102話『あなたの物語をワタシに聞かせて』
パラリと本のページがめくられる音だけが辺りに響く。遠くで稼働している印刷機郡が発する騒音は、大量の本の壁に阻まれて届いてこない。
静かな世界、他に生きている生物は誰もいない。人はもちろん、地面を這う煩わしい虫だって出てこない。誰からも傷つけられず、誰も傷つけず、人間嫌いが引きこもるには理想の場所だ。そのように作った世界なのだ。
孤独で冷たく、だからこそ安らぐ、ゆりかごのような黒い空間で、少女の姿をした彼女は本の山に腰を下ろし、眼鏡ごしに文字を追っている。
シオリ・アルタ・エヴァンジェリン・グロウ・テイル。次元の壁をまたいで数多の異世界を観てきた黒の魔女。いくつもの異世界存在が集まっているワンダフルワールドに対して、自らの意思と業で干渉している数少ない超越者だった。
今しがた彼女が読んでいるのは、TN社を通して収集した人間の記録である。あの世界で生まれた、しかしどこにでもいる平凡な人間の歴史だ。
村で生まれ、両親にそこそこの愛情を持って接しられ、当たり前に恋をして、苦労しながら家族を作り、善人とも言うほどでなくされども悪人でもなく、おおよそ普通とでも形容すべきな人間のお話。
その中の一ページでは、老いた主人公が孫たちの遊び相手をする、何気ない日常のワンシーンが綴られていた。
それを読むシオリの顔は無表情で、果たしてどんな感情を抱いているのか余人には伺い知れない。
文字を追う黒い瞳にはあらゆる感情の色が映らない。瞳孔に宿るのは希望か失望か、あるいは安心か怒りか、羨望か軽蔑か、いくつもの感情がないようにもあるようにも見えた。
「――今日も読書か。精が出るな、黒の魔女よ」
そこに沸き立つ煙のように響いてきた渋い男の声が、読書の穏やかな静寂を破った。
声にシオリがぴくりと眉を動かして顔をあげると、視線の先にあった本の影から羽の生えた黒猫が音もなく歩み出てきた。
「相変わらず人間の生き様に興味津々であるな。本を通して他者の人生を垣間見るか、それもまた良かろう」
声の出処はその猫だった。首から虹色の蝶の羽を生やした黒猫『無名の神』が、シオリの前に歩み出てくると腰を下ろして首の羽を広げて見せた。
黒い世界、黒い少女、黒い猫、その中でいっとう煌めく目障りな虹色をシオリは冷めた目で見下して、不機嫌そうに舌打ちを鳴らす。
「っ、勝手に入ってきやがって。相変わらず鬱陶しいやつ」
「そう邪険にするでない。我とて友達と呼べる者は少ないのだ、歓迎してくれると嬉しい」
「誰が友達か。ワタシはそんなの作らないよ」
シオリはすぐに不躾な黒猫から本のページへ視線を戻した。
無名の神が本の上に登って隣にまでやって来たが彼のことは気にせずに、眼の前に広がった物語に埋まっていく。
「ニンゲンも本もみんな嫌いさ。どいつもこいつもバカでクズで救えなくて、活字なんて驕慢に満ちた悪性の塊だ。みんな呪いと傷跡ばかり作って野垂れ死んでいく。ワタシがしているのは、その愚かさの確認作業だよ」
「フッフッフ、言うではないか魔女よ」
「フン、何がおかしいのさ」
鼻を鳴らして見向きもしないシオリの隣で、無名の神は柔らかい肉球のある前足で、自分が乗った本の山をたしたしと叩いた。
「ここにある本は、ぞんざいに扱われているように見えて、すべて強靭な魔力で護られているのは何故だ? どれだけ踏みつけようと光と熱に晒そうと、お前の加護を受けてこれらは何万年と存在し続けるだろう。折り目の一つを付けることすら世界を一つ歪ませるだけの偉業が必要だ」
積み上げられた本は一見すると無防備だが、その実シオリの魔法により保護されている。
破れず、決して劣化せず、水を弾き、涙を零そうと字は滲まず、何があっても穢れず、誰も記述を書き換えることは出来ない。
