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1000年後に、虹の瞳と旅をする。  作者: 電脳ドリル
六章【朝へ向かう夜の狩人】
142/235

135話『ナハト・マーネの追想:後編』

 9歳の頃の穏やかな気候のある日、わたくしは団長と国境を越え、遠方の村へとやってきた。小さな村、のどかな村、違う神様を祀っている村。

 団長はこれも訓練の一つだと、この村で友達を作りなさいと言ってきた。

 わたくしは生まれて初めて翼を隠し、背中を隠した。一般人を装って、旅人の子供だと嘘をついて、でも本当に人と仲良くなりたくて村の子供たちに近付いた。


 一週間、わたくしは村のみんなと打ち解けたんだ。一緒に遊んで、農作業を手伝って、編み物を習って。

 とくにサリーという同年代の女の子とわたくしは仲良くなったんだ、流れるような黒髪が宝石のように綺麗で、濃い色の肌だけど笑うとっても可愛かった。

 彼女は優しくて、親の手伝いを良くするいい子で、村の外から来たわたくしにも分け隔てなく遊んでくれた。


「ワタシね、サリーっていうの! よろしくねナハトちゃん!」


 サリーは良い子だった、大それた夢はないけど、将来素敵な人と結婚して家庭を育めたら幸せだと、それ自体が夢だと語っていた。

 頭が良くて、けれど出しゃばらなくて、ふるまいの奥底に素朴な善性を感じられて、異教徒でもこんなに良い子がいるんだと感心した。


「ナハトちゃんって頭が良いしカッコいいし、とっても素敵だね!」


 あの子はわたくしがこの村を旅立っても友達だよと、またいつか一緒に美味しいご飯を食べようねって言ってくれた。

 出会ってから短い時間だったけど、彼女は初めて親友だと確信できるような人だった。

 サリーは神様だって優しくしてしまうような良い子だったのだ。




 なのに――なのに――――


「なのに――どうしてこうなるんですか!?」




 闇が訪れる真夜中、村が真っ赤に燃えている。天へ昇る黒煙が星空を覆い隠していく。

 子供も、大人も、男も女も切り裂かれ、どんどん地面が血塗れになる。悲鳴を砕くように馬の蹄の音が走り回る、振り抜かれる剣が逃げ惑う村の住民を流れるように駆逐していく。

 突然の凶行、その真っ只中で、家の奥に追い詰められたサリーと、彼女の両親の血で汚れた剣を持つ団長の前で、わたくしは愕然としていた。


「――これは、試験だ」


 団長が言う。窓から入る赤い光で、硬い顔を照らしてわたくしを見やる。サリーに剣を突きつけて、恐怖と絶望で涙を流す彼女の体を壁の端に縫い付けながら。

 村を襲ったのは野盗などではなかった。アガム教団が統率する聖騎士団、つまりは団長の部下たちだった。その中でもとびっきり教団への信仰が篤くて、精鋭と呼ばれる部類。

 わたくしも彼らとは交流があった、一緒に混じって訓練をしたりしたし、休憩時間にも彼らから可愛がられたりしていた。

 そんな人達が酷いことをしている。盗賊のような身なりで顔を隠し、鍛え抜かれた技術で手際よく村を侵掠していく。公平さなどどこにもない殺戮。


「神の教えを広めねばならんのだ、そのためにこの村は邪魔だった」


 異教徒だから、違う神を信仰しているから、だから殺しているのだと団長は重たい声でそういった。火に照らされた横顔はとても硬くて、まるで人の形をした鉄のようだ。

 わたくしの足元、団長がナイフを投げて床に突き刺した。小さいが、人一人殺すには十分すぎるほどの刃。


「ナハト、お前の入団試験だ。そのナイフで、この娘を殺せ」


 わたくしは怯えるサリーの顔を見て、一瞬言葉を失った。


「でも、そんな……団長様は、仲良くしろって……!」

「聖騎士には、時として心を鉄にして望まねばならない。神のご意思となれば、血を分けた家族だろうが切り伏せる覚悟がいる」

「い、異教徒でも、みんなはわたくしに優しくしてくれました!」

「だがこれが神のご意思だ。神は繁栄を望んでいる、我々は敵に打ち克ち神の声を広めねばならぬ。そのためならありとあらゆる手段を講じるのが我ら聖騎士団の役目」


 残酷なことを言う団長は、濁った眼でワタシを一瞥した。


「不名誉であると気にする必要はない、村は賊に襲われただけ。神の意志を届けることに比べれば些事だ」

「些細……これが……!?」


 村が燃えている、見知った人が家の外で絶命していくのを悲鳴から感じる。

 命が消える、異教徒の命、でもだからってこんな……こんな……!


