170話『いつか共に可能性の星を見よう』
今回、投稿して最初の一時間くらいはつい恥ずかしがるイリスを載せてしまってたのですが「やっぱイリスにそういうのはまだ早い!!!」ということでちょっと修正しました。最初に読んだ人ごめんなさい。
「――靖治さん、いますよね?」
可愛らしい耳に残る声に、靖治は眼を丸くしてつい振り向いてしまう。
視線の先にいたのは、白銀の体を月明かりで照らす、メイド服を脱いだイリスの姿だった。
光沢のある流線型の美しい体を湯けむりの中で晒し、いつもはポニーテールに結んだ長い銀髪を入浴に合わせて頭の上でまとめている。
入浴に相応しい、人間で言う裸の姿となったイリスが、はにかみながら立っているのを見て、靖治は思わず見惚れて呆けていた。
「イリス……」
「えへへ、来ちゃいました。お邪魔してしまってすみませんが、一応あっちへ向いててもらえますか? あまり見せ過ぎるのはよくないとナハトさんが教えてくれましたから」
「あっ、うんそうだね」
靖治は慌ててそっぽを向いて、イリスのスペースを開けるよう湯船の奥に移動した。
「どうしてここに? 今は男子の時間じゃあ……」
「岩おばさんに頼んで時間をずらしてもらいました。今は関係者のみですから、他の方は来られませんよ」
ここの宿の温泉は時間帯によって男女を切り替えている。靖治は一番遅い時間にやってきたのだが、そこに岩おばさんが融通を効かせてくれたらしい。
「入りますよー……」
イリスが秘密事を楽しむ子供みたいに、そーっと言いながら湯船に足を差し入れてきた。
無駄のないスリムなボディが水面を跳ねさせ、チャプチャプと音を鳴らすのが靖治の耳にも届いてきた。
あのかわいいイリスが身にまとったものを脱ぎ、無防備な姿でそばに来ている。
いつも通りの静かな表情でいる靖治だが、正直、興奮した。相手がロボットとかそういうのは関係ない、この状況に昂ぶる程度には彼とて青少年だった。
とは言え相手がイリスだ、ここで男の欲望をむき出しにするには彼女は純粋すぎる。
靖治は深く呼吸して胸の高鳴りを鎮める。昔とった杵柄というやつだ、こういう時には発作で死なないよう興奮を抑えてきた実績が役に立つ。
そうして気を落ち着かせていると、イリスが背中合わせにくっついてきて、彼女のまとめた髪の毛がポフッと靖治の後頭部に柔らかくぶつかってきた。
硬い金属の肩を重ねながら、イリスが緊張を和らげるかのように息を吐く。
「ふぅ……」
「……今日も色々あったねぇ」
「ハイ、得難い一日でした」
靖治が話しかけるとイリスは熱っぽい声で答えた。きっと月夜を見上げる彼女の眼は、嬉しさに輝いているのだろうと、靖治にはその様子が鮮やかに思い浮かべられた。
だがイリスはしばらく黙り込むと、やがて神妙な声で口を開いてくる。
「靖治さん、実は今日のことで、感じたことがもう一つあるんです」
「……うん、なんだい?」
背中合わせのまま、靖治は慎重に耳を澄ます。
「私は私の中の欲に気付いた時、世界の広がりを感じた。でも同時に、私の有り様を定められてしまった気がするんです」
イリスは、どこか物寂しそうに呟いた。
「自分の存在理由が規定されて自己が明確になると共に、段々と自分が小さい存在に思えてきました。私はこの広い世界の中でたった一人でしかなくて、手の届く距離は狭く、自分のことで精一杯。自分の可能性に気づけた一方で、私は私の命の限界を突きつけられた気がします」
人はみな選択の毎に少しだけ成長して、その度に自らの可能性を少しずつ削っている。あり得たかもしれない未来を放棄することで、一秒後の現実を手に入れる。
そうしてふと気付くのだ、この世界の広さに比べて、自分がいかに限界の近い限られた存在であるかと。
「それでも靖治さんは、私の可能性を信じてくれますか?」
そのことにイリスは戸惑いと不安を覚えていた。それを感じ取った靖治は、しばし目を伏せてから、自分のこれまでを思い返して瞳を開く。