この小世界に存在する何百億冊という本のすべてが、句読点の一粒まで注ぎ込まれた魔力により絶対的な寵愛を受けているのだ。
「お前は人間が好きだよ、シオリ・アルタ・エヴァンジェリン・グロウ・テイル」
静かな言葉を聞いたシオリが眉を歪ませた直後、爆発的に増大した魔力が虚空に黒き炎を作り出し、無名の神の身を業火に飲み込んだ。
世界が生まれる前の無秩序の混沌から汲み取った原初の火が、シオリの冷淡な眼差しの先でごうごうと燃えて、その内側をドロドロに溶かして混ぜて衆合していく。
黒猫の姿はあっという間に輪郭を失い、やがて火が消え失せるとそこにいた者の名残はなく、後にあるのは静寂だけ。
「意地っ張りだな、まあいい。それもまた人間らしさだ」
だが、今度はシオリの背後から声が響いてきて、彼女がそちらを見上げると、本の山に乗った無名の神が顔を掻いてピンピンの髭をしならせていた。
何の痛痒も感じさせぬ風貌を見て、これだからコイツは嫌いなんだと、シオリは歯ぎしりと共に恨めしそうな眼で見つめた。
本の山を伝って再びシオリと同じ目線まで降りてきた無名の神が、ある方向へ顔を向けた。
「"彼"に干渉したようだな」
「あぁ……あいつか」
無名の神に釣られてシオリもそちらへと目を向ける。
そこにあったのは、アンティークな木の椅子に座らせられたまま硬直した、少年の『遺体』だった。
無表情で瞳を閉じて佇んだ彼は、背筋を伸ばしてお行儀よく座ったまま、またの来訪まで時止めの秘術により保存されている。
「平行世界の万葉靖治の肉体か、よい気遣いではないか」
「フン、せっかく珍しく頑張って探した素材だ。簡単に壊れちゃ困る」
それはシオリが靖治をこの黒き小世界に招く時に使う依代だ。
靖治がワンダフルワールドに戻った後、残った抜け殻はこうして丁重に扱われていた。
「やつに干渉するのは止めろとでも言うつもり?」
「そんなものではないさ、好きにすれば良い。壁の外から石を放り投げるお前の行動もまた、人の世に波紋を広げ、やがて世界を構成する一つの素子となる。どれ一つとして無駄な意思もなく、行動もまた然り」
黒猫は何処かを見上げ、遠い場所を思い描きながら羽を揺らした。
「お前が明日の万葉靖治を作り、彼を通じて明日の世界を形作るのだ」
「傲慢な考え方だ、人が人をどうにかできるなんて好かないよ」
「左様。すべてを左右できるわけもなし、けれども彼の中には確かにシオリという人間の意思が生きるのだよ」
シオリの意思を否定せず、言うだけ言って無名の神は本から飛び降りて床の上に四本の足を付けた。
這うように躍り出た黒猫は、金色の瞳でシオリを見上げながら、からかうように首をかしげた。
「たまには彼を連れてデートでもしてみたらどうだ? 案外面白いやも知れぬ」
「断る! そうやって何でも恋愛話に持ってく風潮は嫌いだ!!」
嫌がるのをわかっていて言う態度が癪に障ったシオリは、指先に先程と同じ黒い火を灯すと、無名の神へ向かって放り投げた。
これでどうにかできる相手でもあるまいが、無名の神は用が済んだのか火に追い立てられるように走り出し、この世界から霞と消え失せていった。
鼻息を荒くしたシオリは、気を落ち着けると手元の本にある最後のページをペラリとめくった。
人間という物語のラストは死という結末で締めくくられる。あらゆる世界を見渡せば不死となった存在もいるが、それらでさえ何万何億の旅の先にいつかは終わる。
本の中でも主人公が床に伏せて、息子夫婦に看取られながら息を引き取る瞬間が如実に綴られていた。
一度でもダアトクリスタルと契約した人間は、シオリの術式にその魂の緒を握られて、死んだ後までこうして情報を抜き取られてからあるべき場所へと還される。
この主人公は平凡な生涯だった。善人でもなければ悪人でもない、世界の大勢の大きく関与したわけでもない。どこにでもいるただの人の物語だ。