「ぁ……あ……ぁ……!」


 わたくしの目の前で、あんなに可愛かったサリーが恐怖に固まった可哀想な顔をして、言葉にもならない悲鳴を口の端から漏らしている。

 そのか弱い姿にいたたまれなくなり、わたくしは必死に跪いて団長へ頭を下げた。


「や、やめてください! 何もそんなことしなくて良いじゃないですか! お願いします、大切な友達なんです、みんなが誇れるような優しい子なんです! 助けてあげてください、お願いします、せめてこの子だけでも見逃して……」

「ならん! ここでこの子を生かしてどうなる!? 無垢な子供とて、やがて我らを憎み神の敵となる。彼女を見逃せば、いずれお前の胸に刃を突き立てに来るぞ。ならば今のうちに芽を摘まねばならない!!」


 もはや外からは悲鳴すら聞こえない、村の生き残りは今ここにいるサリーだけ。

 仲の良いサリーが大人になってから、恐ろしい眼でわたくしに剣を振り下ろしてくる場面を想像してゾッとした。


「すでに賽は投げられた! お前が生まれた日に、あの御方がお前を拾ったその時に! 決定づけられた今日だ、お前が区切りを打たねばならん!」


 その時に、今まで言い聞かされてきたわたくしの命が穢れているということの意味が、どっと雪崩のように押し寄せてきた。


「散々セラエル様が申し付けてきただろう! お前は咎人だと、罪をそそがねばならんと!! 神託に則り、神の名のもとにあらゆる敵を討ち滅ぼすのだ!! それ以外にお前の生きる道はない!」

「やだ……やだ……やめて……やめてくだ……」

「お前は許されぬ身だ、おめおめと逃げ帰ったところでお前を迎え入れるものは誰一人としていない!! 街の人々も! 聖騎士団の仲間も! ワタシも! 天使用セラエル様も! 誰もお前を許しはしない!!」


 熾烈に叫ぶ団長が、目尻を強く締め付けると、呆然とするわたくしに切っ先を向けた。


「もし、お前が神の恩情を無下にするようであれば、神に代わりワタシがお前を斬る!!」


 怒号が去り、家の中は急に静まり返った。外で火が燃え、家屋が崩れ落ちる音がとても遠くに聞こえるのに、悲劇は間近から消え去ってくれない。


「こんなことをするために……わたくしは生まれてきたの……?」


 疑問には誰も答えてくれなかった。団長は怒った眼で、サリーは恐怖で見開かれた眼で、何も言わず何も言えず、こちらを見つめていた。

 わたくしは歯を食いしばると、眼の前のナイフを握って立ち上がった。


「ハッァ――ハァ――わ、わたくしは……わたくしは……許されない……」


 ナイフを持った右手が震えるのを左手で押さえる。あんなに訓練してきたのに呼吸が乱れていて、だけど自分でも怖いくらい刃の先は一点を集中してて離れてくれない。

 張り詰めた心が、一滴の涙を目尻から流させた。


「許されないから……やらなきゃ……!」


 今まで出会った人たちの顔が頭に過る。面倒を見てくれた家の召使い、小さい頃によく遊んだ友達、優しくしてくれた街の人々、聖騎士団のみんな、いつも貼り付いたような笑顔をしたセラエル様。

 ここでやらなければ彼らへの感謝に嘘をつくことになる。

 やらなきゃ、神託だから、神様に言われたとおりにしなきゃ。


 そうだ、これは神のご意思だ。そう思うとスッと手元が軽くなった。

 これは仕方ないことなんだ、だって神様がそう言ったんだから。これは決められていて、絶対遂行しなきゃいけなくて、じゃないとみんなを護るありがたい神様を穢すことになっちゃうから。


