139話『錯綜する胸の奥』
ナハトは靖治とともに辿ってきた水路へと続く鉄扉の前で、石の建物を背に片膝を立てて座り、引き締められた瞳で眼の前を見つめていた。
傍らには亡失剣を内側に覆った呪符を片腕に抱き、一瞬も気を緩まさずに神経を張り詰めさせて、やがて来たる時に備えて精神を一極に集中させていた。
鎧こそまとってはいないがすでに臨戦態勢。抜身の刃のような雰囲気の下から、更に赤黒い血に塗れた気配が滲み出し、今のナハトは傷一つない端正な顔と純白の片翼を掲げながら、どこかおぞましい姿をしているようにも見えた。
時折、この遺跡地下の住人であるスライムヒューマンが様子を見に来ては、ナハトの鋭い眼光を見ただけで「ピャー!!」と泣き声を上げて逃げていく。闘争から離れた種族だそうだが、それでも生物的な本能はまだ覚えているらしい。
この石造りの街に到着した時には、天井の疑似天空照明は青空を作り出していたが、すでに日が暮れ始めており、天蓋模様は朱く黄昏時の雰囲気を作り出していた。
不思議なものだ、ナハトが生まれた世界では天候を再現する魔法など指折りの術師でないと行使できなかったが、この遺跡のスライムヒューマンたちは誰にでも扱える技術としてそれを確立し、先祖代々受け継いできたという。
天蓋に映し出された太陽は本物と同様のシガイセンやらセキガイセンやらの光線を放っているとかで――いまいちナハトには理解がしづらかったが――ここが地下でありながら屋外と同様の環境を作っており、植物の育成や、もっと頑張れば農耕まで遺跡内部で行えるという。
他にも遺跡地下を流れている水の源も周囲の空気中から作り出しているもので、空気が乾ききらない限りは実質無限に水が作られるそうで、探せば更に奇想天外な技術が山盛りなのだろう。
ハヤテも言っていたが、ここは一大拠点になりうる可能性の宝庫だ。ワンダフルワールドにおいて、安全性と広大さを併せ持った集落は本当に数が少ないが、この遺跡をまるごと生活区域に変えればオーサカや京都などの有数の街に匹敵する規模となる。
またスライムヒューマンたちの温和な性格や文化も貴重なものだ、こんな混沌とした世界だからこそ彼らのような争いと無縁な存在たちは貴重であり、他にないものを生み出せるかもしれない。
いくつもの観点から見ても、この街は聖騎士が護るに相応しい――――
どうでもいい。
頭の裏側からそんな声がして心が同意した。
戦場にて花の美しさに惑うなど不要、ただ敵を鏖殺するのみ。
そればかりを教えられてきた。
そればかりをしてきた――――
――――あぁ、嫌だ。またそうやって誰かに従ってばかり。
自分はこれまで、自分を殺し、命令に身を尽くした、求められる役割だけを律儀にこなしてきた。
戦場では殺戮者となり、民衆を相手にはきらびやかな半天使を気取り、社交界では女らしく振る舞った。
自分らしさなどどこにもない、どの笑みも偽りで、どこにも本心がない。
果たして、これからの自分は何のために戦おうとしている? 何のためにスライムたちを護ろうとしている?