「イリス、結局は命というのは有限なのかもしれない。無限大なんて人の空想でしかなくて、命の可能性はいつだって限られていると思う、僕は身をもってそれを知っている。いずれ死に包まれるボクタチはみんな、限界のある存在だ」
靖治の始まりは死に触れたことから始まった。
死に触れ、死の優しさを知り、生きることを諦めて良いと思いながらも、姉の「生きてくれ」という言葉に惹かれてギリギリのところで命を繋いだ。
それからも病に苦しむ靖治の可能性は限りなく狭いものだった。生きるためにあらゆるものを諦めながら生きてきた。
だからこそ万葉靖治は誰よりも自らの限界を自覚している。限界を知り尽くしているからこそ、生と死の瀬戸際を渡ってここまで生き長らえた。
だけどイリスに必要なのは、そんな死地へ向かうための言葉ではないはずだ。
「けど、その上で言うよ。イリス、君に限界なんてないんだ。どんな枠組みだって超えていける強さを君は持っている」
同じ夜空を見上げながら、おとぎ話のような無責任な誇大妄想を、靖治は恐れず実直に言葉にして見せた。
「イリスの中にある小さな願いから、以前よりもっと大きなものを手に入れていける。だから大丈夫だよ、君の命は、君が思っているよりずっと強く、大きいんだ」
イリスは瞳を揺らし、感じた希望に虹を煌めかせた。これらの言葉が誠心誠意のものだとわかった。
矛盾している言葉を、とても強く言い聞かせてくれる。一分の迷いもなく、澄み切った瞳で信じてくれている。
理屈を超えて信頼を寄せてくれる靖治の親愛が、とても熱くイリスの胸元を沸かせてくれる。
「ありがとうございます、靖治さん。私はそれが聞きたかった……」
そしてイリスは、靖治ならこう言ってくれると信じてこうした二人きりで話しかけに来たのだ。
全部わかっていた。きっと自分を元気づけるためなら、どんなことだってしてくれる人だと知っていた。
大丈夫だ。この人が自分を信じて、その先に創っていく未来をワクワクしながら見ていてくれるのなら、正しく自分は無限大だと思えたのだ。きっとこの気持があれば、やっぱり限界なんて踏み倒して進んでいけるんだとイリスは信じられた。
「でもね、靖治さん。あなたが言った言葉は、私からあなたに伝えたいことでもあるんですよ?」
イリスは繰り返すように唱えると、もたれかかっていた体を起こして靖治へと振り向いた。
まだ肉の少ない頼りなさそうな少年の背中に近づき、そっと胸の前に腕を回して肩に抱きついた。
「――――いつか、あなたの創る未来を、みんなと一緒に見たいです」
これが、イリスが一番伝えたい言葉だった。
靖治はイリスを信じてくれている、彼女なら予想もつかない素敵な未来を創り出してくれるかけがえない存在であると。
だから同様に、イリスもまた靖治に可能性を見て、それを信じていたのだ。あらゆる可能性を捨ててきた彼でも、きっとイリスの想像を超えた何かを創って行けるはずなのだと。
どんなに彼が、自分の未来に希望を持っていない人でも。
「……うん、そうなると良いね」
頷いた靖治の言葉は、薄っぺらかった。自分が何かを達成するだなんて露ほども信じていない、ただイリスの行く道を閉ざそうとすまいとするだけの気遣いだった。
イリスはそのことに苦く笑いながらも、悲しむことはしなかった。
やっぱり、彼は諦めた人だ。世界に面白いことが起こると期待を持っていても、自分自身が世界を沸かせられると信じていない。
だからこそ彼は今まで命を繋いでこれたのだから、それだって認めねばならないのだけれど、そのままではどうにも空虚だ。それはきっと、寂しいと言うのだろうなとイリスは思った。
だから繰り返し胸の内で唱える、彼の成し得る何かを絶対に共に見るんだと。
いつか必ずそんな日が来ることを、例え彼自身が信じられなかったとしても、そばにいる自分は信じて――。
そう思っているイリスの後ろから、ガラガラと戸が開く音が聞こえてきた。
「あー、休みだってのに疲れたわね。とっとと綺麗になって休むわよ」
「あら、そんなにせかせかせずとも良いではありませんか。お背中流しますわよ?」
「イヤよ、あんた手つきがエッチぃのよエロ天使!」
