134話『ナハト・マーネの追想:前編』
わたくし、ナハト・マーネは自らの半生を思い出す。
深く、暗闇に沈んだメモリーを――
それは冬の寒い日のこと。雪がまばらに降り積もる晩に、赤子の自分はゆりかごに寝かせられて教会の前に捨てられていたらしい。
両親は不明、それだけならただの捨て子なのだが、他と事情が違うのが背の白い片翼と、十字のアザだった。
天使、それは各地に点在して無辜の民を導き、神の御声を伝える代弁者。
神の教えを広め、人々の庇護する安寧の守護者たち。
しかしそれは両翼を持ちし神聖な存在であり、片翼しか持たない半天使など誰も聞いたことがない存在だった。
まだ赤子だった自分を拾ったのは一地方を統べるアガム教団の創始者にして導き手、天使長にして大天使セラエル。彼はわたくしを拾った時に「これは罪を背負いし、穢れた半天使である」と神の声を聞いたらしい。
一体どうやって生まれ落ちたかも知れぬ異端のハーフエンジェルをセラエル様は神の恩情で拾い、その身柄をアガム教団が運営する聖騎士団の団長である、アレックス・アルファという男のもとに預けた。
アレックス団長は聖騎士団始まっての天才であり、30歳には団長に選ばれながら振る舞いに一切の驕りなく、口数は少ないが一言一言に力を持ち、何があろうと忠実に任務をこなす、教団の要とも呼ばれた人だった。
独り身だった団長は、わたくしを育てる命を受けた。曲がりなりにも騎士団長を務める男の屋敷は広くて、召使いが何人かいた。団長が任務で家にいないあいだは彼女たちがわたくしの世話をしてくれたが、家にいるあいだは団長ができるかぎり面倒を見てくれた。
いつも眉一つ動かさないあの人は、赤ん坊の下の世話だって黙々とやっていたらしい。
物心ついた頃のわたくしは、実は団長のことがちょっと怖かった。だって彼は家にいないことも多かったから、召使いに可愛がられた時間のほうが長かったし、彼は寡黙で自分の話はほとんどしないから、どう接すればいいかよくわからなかったのだ。
それでも彼なりに小さな娘を育てようと頑張ってくれていて、休日には街に連れ出して美味しいものを食べさせてくれたり、演劇を見せてくれたりもした。
わたくしが召使いに頼んで掃除の真似事をやった時は、頭を撫でて「そうか、学ぶことはいいことだ」と言ってくれた。少し怖かったけど、少し嬉しかったのを覚えてる。
お互いに距離感を測りかねていたが、段々と仲良くなっていく、幼い頃のそんな日々。
そして自分の道を初めて示されたのは4歳の時。わたくしは騎士団長に案内され、教会に連れて行かれた。
わたくしの服は市井の子供と変わらぬ格好だったけれど、当時から十字のアザが描かれた背中は露出して、そして白い片翼をひっそりと伸ばしていた。別にそれは団長の趣味というわけでなく、天使長からの言いつけらしい。いっそ団長の趣味だったなら、あんな堅物も人なんだと笑えるのだけれど。
その日の騎士団長は磨かれた鎧を着込み、腰に剣を携えて聖騎士としての威厳を纏っていた。マントをなびかせる後ろ姿が、日の光で白く照らされていたをよく覚えている。
都市の真ん中に作られた教会は、世界で一番大きく、素晴らしい建築物だった。
澄んだ空気が漂い、誰もが物静かになる空間を団長と共に進む。その先に待っていたのは天使長セラエル様。ステンドグラスから降りてくる光に照らされたその姿は、いつにも増して神々しいものだった。
「それでは天使長セラエル様、神託に変わりはないのですか」
「あぁ、その通りだ。4年前、彼女を見つけた時にワタシはしかと、唯一神アガム様の声をこの耳に聴き届けた。この娘は、将来我らの教団を守る聖騎士にならねばならぬとな」
団長の疑問にセラエル様が峰から麓まで響き渡るような、どこまで通った声で返した。
その言葉に、幼いわたくしは思わず団長を見上げて尋ねた。
「せいきし? だんちょうさま、ナハトは騎士になるのですか?」
