155話『マキナハートの底意』
「そうか、イリス本人がそこに思い至ったか」
靖治の見ている前で、誰ぞかの本のページを捲りながらしわがれ声を返したのは、小さな体を本の上に座らせたシオリだった。いつものごとく眼鏡の下にある眼は読んでいる本から動かさず、飾り気のない言葉を並べてくる。
この可愛い姿の魔女のために、靖治はちょくちょく夢を通してブラックモニュメントという名を(勝手に)付けられた小世界にやってきては世間話に耽っていた。
「うん。アリサづてに聞いた話だとそういうことらしいよ」
とはいえ今回、靖治がシオリとの雑談に持ってきたネタは少し真面目な話で、イリスの過去に関することだ。温泉に浸かりながらイリスが話したその話を、靖治はお風呂から上がったアリサから又聞きしてここに持ってきた。
ここでの話は靖治としてはとても楽しい。シオリの言葉は尊大で上から目線だが、正しさや間違いに頓着しない彼女の物言いは、聴く側にとって安らぎがあった。
「その言い方からすると、シオリンはイリスの昔も知ってたんだ」
「だからそれ止めろと……まあな。ワタシはお前たちの物語には目を通しておいた、各々のバックボーンも斜め読み程度には把握している」
「なるほどね、もぐもぐ」
黒い底なしの天井の下で無限の本に囲まれた薄暗い世界の中で、シオリは延々と人の人生をまとめた本を読み続けている。その本はテイルネットワーク社に登録した冒険者は例外なく登録されているし、靖治はもちろんイリスの人生だって綴られている。
おおよそを把握しながらも一歩引いたスタンスを崩さないシオリに、靖治はどこか心地よさを覚えながら口の中のものを飲み込む。
「ゴクン。少し不思議な感覚だね。事件は凄惨極まりないけど、それがあったからこそ僕はイリスと出会えた」
「因果の糸とはそういうものだ。互いにもつれ絡み合い、惨劇から生まれる光もある。不幸にへこたれながらも弱っちい人間どもはそれに縋って生きていくしかない。哀れだが醜く、しかしどいつもしぶとい」
かつてのイリスの眼の前で、助けるべき月読という少女が無残に殺された。悲しい話だが、それがイリスを今に導いた事柄の一つであるからに、靖治はそれを闇雲に否定するのでなく大切にしたいと感じていた。そのことを考えながら靖治は口を動かす。
「もぐもぐ」
「というか何をしてるんだお前ら」
「リリムさんにチーズケーキごちそうになってるよ!」
「はい、セイジちゃんあ~ン♪」
「ありがとございまあ~ん。ん~、おいしいね!」
「ウチの書庫はキャバクラでも喫茶店でも無いぞ貴様ら」
今しがた椅子に座った靖治からシックなテーブルの向かい側にいるのは、異世界を飛び越える超越者の一人。どこぞの世界で魔王さんをやっているというリリムという魔族のべっぴんさんであった。
柔らかい甘やかしオーラを醸しながらリリムが傷だらけの手で差し出してくるチーズケーキを頬張って、靖治はご満悦に頬を緩ませる。
いっそ破廉恥なコミュニケーションをとる二人に、シオリが呆れて読んでいた本を膝に置くと苦言を飛ばしてきた。
「リリム・エル・イヴ。お前は操を立てている男がいるだろうに」
「あら? それはそれとして頑張ってる子は男も女も関係なく愛でたいもの~♪」
「そして僕は綺麗なお姉さんに可愛がってもらえて幸せ、win-winだね!」
「この様子を記録して、女どものところに送りつけてやろうかな……」
読書スペースを侵略されたシオリは物凄ぉく嫌そうに眉間にシワを寄せていたが、すぐにまた本の文字に視線を戻した。彼女とて大概周囲を気にしない性格である。
「ところで、シオリンが気にするってことは、それってイリスにとって重要な記憶なのかい?」
靖治が話をした時に、シオリは最初に『そこに思い至ったか』と言った。まるで以前からこの出来事に対して深い関心を寄せていたような言い方だ。
そこに疑問を持って尋ねると、シオリが珍しく文句もないのに本から視線を離して、まっすぐ靖治を射抜いてきた。
「逆に聞こうか、それがイリスの性質を形作る、重要なファクターの一つでないと思うのか?」
「興味深いとは思うよ。かつてイリスが働いていた頃の記憶、それも中々にショッキングな内容だ、現在のイリスならその思い出から色んな気持ちを取り出せそうだよね。でもまだ自我が芽生える前の、直接の感想を覚えないころの出来事じゃないのかい? 最近のイリスが何かを感じるのはわかるけど、シオリの言い方だとすでに影響があったように聞こえるよ」
「そうだと言っているんだよ、認識が甘いな」
靖治の察しの悪さを蔑むかのようにシオリは見下す視線を浴びせた後、ゆっくりと説明を始めてくれた。