「大丈夫だよ、サリーちゃん……」

「な、ナハトちゃ……」

「だって、神様の意思で殺された人は、天国に行けて幸せになるって、セラエル様が言ってたから……!」


 うわ言のように呟いた、それはよくセラエル様が言っていた言葉だった。

 殺した人もあの世で幸せになれる、だから然るべき時が来ればためらうなと。そう騎士団の面々によく言っておられたのだ。


 意識が切り替わる。感情を隅へ追いやる。抑制を捨てて、十字を描かれた背中から自然と翼が伸びだした。

 純白の片翼が張り詰めて、大きく部屋の中で開かれる。右背に掛かるその輝く色に、壁に貼り付いていたサリーは一瞬怯えを失くしたように見えた。


「…………れい……」


 彼女の言葉を解読する間もなく、幼い頃から積み重ねられた研鑽が自動的にわたくしの身体を動かした。

 これから行うことの意味から怖れが消える。神様に、セラエル様に、団長に、みんなに言われたから、言われたから、言われたから。


 わたくしは足を踏み出して、手に持った刃を――


「――良いんだよ、ナハトちゃん」


 最後の一瞬、サリーは笑顔を浮かべてわたくしを受け入れて、直後に心臓を裂く感触が手に返ってきた。

 呆然とするわたくしの前で、表情から色が抜けたサリーが血を吐いてわたくしに寄り掛かる。

 肉の塊からナイフを引き抜いて後ろに下がると、サリーだったモノが床の上に音を立てて倒れた。

 広がる血が、炎の色を映している。


「いや……なんで……やめて……わたくしは……わたくしは自分が許されたくて……」


 サリーの声が、わたくしの感情を浮き彫りにした。わたくしはみんなから許されたくて、生きることの言い訳が欲しくて、わたくしの心でこの優しい人を殺しだ。

 神のご意思なんかじゃない、この子を殺したのはわたくしの意思。


「わたくしが……この子を殺した……?」


 涙は止まっていた、泣く資格もないと思った。

 お前の命は穢れているんだよと、頭の端っこで誰かが言っている。

 あぁそうだ、その通りだと、言い訳もできないほど突きつけられた現実は無慈悲なもので。

 わたくしは自分のために、友達を殺したんだ。


 神の意思でなく、わたくしの意思で殺した、ならサリーの魂はどこへ行く?


 この時、わたくしの背に一生解けない十字の重しがのしかかった。




 以後、訓練はより熾烈になった。

 痛みに耐える鍛錬もした、裸で縛り付けられ、一昼夜鞭で叩かれた。耐性をつけるためだと毒を食べさせられ、一週間ベッドの上で悶え苦しんだこともあった。

 また並行して人心掌握の勉強もした。特に念入りにやらされたのは床の上での振る舞い方だ、お前は将来美人になるから覚えておくと便利だと、色んなことを仕込まれた。


 厳しいなんてもんじゃなかった、自分の尊厳を徹底的に打ち砕くかのような内容だった。

 でもわたくしは一度も涙を流さなかった。強いからじゃない、そんな権利はどこにもないんだと、あの時に教えられたから。


 翌年には、もう戦場に立つようになった。

 期せずして世は混沌とし始めていた、セラエル様は世を平定するべしと唯一神アガムからの神託を受け、神の教えを広めるための戦争に乗り出した。暴威と謀略が渦巻く世界で、わたくしは教団のために力を尽くして何でもやった。


 いくつもの戦場で人を殺した。時として間諜として敵国に入り込み、綺麗な顔で情報を集め、その見返りに井戸に毒を投げて自陣へ帰った。

 必要とあれば誰とでも寝た。教団の支援者を慰めて資金援助の約束を取り付け、異教徒の重鎮を寝床で唇を塞ぎながら毒の針を突き刺した。わたくしが寝る相手は、みんな決まってブクブクと強欲に膨れていた。