「あぁ、どうやらそうらしい」
いつもどおり短く答えた団長が、わたくしの背を押して天使長の御前に差し出した。
セラエル様は屈んで目線を合わせてきて、貼り付いたような笑顔でわたくしに語りかけてきた。
「ナハトや、汝の魂と肉体は産まれ落ちた時より罪で穢れている。お前は本来産まれるべき命でなく、呪われた存在なのだ」
「のろわれ……ナハトは、いてはいけないのですか?」
「本来はそうなのだとも、だが神の慈悲がお前をかろうじて護ってくれている」
そうしてあの方は、わたくしの胸に釘を打ち込む。
「アガム様はこの世界をお創りになられた慈悲深き存在だ、世界にかのお方の眼が届かぬ場所はなく、お前の善行も悪行もすべてを見ておられる。お前は聖騎士として手柄を立て、我らが神のために奉仕し続けるのだ。さすれば汝の生まれ持った罪はアガム様の息吹に寄ってそそがれ、いつの日か自由となる」
繰り返し、繰り返し、ずぐりずぐりと。
その言葉は以後、幾度となく投げかけられ、わたくしの中に埋め込まれることとなる。
けど幼い日のわたくしはその意味も知らないまま、無邪気に笑ってた。
「聖騎士となり神のために生きなさい、それが使命なのだ」
「はい、わかりました大天使様!」
聖騎士とは厄災を退け、民を襲う邪悪な魔物を討ち、天使と共に人々を安寧へと導く尊い使命を帯びた者。
唯一神アガムに一生をかけて奉仕し、人々の規範になる存在。
死後には神の国へと招かれ、幸福となる幸せな人間。
だが何よりも聖騎士の姿でわたくしの心を揺り動かしたのは、人を護るその姿勢だ。
神託を伝えられてから聖騎士の修行を始めるまでの短い間、幼い頃の自分は街の子供達と普通に遊んで暮らしていた。わたくしの存在は奇異だったけれど、教団と団長への全幅の信頼からわたくしを除け者にせず、みんなは受け入れてくれていた。
その日々の中で、友達の一人がペットがいなくなってしまったと泣いていた。話を聞けば、その子が親の言うことを聞かなかったがために、親が躾と称して可愛がっていたペットを山に捨ててきてしまったと言うのだ。
その山は凶暴な魔物も徘徊しており、護衛がなければ中に入ることも出来ない。子供が助けに行くことは不可能だ。
友達は泣いていたが、他の誰もどうにもしなかった。内心では酷いなと思っていた人は多かったが、他所の家庭の有り様にいちいち踏み込んだりはしなかった。みんな適当な慰めを掛けたり、あるいは「もっとちゃんと親の言うことを聞いてればよかった」と罪悪感をなすりつける人しかいなかった。
でもわたくしは納得がいかなくて。だって友達が泣いているのは可哀想だったし、言うことを聞かせるためにペットが生贄になるのは筋違いだと幼いながらに感じたのだ。だけどまだ弱かったわたくし一人には、どうにもならない問題だった。
だからわたくしは、たまたま休暇の日だった団長に相談した。たまの休みに帰ってきた彼に暗い話をするのは気後れしたが、あの人は面倒臭がらずにわたくしの話を最後まで聞いてくれた。
団長は、わたくしが話し終わった後で一つ聞いた。
「その子は泣いていたか?」
私が不安げな顔でうなずくと。
「そうか」
それだけ言い、彼は武具をまとい、一人で山へ出かけた。
戻ってきたのは日が暮れてから。団長は魔物の返り血を浴びながらも、友達のペットを抱えていた。毛が伸び放題だったペットの犬は、無傷で尻尾を振っていた。
団長はペットを家に送り届け、横暴だった両親にこんこんと家族のあり方を説いた。
子供はかけがえのない宝であり、血を分けた存在であり、あなたたちの分身のようなものであると。力づくで命じるのでなく、対等に目を合わせ子供のことを知り、まずは自分のごとく愛してみなさいと。家庭のために誰かを犠牲にするのは悪であり、ペットの命を生贄にするのは罪深いことであると。