「知性に関わらず、万象において記憶というのは何にでも溜まるんだ。脳の回路に、魂に、眼球に、肉体の細胞に、大地に、空間にな。物の記録を読み取るサイコメトリーなんて超能力もあるくらいだし、そこら辺の石ころが数億年前の記憶を持っていたりする。加えて人の生き死にには強烈なパワーが放出される。フィルムに光が焼き付くように、強度の高い出来事はそれだけ濃く残りやすい」
「ふむ、なるほど……」
シオリが唱えるようであれば、虐殺という衝撃的な過去は色褪せない記録としてこの世界に留まっていてもおかしくない。
「イリスが魂を会得した時点で深層心理にその情報が貯蔵されている可能性は十分ある。もしかしたらイリスという存在は、無意識下に護るべき人間が失われる場面が刻まれているのかもしれない。例え当時は何の感慨も覚えなくとも、何かの度にその記憶が疼いて影響してくる可能性は十二分にある。あるいは自我が発生した要因の一つがそれですらあるかもな」
「ある意味、イリスの始まりがそれってことかい」
「かもな。だがまあ、最終的にそれを決めるのはイリス自身だ」
そこまで言うとシオリはまた本を持ち上げて読書に戻る。どうやらイリスの存在を左右しうる記憶であることは靖治にもわかった。
すると様子を見ていたリリムが、ほんわかな態度の下から心配そうな気持ちを滲ませて話しかけてきた。
「イリスちゃんの今後には気を付けてあげてねセイジちゃん。術式やプログラムから生まれた人造の命というのは脆いものだから、特にイリスちゃんは発祥からして純粋だからね」
「発祥って、イリスが生まれたパターンってそれほど特別なんですか?」
「特別というか、生まれた命の種類としてというか……」
靖治の問いに対してリリムは唇を下から指で押し上げて返答に迷い、やがて開き直った笑顔をシオリへと向けた。
「シオリちゃん、こっちも説明お願い♪」
「なんでそこでワタシに振るんだ」
「だって~、生まれや人格形成なんかはシオリちゃんの専門でしょ?」
「別に物語を読んでるだけで、専門家というわけじゃないんだがな……」
面倒そうに肩を落とすシオリだが、今度もまた靖治のためにレクチャーしてくれた。
「お前も知るように、イリスの性格は極めて純粋無垢だ。知らないことに出逢えばどんなものでも吸収し、覚えた感情を否定せずに自らの一部として受け止める。そうなったのには、彼女の生まれが看護ロボから発生した自我である点が大本の理由と言っていい」
「看護ロボなのがそんなに違うのかい?」
「人は機械を作る時に『あんな機械がいい、こういう機械がいい』というのを考える。それは世のため人のためという純粋な願いもあれば、我欲から生じたものもある。自分に都合の良い機械であって欲しい。逆らわないで欲しい。従えたい、利用したい。支配欲、不信、不安、恐怖、そんなエゴを持って組まれたプログラムは、自我が発生した場合に人格に影が落ちる。余計な邪念を持って作られた機械ほど、発生した自我は憎悪や悲観に囚われた、矛盾を持った人格になりやすいというわけだ」
つまりはプログラム設計段階からの製作者の思惑が、そのまま生まれた心の雛形になるというわけだ。
「その点、イリスはベースがただ怪我人や病人を励まして元気づける、人を助けるためだけのプログラムだ。だから発生した自我も純粋になる」
シオリは手に持っていた本を閉じ、横にあった別の本を手に取った。
白い装丁を施された本のタイトルは”イリス”。彼女の本を膝の上において表紙を撫でるシオリは、慈愛を持って愛でるかのような穏やかな瞳でそっと呟いた。
「彼女の綴る物語は綺麗だ。怒っても憎まず。羨んでも妬まず……とは言えすべてはうつろうけどな、周囲の影響で心の負の側面も覚えるだろう。現に不安がっているぞ、お前がこの先どうなるかとな」
「僕が……」
「いや、言い過ぎたか。忘れろ、余計な干渉は趣味じゃない。ワタシが読みたいのはお前自身が綴った物語なんだからな」
直接的な心情をぶつけることを嫌い、シオリはあくまで客観的な意見までに言葉を留める。
そんな彼女を愛おしげに見つめたリリムは、にっこり笑って靖治へと振り返る。
「シオリちゃんが言う通り、生まれにどんな意思がこもるかは重要なのよ。だから魂を人為的に造ろうとすると難しかったりするの。造られた魂は創造主のエゴに引きずられて、他人を憎んだり自己否定したりして、たいてい心のバランスを崩して狂ってしまう。だからイリスちゃんは綺麗なまま生まれてラッキーね」
「造られたAIが人類に反旗を翻す、なんてのもベタな話だ。人類が精神のバランスを取れてない世界だとそうもなる」
「そっか、そんなにイリスは得難い存在なんだね」
イリスの命の尊さをわかっていたつもりの靖治であったが、改めて彼女の特殊性を知り、靖治は言いようのない熱い思いが込み上げてきた。
「うん、1000年後の世界で、最初に出会えたのが彼女で良かった」
「まあ、そんなイリスをこいつは騙して京都まで連れてってもらおうとしてるわけだが」
