ハルトの決断
メールの内容に衝撃を受けた俺は、しばらくの間なにをするでもなく工房に籠っていた。
支倉からの要求は一見、至極簡単なことのように思える。運営からメールが届いたら知らせること。あとは定期的にゲーム内の状況を報告すればいいだけだ。
けれど俺はゲームを始めたばかりで街の移動もままならない低レベルプレイヤーなのだ。いまのところ報告できるのは始まりの地であるイリーノ村の周辺に関することのみ。
たぶん、それだけではゲーム内の情報とは呼べないだろう。メールにも“ゲーム内各地の情報”とはっきり書かれていた。
つまりレベルを上げて、街を移動しろってか。ギルドも各種道具屋も機能停止したこの状況で?
高校生相手に無茶振りするなと言いたいところだったが、文句を言おうにも俺から支倉に連絡を取ることは出来なかった。
頻繁に連絡をとると、それだけ犯人に気付かれる可能性が高くなる。連絡時には細心の注意を払えと書かれていたことを思い出して、俺は途方に暮れていた。
俺の選択肢は3つある。
1つは支倉の指示に従わず、完全に無視すること。犯人に気付かれる可能性があるとか、ちょっと恐い。事件の解決なんて大人がやればいい。俺には関係ない、と言いたいところだけど、さすがにこれは駄目だろう。
ということでもう1つの選択肢。イリーノ村から動かずに、運営からメールが来た時だけ知らせる。俺の一押しプランだ。
「でもなぁ、さっさと事件解決してくれないと俺も困るんだよな」
バイトに夏期講習、ついでに夏休みの宿題だってまだ残っている。ぽっちゃり仲間とB級グルメフェアに行く予定だって立てているし、夏祭りにも行きたい。俺が協力しなかったばかりに事件が長引いて、夏休みが全滅なんて事になったら目も当てられない。
それに俺と同じくゲーム内にログイン中と思われる雪乃のことも気に掛かる。街を移動するなら、途中で合流できるかもしれない。
「仕方ないよな。ちょっとくらいは努力してみるか」
考えた末に第3の選択肢、全面協力を選んだ俺は渋々、重い腰を上げた。
***
手持ちの材料から回復薬(小)を作れるだけ作った俺は、宿屋の手前にある路地で立ちすくんでいた。
「大丈夫、大丈夫。鍋を返すだけだ。おかしな事なんてない。絶対、怪しまれたりしないって」
宿屋の女将さんに借りていた片手鍋を返すだけ。愛想笑いの1つでも浮かべて、ありがとうと言えばそれで事足りる。簡単なことだ。
よしっと気合を入れて一歩踏み出そうとした俺の脳裏に、メールの一部が過ぎる。
――復旧したNPCは犯人の管理下にある
途端に気合はしおれ、踏み出そうとした足は動かなくなる。さっきから何度、同じことを繰り返しただろう。
「あぁ、もうっ。鍋を返すだけなのに、どうしてこんなに緊張しなきゃいけないんだよ!」
いっそのこと“鍋を返さず逃げてしまおうか”という思いに駆られたが、それこそ怪しい行動だ。そもそも、そんな事をすれば宿に泊まれなくなる。どうあっても返しに行かなければならないのだ。
思わず頭を抱えてしゃがみ込んだ。
そんな事をしている間にも刻限は近付いてくる。陽が傾き始め、ちらほらと宿屋に入っていくプレイヤーが出始めていた。
「いいなぁ。俺も宿に入りたい。部屋でゆっくり休みたい」
また1組、宿屋に入っていったのを見て呟きが漏れる。その瞬間、俺は思いついた。他のプレイヤーと同時に宿に入り、どさくさに紛れて鍋を返してしまえばいいんじゃないか?