「あなた方も今までの人生で辛いことがあったのでしょう、ならばそこから学んで与えるべきを子供に与えて上げなさい。そうすればその子はいつか、自らの意思で歩けるようになった時に、あなた方の抱えてきた無念を晴らしてくれるでしょう。そうやって優しさを受け継ぐことができる人間かを神は試している。あなた方がそうして正しく幸福な家庭を築ければ、神はあなた方を祝福し楽園へ連れて行ってくれます」
団長は人柄の悪かったその子の両親にも伝わるよう、彼らのためだけの言葉を選んでいた。彼の言葉に怒りや傲慢さはなく、誠実さだけがあった。泣いていた子供と、両親と、ペットの犬、一人ひとりのことを、彼は澄んだ眼で平等に見つめていた。
その夜、騎士団長はわたくしに一つだけ教えてくれた。
「それが子供であれ、動物であれ、泣いているものがいれば助けるのが聖騎士の務めだ。人はみな強いというわけではない、だからこそ他者のために剣となり盾となれる者が必要なのだ」
次いで「目の前の悲しみを良しとせず、より良き道を探したお前の行動は善きことだ」と言って、わたくしの頭を撫でて褒めてくれた。
それからわたくしは団長と同じベッドで眠り、彼のたくましい体を抱きしめて眠りに落ちた。鍛え抜かれ、たくさんの傷跡が残った体の中にある優しさがわたくしの誇りになり、理想の聖騎士の姿となった。
五歳になるのを待ってから、わたくしの鍛錬の日々が始まった。騎士団長から直々の指導、それは子供に与えるに行き過ぎたものだった。
毎日を日の出とともに起床し、日が沈むまで様々な訓練を受けた。一対一で魔法の練習をすることもあれば、大人に混じってトレーニングをしたり、木剣を使って本格的な剣術も教えられたし、時には山に行ってサバイバルの技術を実践とともに学んだりもした。
大変だった。半天使とはいえ幼少期は人間離れした回復能力も身についておらず、悲鳴を上げてしまうような筋肉痛の中を走らされたりもしたし、鍛錬の中で少しでも甘えを見せれば即座に頬を叩かれた。ただ筋力トレーニングだけは「将来のため」という理由で控えめにして、筋肉量よりもしなやかな体を目指した。その理由を知るのは後になってからだ。
あまりの厳しさに、召使いの中からもわたくしを心配し、やりすぎでは? これでは虐待ではありませんか? と物申した者もいたが、訓練で疲弊したわたくしの目の前で、団長は静かに返した。
「彼女には、これから先に人の身では堪えられぬような苦難が待ち受けている。それを乗り越えるため、彼女のためにもこれは必要なことなのだ。甘い言葉でナハトを惑わすようであれば、この屋敷から出ていってくれ」
圧のある彼の言葉に、誰もが押し黙った。心配する召使いたちに、わたくしは汗だらけの笑顔を作って大丈夫だと笑い返した。
でも本当は最初のうちは辛くて毎日枕を濡らしていた。みんなから尊敬を受ける聖騎士の裏側には血を吐くほどの努力があるのだと、嫌というほど教えられた。
それでもわたくしがそれに堪えれたのは、聖騎士という役柄に対する尊敬と憧れがあったからだ。
誰もが団長を敬っている、少し怖い顔の団員も、優しい街の人々も、態度の大きな貴族たちも。
もちろんわたくしだってそうだ、団長のことは家族のように敬愛していたし、彼の施す訓練は厳しいものだったが誠実な態度だった、わたくしの頬を叩く動作に一度だって私情が混じったことがなかった。
可哀想だと手を抜くことも、子供の弱さに苛立つこともなかった。彼も思うところがあったかもしれないのに、すべてを律し冷徹に徹した。まさに鉄のような人だ。
訓練の合間に、時たまセラエル様と謁見した時には、毎度のごとく生まれ落ちた時から穢れた咎人だと言い聞かされた。
けれど、当時はほとんど意識していなかった。
ただわたくしは聖騎士になってみんなを助けたかった。聖騎士になって正しいことをすれば後のことはどうにでもなると楽観的に思っていた。
そして九歳になったころ、団長に連れられてある村を訪れた。
それが、最初の任務だった。