だがそれでもこの主人公は、自分は一人ではないと生涯信じていた。
こういう人もいるのだ。
こういう人もいて良いのだ。
シオリは目を細め、過去を自らの思い出す。
『3歳の誕生日、おめでとうシオリ。いっぱい勉強して立派な魔法使いになるのよ。魔法を極めれば、いつか外にも出られるからね。その時には、ベッドで物語を聞かせてあげるわ』
液晶画面に映し出された母親がそう言い聞かせてくるのが、シオリの最も古めかしい記憶だ。
青空をモデルにして壁に模様が描かれた部屋、自分の身の回りの世話をしてくれるゴーレムたち、毎年の誕生日に映し出される母の姿。
運動施設。お風呂とトイレ。毎日部屋の外から差し出されるパッケージに入った保存食。たくさんの魔導書。備え付けのパソコンに保存された過去のインターネットの情報。外へと通じる開かない扉。
それらの中でシオリは生まれ育ち、一日と休まず魔導書を読み解き続けた。シオリにとっては、母親から送られるメッセージだけが世界の全てだった。
『4歳の誕生日、おめでとうシオリ。もう文字は読めるようになったかしら? こっちからはあなたの姿見えないけど、ママはいつもシオリのことを応援してるわ』
『7歳の誕生日、おめでとうシオリ。一人で寂しくないかしら? そこのゴーレムはシオリのために色々なことをしてくれるから、やってほしいことがあればお願いしてみると良いわ。でも、出来ないことのほうが多い子達だから、あまり困らせないであげてね』
『9歳の誕生日、おめでとうシオリ。ちゃんと運動もしないとダメよ、じゃないと体の成長が遅れて、立派なレディになれなくなってしまうわ。男の子にもモテないわよ? 頑張ってね』
『10歳の誕生日、おめでとうシオリ。会いたい……早く会いたいわ……。会って、あなたの頭を撫でてあげたい。頑張ったねって言ってあげたい……ママは、ずっと待ってるからね』
毎年送られてくる母の言葉が、大切な誕生日プレゼントだった。
画面の中の母はいつだって優しくシオリを元気づけてくれた。
でも、一つだけ気がかりだったのが、画面の中の母の顔を見ていると妙な感情が伝わってくる気がしたことだ。
シオリは誰とも触れ合うこともなく育ち、黙々と魔法の勉強をして小さな世界の中で生きてきた。だから他の人とまともに喋ったことはなかった。
ゴーレムたちは人工知能も備えられていたけれど、それはあくまで補助的なものに過ぎなくて、心と呼べるほどのものではなかった。
だからシオリは他人というものがよくわからなくて、画面の中の母から伝わってくる気持ちがなんなのか、その正体がつかめずにいた。
もやもやとした気持ちを埋めるため、たくさんの本を読んだ。魔導書はもちろんのこと、絵本、歴史、伝記、評論、小説、哲学、漫画。パソコンに収められたネットアーカイブから下らないブログ記事だって読み漁った。
だがそれはどこまで読み込んでも文字に過ぎず、ページの向こう側にいる書き手の心と繋がることは出来なかったし、シオリは心の空白を埋めることは出来なかった。
シオリは一番知りたいと強く思ったのが、母親がどんな人なのかということだ。
母がどこで生まれ、どう育ち、誰と恋をして、どういう経緯で娘をこの閉じた世界に隔離したのか。どうして魔法を学ばせようとするのか。理不尽だと憤るよりも先に、それらを知りたいと思った。
そしてシオリが最後に見た誕生日プレゼントは、12歳のときの映像だ。
『12歳の誕生日、おめでとうシオリ。あなたは私の誇りだわ……本当よ、信じてね。誰にも頼れない中で、あなたを産めて良かった、あなたが生きていてくれて良かった。私は、シオリが好きな色も、好きなお花も知らないけれど、それでもシオリのことを信じてる。いつか、あなたの物語を聞かせてね……』