 何でもした、何でもした。

 たまに街に帰ると市井の人々には模範たる半天使として振る舞いながら、戦場では翼が泥と血に塗れるのも厭わず、死の旋風となって駆けずり回った。


 殺した。

 殺した。

 殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。殺した。


 何でもした、何でもした。

 神へ祈りながらすべてをこなした。

 だってもうサリーみたいな子を出したくはなかったから、あの子はきっとわたくしが穢れた心で殺してしまったから、地獄に落ちてしまっただろう。

 だからもう誰もそうはしないように、みんな天国に連れて行ってあげられるように、自分を徹底的に律して、ひたすらセラエル様が伝える神の声に従った。

 神の名の下に、殺戮の限りを尽くした。


 そして、その果てに。


「それで……それで結局このざま……!?」


 すべてを暴いた運命の日は、聖騎士団の遠征中のことだった。

 セラエル様も同行する大々的な進軍。御旗を掲げ、神の威光を示しながら異教徒の村を焼いて突き進むさなか。


 極彩色のオーロラが我らの頭上に差し掛かったのだ。


 眼の前が真っ黒になって、気がついたら異郷の地。

 空気はまったく違う臭いで、偵察した時には見なかった山がそこにある。噂を聞いたこともない異形のモンスターに襲われ、常識外の能力と、銃という未知の武器を行使する盗賊が現れる。

 異常事態に混乱する聖騎士団をまとめ、やっとのことで辿り着いた村は明らかに目的地とは違う場所。

 団長とともに信頼できる団員だけで潜入し、酒場らしき場所にいた全身を鱗で覆った男の見た目に仰天しながら話を聞いた。


「あぁ、あんたら他の世界からこの肥溜めみてえな世界にやってきたな? 可愛そうなこった、まあオレらもみんな同じだがよ! ガハハハハ!!」


 神が世界を創ったと言い聞かされてきた、神が創り、護り、唯一人が住める世界がわたくしたちの生まれた場所なんだと教えられていた。

 でもこの世界じゃ唯一神アガムなんて名前は誰も知らなくて、わたくしたちの信仰は鼻で笑い飛ばされた。

 ここは唯一にして絶対の神アガム様の手が及ばぬ異世界、ワンダフルワールド。


 じゃあ神様は?



 神なんて本当は……いなかった……?




「あは……あははははははははは!!! 莫迦だ……莫迦みたい……みんなあんまりにも報われない!!!」


 わたくしは混乱する聖騎士団から抜け出し、一人流浪し始めた。

 長年の武器だけを手に、当てもなくさまよい歩き、とっくに捨てたと思い込んでいた涙で地を濡らした。


「神なんていなかった……なら、わたくしは……何のために、人を殺してきたんだ!!!」


 打ちひしがれて両手を振り回すわたくしの眼の前で、神をも討ち滅ぼしそうな巨大な竜が暴れている。

 恐ろしい風貌と人の身では敵わぬ躯体で、禍々しい悪魔のようなドス黒い敵を殴りつけている。一打ごとに世界が震え、風圧が遠く離れたここにまで届いてきて涙を乾かす。乾いた端からまた頬を濡らす。


「わたくしたちのやってたことなんて、大義なんてない、結局はただの戦争屋……あは……あはははははははは。殺してきたことなんて意味なんてないよ、なんて、散々殺し尽くしたあとで言うことか!?」


 支離滅裂に叫びながら守護者の暴威を眺めている、悪魔が血を吐き出し絶命するまで徹底的に打ちのめしながら、巨いなる竜はまだ足りないとばかりに吠え立てて敵を圧倒している。


「わたくしは決して許されない大罪人だ!!! 神がいないなら誰もこの罪を拭えない!! わたくしなんて死んだほうが良い俗物……死ね……死ね、死ね……!!!」


 まるで名案が思いついたかのように頭の奥がクリアになって、わたくしは呪符の下から刃こぼれした愛刀を掴み上げた。

 半端に封を解いて、呪符がまばらに巻き付いたままの刃を自分の方へと向ける。


「そうだ、死ね……こんな汚物まみれの首なんて即刻刎ねたほういい……今すぐ死ね……!!! 何人殺してきたと思ってる!!?」


 例え魔力を通さなくたってこれの切れ味は自分が一番知ってる。首に当てて思いっきり引けば、ギザギザの刃がえぐるような傷を作って死なせてくれる。

 かなり苦しむことになるだろうがちょうどいいじゃないか、こんな阿呆は苦しんでむごたらしく死ぬべきだ!!