そして、“これ、置いとくよ”とでも言ってカウンターに鍋を置いて、何食わぬ顔で部屋に戻るのだ。
そうだ。そうしよう。次に宿に帰ってきたプレイヤー、…いや、できれば数人でパーティを組んでいる人たちの方がいいか。
いいアイディアが浮かんだことで気を取り直した俺は、さっそく隠れ蓑となるプレイヤーを物色し始めた。
***
それから10分もしない内に4人組のプレイヤーが宿屋の扉に手を掛けた。計画を実行に移すべく俺も宿屋に近付く。
あたかも彼らの仲間のようなふりをして宿屋に足を踏み入れた俺は、さっと鍋をカウンターに置いた。
「おばさん、借りた鍋ここに置いとくよ。ありがとう」
一息に言い切って足早に立ち去る。いや、立ち去ろうとした。
「ちょいとお待ち」
「………な、なに」
鋭い声が俺を呼び止めた。びくりと肩が跳ね上がる。なんだ。何がおかしかった。棒読み過ぎたのか?不自然なほど張り付いていた愛想笑いのせいか?それとも……、駄目だ。なにが悪かったのか分からない。
ぎこちない笑みを浮かべたまま振り返ると、女将さんがこちらを見てにっこりと笑った。その笑顔が怖い、と思うのは俺の考え過ぎだろうか。
「ずいぶんきれいに鍋を洗ってくれたんだね。ありがとよ」
女将さんが言い終わると同時に、ピロリンという電子音が鳴った。聞いたことがある音だった。確かNPCの好感度が上がった時のものだ。
文句を言われないようにと思って、丁寧に洗ったのが仇となったらしい。お近付きになりたくないのに好感度を上げてどうする、と思わず自分にツッコミを入れたくなった。
怪しまれたわけではなかった事にホッと胸を撫で下ろしたのも束の間、女将さんが何やらメモ用紙を取り出した。
「あんたにお願いがあるんだけど、頼まれてくれるかい?」
「へ?」
「今ちょっと手が離せなくてね。素材屋で買い物をしてきて欲しいんだよ」
これは、あれか。好感度が上がったせいでクエスト発生しちゃったってやつか。断りたい。全力で断りたい。NPCには近付きたくない。だってこいつら犯人の手先かもしれないんだぞ。
「ごめんね、おばさん。俺、用事が」
「待って。ねぇ、君。そのクエスト、受けた方がいいよ」
断ろうとした矢先に俺の言葉は遮られた。振り返ってみると、そこには傍らに狼っぽい魔物を連れた少女が立っていた。魔物使いのスキルを持っているのだろう。
さっき俺が隠れ蓑にしようとしたパーティメンバーの1人だった。
「口出ししてごめんなさい。でも君、その装備ってことは初心者でしょ?そのクエストの報酬ってパン5個なんだよ。いつログアウトできるか分からないんだし、できるだけ食糧は確保した方がいいんじゃないかな」
躊躇いがちに話す少女は、きっと親切心で俺に声を掛けてくれたのだろう。分かるだけに断り辛いけれど、俺も必死なのだ。
「えっと…素材屋ってバグってるんじゃないかなぁ、なんて。受けてもクエスト達成できないと思うんだ」
「あ、そっか」
残念そうな顔をする少女を慰めるように、傍らの狼が彼女にすり寄っている。
そういえば、この狼もNPCだよな。大丈夫なのか?あのメールを見てから、なんでもかんでも怪しく思えてしまう。
「心配しなくても、ついさっき素材屋の旦那さんから奇病は治ったって連絡来てたから問題はないよ」
俺の返答を待っていた宿屋の女将さんが笑顔と共に答えてくれた。声を掛けてきた少女も手を叩いて喜んでいる。たしかにプレイヤーにとっては良い知らせだ。けれど俺にとっては凶報でしかない。
復旧したNPCが増えるということは、犯人の手先候補が増えるということなのだから。嫌すぎる。
「素材屋さん、復旧だって!良かったね」
にこやかに笑う親切な少女と宿屋の女将さんに挟まれてしまった俺は、どうしようもないほど追い詰められていた。この状況で強固に断ったら怪しまれるんじゃないか?
こういうのを“前門の虎、後門の狼”って言うんだっけ…。