「まぁ、酷い。日々頑張るお母さんへのねぎらいをと……」
「だから、アンタまであたしをオカン扱いすなっ」
やがて濡れた床をぺたぺたと歩きながらやってきたアリサとナハトが、湯船に浸かっていた靖治と、彼に後ろから抱きつくイリスと目を合わせて、それぞれ盛大に驚いた反応を見せた。
「うぎゃぁっ!?」
「まぁっ!」
「ヤッホー、二人ともこんばんは」
「お先に入ってます!!」
手枷を嵌めただけのアリサのツルリンとした真っ平らな体と、ナハトのボリューミ~な体を靖治はしっかりと目に焼き付ける。
ナハトは悦びに顔を明るくさせながらも、その豊潤な肉体をさり気な~くタオルで隠す。こういう時には若干見えないほうが男はそそると彼女は心得ていた。
意中の男が裸で目の前にいる状況に目を輝かせるナハトだが、その隣に立つアリサは手枷のはまった手を握ってわなわなと震わせていた。
「まあまあセイジさんったら! 混浴がお望みならば一言お申し付けてくだされば……って、アリサさん?」
「こ……こ……こ……こんの、ドスケベ変態男がぁー!!!」
自分の裸体を見られた恥ずかしさと、無垢なイリスをそばに置く男への軽蔑と、その他諸々の鬱憤が爆裂してアリサの怒声が響き渡る。
「あたしの裸を見たのもムカつくけど、純粋さにつけ込んでまっぱでイリスはべらせて嬉しいかアンタァー!!?」
「あ、アリサさん落ち着きなさって!?」
「ちょっ、誤解ですアリサさーん!!?」
「あははははー、怒ったアリサもやっぱりかわいぐへばらっ!!!」
「せ、靖治さーん!!!」
投げ捨てられた風呂桶が靖治の頭にぶつかって、パッカーン、ザブーンと靖治の体は湯船に沈むのだった。
◇ ◆ ◇
それから誤解も解けた後、風呂から上がった靖治は食堂のテーブルに着き、赤くなった額を撫でて痛みに口の端を歪めながらもどこか楽しそうに目元は笑っていた。
「いてて……」
「なんだい、怒られて落ち込んでるかと思ってたのにだらしない顔しちゃって」
そう言いながらお盆を手にやってきたのは、この宿を取り仕切る岩おばさんだ。
今日の仕事も終わった彼女は、ゴツゴツした岩の指で緑茶の注がれた湯呑を靖治の前に置いてくれる。
「どーもどーも。みんなと一緒にいられるなら、このくらい安いもんですよ」
「なるほどねぇ、こりゃあアリサちゃんが苦労するわけだ」
件のアリサは、靖治が無理矢理イリスを連れ込んだわけじゃないと知ると、もごもごと小さい声で「悪かったわよ……」と謝ってくれた。
それに靖治は「いいさ別に、みんなの裸見れてハッピーだしね!!」と正直に言ったら「やっぱ別に謝る必要なかった気がするわ」と白い目で見られたが、まあいいだろう。
三人はまだ温泉にいて、荒れた心を癒やしているはずだ。
「イリスちゃん、一日で随分と空気が変わったね」
「えぇ、彼女はいつだって成長していきますよ」
「可能性に溢れた子だよ、あんたらみんないい子だねぇ」
イリスの変化に気付いていた岩おばさんは、しみじみと岩でできた顔を頷かせると、向かいの椅子に大柄な体を座らせた。
「……なぁ、セイジくん。今日一日考えたんだけどねぇ、良かったらアンタたちこの街に住まわないかい?」
そう言われ、湯呑を傾けていた靖治は驚きで目を丸くした。
岩おばさんはこの数日間、靖治たちに働いてもらったことを通して、こうやって誘うくらいには彼らのことを丸ごと気に入っていたのだ。
「アタシが口利きすりゃ、この街で仕事に困ることはないさ。キョウトに行くって話だが、行ったところで定住権をゲットできるかはわからないんだ。ここに住むのも十分良い選択肢だってアタシは思うけどね」
靖治たちの目標は一応京都に行って住まいを探すことにある。できるだけ安全な場所で靖治の人生を過ごさせたいという、イリスたっての願いだ。
だが岩おばさんの誘いもまた魅力的なものではある。ここの街は交通の要所のためにそれなりに規模は大きいし、小さな街よりかは安定した生活が送れるだろう。
ただ静かに過ごすだけであるなら願ってもないお誘いだ。だが靖治は、胸中にある思いから眉を寄せ、申し訳無さそうに断った。