「うっ」
シオリの言葉がグサリと突き刺さり、靖治は苦しそうに目を剥いた。
安住の地を目指して京都に行こうとするイリスと、姉の手がかりを追うために京都へ向かおうとする靖治。目的地は同じだが、イリスが姉のことを詮索して欲しくないことをわかりながら、靖治は彼女の気持ちを利用している気持ちだ。
そのことは流石に後ろめたいのか、胸を抑えて机に突っ伏した靖治は、重々しいプレッシャーに包まれる。
「………」
「……………」
「…………………は、反省してます」
ようやく絞り出した言葉に、シオリは呆れるようにため息を付く。
テーブルに倒れる靖治のつむじを、向かいにいたリリムが頬に手を当てながら眺めていた。
「セイジちゃん珍しく項垂れてるわねぇ~」
「それだけそのことに執着してるということだろうさ。逆に言えばそれこそがコイツの主柱になりうる」
しかし靖治の姑息さを、シオリは決して否定はしなかった。
幾億の人間を見つめ続けていた深い黒の眼で、靖治の奥底を見つめて愚行と捉えながら、捻じ曲げることはしない。
「本質的に生き死にすら頓着していないコイツが、他人の気持ちを押し退けでも得ようとしてるんだ。コイツの中に残った絞りカスに反応するだけの何かなんだろうさ。せいぜい大切にでもしてろ、そして後悔するが良いさ。その愚かさをワタシが読んでやるんだからな」
「シオリ……」
そこに善意もなく悪意もない、ただ靖治が次に足を進めるのはどちらか、そこへの関心だけがあった。
ただただ目の前の愚かなヒトのありようを見守ってくれるシオリに、靖治は勇気づけられる思いで突っ伏した顔を起き上がらせる。
「ありがとうシオリン、ちょっと元気出たよ」
「シオリンやめろ」
感激余って飛びつこうとした靖治の顔面に、シオリが手近な本を叩きつけて迎撃する。
撃沈した靖治が「あぎゃん」と痛みにもんどり打って倒れるのを見ながら、リリムが嬉しそうに笑みをこぼす。
「うふふ、誰もが愚かで可愛い子たち、ということね。シオリちゃん♪」
「ワタシに同意を求めるな。人間なぞ愚かであるところは同意するがな」
リリムは椅子から立って靖治のそばで屈んで笑いかけた。
「セイジちゃんも、イリスちゃんのことかわいがってあげてね♪」
「もちろんです、出来る限りのことはやりますよ」
靖治は痛む顔面を押さえながら、自分の意志で言葉を返して立ち上がる。
「今はイリスちゃんと料理の練習中なのよね。何かするつもり?」
「ひとまずイリスが料理を上達できるように手伝いますけど、イリス自身が味に目覚める方向でアプローチしてみようかと思ってます。僕のために料理の練習をしてくれるのは嬉しいですけど、イリスにはできるだけ多くの視点を得て欲しい。いくつもの生き方を選べるように、世界にいくつもの価値と意味を見つけて欲しい。だからイリスが食事を美味しく頂けるようになれば最高かなって思うんです」
靖治としては料理と並行してイリスに色んなものを食べさせてみて、美味しさを感じられるかを探っていくことになる。
成果があるかはわからないが物は試しだ。例え美味しいという情緒を学べなくても、その繰り返しにいつか意味は宿ると考えていた。
「うん、いいわねぇ~。好きな人のために足掻く姿、青春だわ♪ シオリちゃんはアドバイスない?」
「知らん。ロボットの味覚なぞ専門外だ。イリスが自分で適任者に探るだろうさ」
そう言ったシオリがイリスの本を開いてページを撫でる。そこに記載されていたのは彼女の『夢』に関する記述。
「イリスの相談相手が誰かいるの?」
「黙秘だ。他人のプライベートを守る程度にはワタシとてデリカシーがある」
「そっか。でもイリスに頼れる相手がいるのはちょっと安心したな」
こうして話題にしていると、靖治はふとイリスと話したくなった。
またあの明るい顔と綺麗な虹の瞳を見つめながら、前向きな彼女の言葉を聞きたい。透明な心に触れたい。
だが今は互いに眠りの中だ。靖治の心は夢にいるわけだが、イリスはどうだろう?
「イリスも寝てるはずだけど、夢を見たりするのかな」
「当然、見るとも。知性があれば誰だって夢を見ることが出来る。だが夢の出来事は別次元の出来事に等しい、その記憶を機械が呼び出すのは難しいだろうな」
「へぇ、そっかぁ……」
それでも機械が夢を見れるなんて、文字通り夢がある話じゃないかと靖治は思った。
そうできる心があるのは素晴らしいことだ。イリスには数限りない可能性が眠っている、彼女なら多くの道を切り拓いていけると靖治は信じていた。
「機械が見る夢か……イリスはどんな夢を見てるんだろう」
シオリン……シオリンに膝枕してもらいたいよ。
愚かな人間性に蔑まれた視線を送られてながらも、そんな自分を受け止めてもらいながら安らぎの中で眠りたいよ……()
次の投稿は三日後になります、ご了承くだせぇ。