「ハァー……ハァー……ハァー……!!!」


 虚ろな目で刃を見下ろし、息を呑んで首筋に当てる。

 刃が食い込み、わずかに裂けた皮の下から血が流れる。今まで垂れ流してきた血よりはずっと少ない、もっとだ、もっと血を流さないといけない。

 いけない、死なないといけないのに……手が動かない。

 あとちょっと手を引けばそれで終いだ、血走った眼で刀の先端を睨みながら手に力を込めているつもりで入るのに、まるで万力で締め付けられたみたいに手元がそれ以上動いてくれない。

 緊張で息を呑むと思いがけず刃が食い込んで、その鋭い痛みに背中に寒気が走って、恐怖の心が湧き上がってきた。


「う……うわぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」


 狂乱したわたくしは愛刀を首から離して、自分から遠く離れた場所に投げ捨てた。亡失剣は呪符ごと吹っ飛んで地面に突き刺さり、その場に縫い付けられる。

 遠くではついに敵を仕留めた巨竜が勝どきの咆哮を上げ、この身をビリビリと重たい振動を伝えてきていて、この身の小ささと哀れさを思い知らされるかのようだった。


「あ……ぁ……死ね……死ねない……怖い……死にたくない……!!!」


 わたくしは死ねなかった。別に何の特別な理由もない、ただ怖かったのだ。

 散々神のため、許されるために殺してきたわたくしだったのに、この期に及んで自分を殺すことだけは出来なかったのだ。


「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。死ねなくてごめんなさい、殺してきてごめんなさい、生まれてきてごめんなさい、ごめん、ごめんね……サリー……」


 愛しき名を呼ぶ。喪われた名、自分が世界から棄却した名。もうあの世界で、そんな名前を思い出すものはもういない。あぁ、なんてことをしてしまったんだろうか。


「うわ、うわぁ……うわぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああああああああああ!!!!」


 無限の悔恨に沈み、わたくしは地面の上にもんどり打って倒れ、もがき苦しみながら延々と涙を流し続けた。

 日が沈み、夜が老け、再び東の空から光が指すまで声を上げ続けた。

 だけどそんなことをしても何も変わらない、現実は依然としてわたくしを押し潰している。


 泣きつかれたわたくしは、荒い息をしながら顔を上げた。

 今まで共に人を斬り殺してきた武器が、日に照らされているのが眼に映った。


 結局、臆病なわたくしは過去を捨てきれず、命を捨てきれず、武器を持ったまま放浪を始めた。

 季節が移り変わりおよそ四年。ただただ自分は死ぬべきとだけ考えながら、当てもなくカオスな世界を漂った。

 飢えに飢え、幾度となく傷つき、時として賊に囚われ、痛めつけられながら罰だと思って噛み締め、でも死に切れず、浅ましく生き恥を晒して。

 わたくしはわたくしを否定し続けた。


「でも、あなたは生き残った。確かなのはそれですよ」


 ――死にたいとうそぶくわたくしに、そう残酷なことを言いながら、誰よりも優しい眼をした彼に出会うまで。




 ◇ ◆ ◇




 そうしてナハト・マーネはここにいる。

 命を捨てきれず、今は安らかな人のそばにいる。

 遺跡の地下で、優しい彼に縋りついたナハトは、穏やかな眼をして息をして。


「セイジさんの胸板……薄いのに、どうしてかしら。とても大きく感じる……」

「あはは、薄いのは余計だよ」

「あら、嫌ならもっと鍛えてみることです。あなたなら強くなれますよ」


 靖治の胸を手で撫でる。病弱のまま育った彼の体はとても頼りないのに、世界で一番安心して感じられた。

 片翼は力が抜けて地面に垂れ下がっている、思えばずっとこの羽根は張り詰めてきていた気がする。

 こんなに心が穏やかでいられるのはいつ以来だろうか。


「不思議、服を脱いでもいないのに、ピロートークでもしてるみたい」

「あんまりそういうこと言われると意識しちゃうんだけど」

「ふふ、もうここも張り詰めてますものね」

「やっぱりわざとか!」


 盛り上がった場所を指先で撫でながら、つい挑発的な笑みを投げかける。だってそれでも我慢してくれる彼が愛しくて、とても嬉しい。


「男と寝て楽しいと思ったことなんてなかったけれど、あなたとなら良いかも……」


 そう言いながらまどろみを覚え、ナハトは眼を閉じて、靖治のお腹に顔を埋める。


「でも今は、もう少しこのままで……」

「うん、おやすみ……ナハト」


 他に誰もいない暗がりで心を温め合う二人の様子を、しかして暗闇から見つめる瞳が一対。

 金色の眼、黒い毛並み、首から虹色の蝶の羽を生やした猫。

 名も知れぬ猫は二人の姿を、何も言わずに見守っていた。

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