「……ありがとうございます、好意はありがたいです。でも僕は京都に行きます」
「そりゃキョウトやオーサカみたいなデカイ街ほど安全じゃないけど、ここだっていい場所だよ? みんな精一杯生きられてる」
「いえ、そうじゃないんです。僕は行かなきゃならないんです」
靖治の顔立ちは硬いものがあった。信念とは違う、何かに急かされたものだった。
仲間には言っていない秘密。超越者の魔女から伝えられた、京都に姉を知る者がいると言うこと。
この1000年後に生きる靖治には、姉の手がかりを辿る”責務”があった。
その顔色から並々ならぬ意思を感じた岩おばさんは、硬い顔で靖治を睨んで鋭い言葉で問いかける。
「……それ、お仲間さんたちには言ってんのかい?」
「……まだです」
「かーっ、やだねぇ。あんな良い女の子たち、泣かせちゃダメだよ」
岩おばさんは口を酸っぱくしながらも、それ以上うるさく言うことはしなかった。多分パーティで中で、これで靖治が一番頑固なのだとどこかで感じていたのだろう。
「わかった、止めやしないよ。でもそしたらね、あと一日だけイリスちゃんをアタシに預けてくれないかい? イリスちゃんの料理の上達についてね、一つ考えてることがあるんだ。実行に移すことに気後れしてたけどね」
「と言うと、何か懸念でも?」
靖治の問いかけに、岩おばさんは肩を落とした。
「イリスちゃんは純粋な子だよ、無垢で穢れを知らない。アタシが考えてるのは、そこに一滴の毒を垂らすような方法でね。別に何も犯罪をやらせるってわけじゃないよ? でもこれは、人間の持つ我欲を教えることだ、これは悪意を持つにも繋がることに思う」
岩おばさんの話に、ちょうど今日あった出来事が重なり靖治は顔を緊張させる。
「アタシは悩むね。あの純粋なイリスちゃんにそれをしていいものか。生まれたての赤ん坊に毒を飲ませるような、そんな罪深いことなんじゃないかって気がしてたんだ」
語られた言葉は思いやりがあった。一方的な善意でなく、本当にそれでイリスが良き方向へ進めるか案じてくれていた。
そう感じた靖治は口元を緩めると、軽く頭を下げる。
「まず最初に、そこまでイリスのことで考えていただいてありがとうございます、本人に代わってお礼を言わせてください。そしてもう一つ、これまた本人に代わって……と言うと身勝手すぎかもしれませんけど、それでも言わせてください」
靖治は先程と同じように、迷いのない信頼で口にした。
「大丈夫ですよ。彼女には力がある、辛いことがあってもそれを使ってよりよい未来を切り拓けるそんな素晴らしい心を持ったロボットです。おばさんが教えたことで、彼女の中に悪心が芽生えたとしても、イリスはそれを超えて新しい可能性を作り出せる」
信頼を聞き、今度は岩おばさんは驚きに固まっていたようだった。
熱い言葉を吐いた靖治だが、それはそれとして岩おばさんの不安もわかるので、少しだけ同じ気持ちを吐露する。
「無垢な彼女を前にして、自分がそれに相応しい人間なのか試されているような気になりますよね」
「そうだねぇ……果たして、アタシがあの娘に何かを教えるなんてしていいのか、それを許されるほど清らかな人間かってね。いや、おばさんは岩なんだけどね。ワハハハ」
夜も遅いのでちょっと静かめに、しかし快活に笑った岩おばさんは、何か納得したようだ。
「うん、そうさね。迷ってたんだけど、今のイリスちゃんの顔と、セイジくんの言葉で決心がついたよ。信じてあげなきゃ始まらないよね」
「考えてることがあるなら、お願いします。こっちとしてもイリスが学べる機会はありがたいですから」
それから靖治は伊達眼鏡を光らせると頬を意地悪そうに吊り上げて、内緒事のように口元に人差し指を立てた。
「それに僕もちょっと試したいことがありましてね、どっちにしろ罠に嵌めますし」
「なんだい、悪いこと考えてる顔して」
「ハハッ、ちょびっと驚かしてみたくてね」
渇いた笑いを上げながら、靖治はぬるくなってきたお茶をすする。
ともかく悪巧みをしながらも、その日の話はそれで終わった。