「いつかじゃないよママ。今会いに行くから」
一心に魔法の勉強に打ち込んだシオリは、小さな世界の中でわずか12歳にして理を極めた。
シオリがいた場所は世界から隔絶された圧縮空間の中であったが、もはや彼女にはそんなものは障害とならなかった。
彼女はすべての障壁を打ち崩し、縮まった世界を広げ、見果てぬ間隙を埋め、世界への架け橋を作り、それまで開けられなかったドアに手をかけた。
あの時の自分は、希望のようなものを握っていたと思う。
外に出たシオリを待っていたのは、荒廃した旧世界だった。
空は地獄のように朱く渦巻き、大気は淀んで落ちてきていて、あらゆる生命は死滅し、遠くの海は干からびて、どこにも動く生き物の姿はなく、風だけが耳につく粘った音を鳴らせていた。
防護の魔法で自らを護ったシオリは、シェルターを出た先に倒れていた遺体を見下ろして途方に暮れていた。
微生物もほとんど活動できない地上で、女物の服を着た遺体は干からびて薄黒く濁った色で、開かずの扉を見つめたまま倒れている。
『おめでとう、シオリ。とうとうここまで来たのね』
自動再生の音声が、扉の上に付いていたスピーカーを泣かせている。
ガーガー甲高いノイズを混じらせながら、いつも優しかった母の言葉が寂しい世界に垂れ流された。
『あなたを一人にしてごめんなさい。ママはシオリのことを抱きしめてあげられない。あなたはこれから一人で生きていかなくてはならない』
母の言葉はとても空虚に木霊した。これから一人だって? そもそも自分は、これまでだってただの一度も誰かと共にいたことはないのに。
そこで気付いた、今まで見てきた母親の映像記録から感じていたのは、母の持つ寂しさであったことを。
『もしかしたら、いっそ共に死ねばよかったかも知れない。一人だけの人生を押し付けても、シオリの不幸だったかもしれない。だけどお母さんは、それでもシオリに生きて欲しかった』
まるで神への懺悔、あるいは祈りだった。
およそ子供に向けるべきではない見当違いの言葉が繰り返される。
『もうあなたを縛るものは何処にもない、もう私のわがままに付き合うこともない。あなたは自由よシオリ。ママの知らないところまで行ってくるのよ。人は、どこでだって生きていけるから……』
やがて再生が終了し、スピーカーはうんともすんとも言わなくなった。
シオリは屍から顔を上げて、遠くの山が燃えるように照らされている終末の姿を眺めながら、ただポツリと。
「ママの話、教えて欲しかったな……」
それからシオリは魔法の力を行使し、幕の引いた世界を抜け出すと、他世界を渡り歩いて生きた。
亡き母の遺した言葉が無責任な妄言か、無垢な祈りかも判別がつかないまま、シオリは人生を続けてきた。
肉体を12歳の誕生日に固定して、いつまでも幼さを引きずったまま、いたずらに人の情報を蒐集してきたのが今までだ。
そうしてシオリは今も本を読んでいる。最近のマイブームはワンダフルワールドに生きる人間の観察。
独りで本を読む姿は、小さなシェルターの中で魔法の勉強に打ち込んでいた日々と、何ら変わりがない。
誰とも接することなく、ダアトクリスタルが集める人の歴史を黙々と読み続けている。
「……あいつ、今は何をしているかな」
最近できた知り合いを思い出し、短く呟いた。こんな風に誰か個人を気にするのは久しぶりだ。
デートとまでは行かなくても、今度来た時は茶でも振る舞ってやってもいいかもしれない。しかし彼には彼の使命があり、少しルートに手を入れてやっても、それを邪魔する気はなかった。
ただ本を通して彼を知れればそれで良い、そう思いながら積み重なった本の山から新しい人生を手に取るのだった。
幼い日の自分が焦がれていた、誰かの物語を識るために。
どの歩みもまた、愛しい輝きに満ちているものだから。




