! なんだこのふざけた物体は!?」
あらゆる生命に対する冒涜とも言える存在に、満希那は怒りを露わにして叫んだ。
現実に立つそれは、地形にベッタリと張り付くヘドロを固めてできたような脚で体を支えており、それらもまた人を含む何らかの生命体によってできていた。
人も、犬も、猫も、鳥も、魚も、獣も、まともに分類されないモンスターも、材料になりうるものなら片っ端から溶かして合わされ固められて、その歪で冒涜的な魔獣の一つと融合させられていた。
「この女の子の声を、私は知ってる……そうだ、この声は三百年前の東京で!」
モニターに映る絶望の体現するような魔獣を見つめ、イリスが驚きと悲痛に痛む胸を握りしめながら声を震わせる。
「私がまだ東京の病院務めの看護ロボだったころに、よく病院に遊びに来てて、虐殺の時に私の目の前で散っていった女の子……!」
――――助けて、ロボちゃん――――
「天羽……月読さん……!!」
とうに失われたと思っていた過去を、今イリスは、未来を見つめる虹の瞳に写していた。
現実の世界で、それは巨体で木々をなぎ倒し、地を削りながら歩いていた。
ドロドロの何かを無理矢理に蜘蛛の形に固めたような赤黒い体躯。
顔面からは通常の蜘蛛にはない大鎌の腕が生えていて、それが邪魔な山を破壊し、膨れ上がった後体部からは塔の如き巨大な樹がそびえ立つ。
見るからに異様な姿であるが、それよりもっと恐ろしい事実に、実際に近づいたものはみな恐れおののくこととなった。
耳を澄ますと聞こえてくる、その蜘蛛を構成するモノから溢れ出す怨嗟よりもおぞましい嘆きが――――
――殺して――――殺してぇぇぇぇ――
――殺して―― ―――殺してよぉ――― ――おねがい……殺して―― ――いやだぁぁぁ、こんなのいやだぁぁぁ――
――おかあちゃぁぁぁんおとうちゃぁぁぁぁん―― ―――わおん、わおん――― ―――ごめんなさいごめんなさいごめんなさい、はやく殺してぇぇ―――
――にゃぁ……にゃ……にゃぁ……―― ――たすけて……たすけ……殺してぇ……―― ――ギェッ……グッ……―― ―――ころ、ころころころころ、殺してぇぇぇぇ―――
その蜘蛛の魔獣となったの液体のように溶かされて、再び固められた生き物であったが、なおも恐ろしいのはすべてが”生きている”というところであった。
そうだ、すべて生きていた。子供から老人まで、猫の一匹に至るまであらゆる生物が材料として利用されながら延命され、生かされ続けたまま悲痛な叫びを上げていた。
魔獣の表面には彼ら彼女らの顔が浮き出ていて、そのどれもがこの世のものとは思えない恐怖の表情を浮かべている。
恐ろしさに開かれた口から垂れ流されるのは死を望んだおぞましい願いであり、繰り返し見せられる悪夢に苛まされるかのように、延々と悲願を叫んでいる。
その嘆きの集合体の中で、肉樹の根本、その内部にある空間に座す、車椅子に乗った老人の姿があった。
黒い外套を着込んだ老人は、白い髪と髭を生やした彫りの深い顔を力なく仰向かせて、無数の嘆きの声を聞いている。
「死を……賛美せよ……」
ふと、老人が呟いた。肉樹の嘆きにもなおも埋もれぬ、地の底から現れてすべての幸福を呪うような恐ろしい声で、永き刻と深い絶望により増大させた憎悪で。
がっくりと頭をうなだらせて、けれども力のない体の奥底からは身が張り裂けんばかりの激情が渦巻いていて、老いた体を押して呪詛を唱えさせる。
「我が下で死を求めよ、死を讃えよ。魂を振り絞り、心をねじ切りながら叫ぶのだ。さすれば幾億もの嘆きの果てに、きっと、必ずや、我が願いは成就せん」
それは妄執だった。世界をかき乱す漆黒のエゴだった。
おぞましきを語る彼は、黒い瞳の奥で悪しきを凝縮させた炎を燈して征く先を見据える。
「我が名はラウル……ラウル・クルーガー……死を妄信し、死を追い求める、死の崇拝者なり」
現世を睨め上げる彼の瞳は、どこまでも過去を見る昏い瞳をしていた。
七章【過去を見るは昏き瞳】
七章【過去を見る】
七章【】
七章
七章'
七章dash
七章dash【未来を向くは虹の瞳】 to be continued
――翌朝、テイルネットワーク社の宿の一室で、イリスが目を覚ます。
窓から差し込む朝日を受けてこわばった顔を見せる彼女は、すでに起きていた靖治へと振り返って強く輝く虹の瞳を見せた。
「靖治さん。私、行かなきゃいけません」
もちっとだけ七章が続くんじゃ。
続きは明後日です。