「……わたくしは弱い」
ナハト・マーネはそう思う。
かつて言葉に惑わされ、血で血を拭って人を殺し続け。
その罪を自覚しても、自らの首をはねることも出来ず。
あろうことか放浪の末、優しい人に頼り、生き永らえている。
「ネームロス……サリーを殺し、あなたを手にした時から。わたくしは変わっていませんね」
傍らの呪符の中で眠りにつく相棒へ語りかける。
これまでずっと自己を鍛錬してきた、あらゆる任務を全うできるよう研ぎ澄ましてきた、神のご意思に逆らえぬよう戒めてきた。
だがそれは手先が器用になっただけ。
結局自分は、かつてあの可憐な友達を殺したあの日からちっとも成長などできてやしない。
ナハトが一振りの刃を相棒として迎えたのは、試練としてサリーを殺し、都に戻ってからすぐのことだ。
友を殺し、酷く打ち拉がれていたまだ9歳の女の子を、団長は聖騎士団の武器庫に連れて行った。
『ナハト、その手で御前に相応しい武器を手に取るといい』
沈んだ雰囲気の藏の中にはあらゆる武器が収められていた。
名工による聖剣と呼ばれるもの、魔道士が作り出した特殊な魔具、誰でも扱える普通の剣や盾から、あまり使用者が見られない珍品。
剣、槍、槌、斧、棍棒、短刀、杖、鞭、弓、弩、更には投石機や鉤爪のついた篭手まで。
だがナハトはそれらは一瞥しただけに終わり興味を持たなかった。
やがて倉庫を広く見回したナハトは、隅にあった物に吸い付くように視線を引かれると、おずおずとそちらに歩みだしだ。
『これ……』
布切れを粗雑に巻かれて、戸棚の隣に立てかけられていたのが、刃こぼれだらけの刀剣だった。
ナハトが住んでいる地域ではあまり見慣れぬ背の沿った刀身、柄は砕けており内側にあるべき茎がむき出しになっている。
その不吉そうな佇まいを見つめていると、頭上から団長が重たい響き声で語った。
『それはかつて先代が遠征の折に、異教徒の軍勢に勝利して手に入れた異国の品だ。戦利品であるが聖騎士団の団員を幾人も切り捨てた魔剣である。その禍々しさから名を剥奪し、力を封じたものだ』
元は大層な名剣だったのだろう。ここまでボロボロになっても尚も巻かれた布の隙間から覗く刃は煌めいており、長年放置されていそうなのにわずかにも錆びておらず、不思議な力を感じられた。
ナハトは一目見て"似ているな"と思った。
『これがいいです、団長』
人でもなく天使でもないハーフエンジェルであり、罪を背負った生まれとされ、友達をも殺した自分は、もう二度と間違ってはならないと思った。
そんな目の前に、遠い異国の地で名すら奪われた刀剣がある。
『その剣は我らを憎んでいるやもしれぬぞ』
『構いません、その方が良い』
手に取ってみた、鉄の冷たさが手の平に伝わってきて、持ち上げただけで刀身が震えているようにも感じる。
反抗か、それとも怯えか? どちらかはわからない、だがその奥底にはこの剣の”芯”があるような気がした。
布の隙間から刃を指でなぞってみる。軽く触れただけで指先が斬れ、滴った紅い血が巻いていた布に染み付いていく。
血を帯びた剣が、嬉しそうに煌めきを帯びる。
『こんなに傷ついて、地獄を見たの? ……なら、もう一度連れて行ってあげる。穢れたわたくしを、もっとも傍で見張っていて』
――それからこの剣は今もナハトの傍にある。
亡失剣ネームロス、これからすれば侵略者たる聖騎士団に奪われ、その末席の騎士に使われるなど屈辱で仕方ないだろう。傷ついた身を戦場へ担ぎ出すナハトのことをさぞや憎んでいることだろう。
ならばこそ良い。
「……ネームロス、もしわたくしがどうしようもない外道になったらば、その時は……あなたがわたくしを斬ってね」
そう語りかけるナハトの眼は、数時間ぶりに優しく和らいだ。
これ以上、堕ちようものなら、きっとこの剣が自分を止めてくれる、そんな危険な安堵を覚えていたのだ。
死のうと思って死にきれず、靖治たちのもとに拠り所を見出し、しかしなおそれでも、ナハトはまだ自分の隣に死を置いていた。
サリーを殺したあの日のように、また自分が罪を犯しそうになったならば、その時にこそ、こんな自分など死んでしまえばいい。実際にその時に潔く死ねるかは不安だが、そう思って亡失剣を供としていた。
「――来た」
鉄の扉の向こうから気配を感じ、ナハトは顔を上げて表情を引き締めた。
遅れて足音がわずかに聞こえてきて、やがて近付いてきて扉の前で止まると、ギィィィと耳障りな音を立てながら開かれる。
まるで死を連れ歩く不吉の使者のように、シルクハットをかぶった紫色のローブの男が、細長いペストマスクの下からナハトを見つめてきた。




