第二話 2
――現在――
この日、氷点下を下った東京には粉粒のように儚い雪が舞った。街行くカップルは手を空に差し伸べて喜びを分かち合っていたが、あいにく今の俺にとって、空から降る氷などは行く手を遮る妨げでしかなかった。
「クリスマスだっていうのに、雪を素直に喜べないのは、職業病ってところかな」
そんな独り言も、白い息とともに夜の空へと消えていく。もう何年か前ならば、感慨やら何やらも感じられたのかもしれないが、そんな情動は仕事の邪魔にしかならないと気が付いてからは、沸き上がる感情を胸の内に押さえつけるようになった。
ふいに携帯電話が震え、電話が来たことをしらせた。
「はぁ」と一つため息をつき電話に出る。もうこんな時間なのか……。
「おい、今何時か分かってるのか? さっさと配らないと間に合わないぞ?」と開口一番に直樹は言った。「それに、近頃は何だか嫌な……」
「ああ、分かってる、今から始めようとしたところだよ」
それから数秒間の沈黙が流れた。電話の向こうから流れる静けさは、彼の気持ち、表情、それらをどうにかして伝えようとしているのだが、あいにく僕は何一つ感じ取ることができなかった。あるいは無意識の内に、その無音を聞き届けるのことを避けていたのかもしれない。
「はぁ、お前、まだ美由紀の事を……。何度も言ってるけど、あれはお前のせいじゃなくて……」
「そうじゃない。……大丈夫だ、仕事なら今すぐ始めるさ」
「……そうか、なら頼んだぞ。こっちのスタンバイはいつでもできているからな」
直樹はそう言って電話を切った。あいつとの電話も、今やすっかり仕事の事だけだな。昔だったら……、いや、やめておこう。ただお互いに、仕事を遂行しやすいように関係を整えただけなのだから。
「さて、始めようか」
その言葉と共に烈風が俺の体を包み込む。不安、義務感、そして後悔……。そんな感情が入り混じり、具現化し、己の姿を変容させる。やがて風は止み、再び静寂が空間を支配した。
なあ、今の俺は、君にはどう見えている? 真紅の服と帽子、白いひげを携えた俺の姿はさ。憎むべき相手か? 希望の光か? こんな問いに君が答えてくれるわけはないし、もう答えることすらできないのも理解はしている。それでも俺は……。
……宛名の無い問いは、全て自問自答に過ぎない。時間が無い、さっさと仕事を終わらせよう。俺は深く息を吐き、意識を集中させて、そして空へと飛び立った。
子供たちが俺を待っている。何故なら……。俺は、クリスマスの象徴、サンタ・クロースなのだから。
――過去――
「私、サンタなんて嫌いよ」
かつて美由紀はそう言った。
「……なんとなく察してはいたけど、面と向かって言われるとショックだな」
俺はその時学部四年で、卒業後はサンタ・クロースに内定していた身だったため、少しばかりぶっきらぼうな言い方になってしまったのかもしれない。それでも苦労してつかみ取った将来を頭から否定されるのを黙って見過ごすのは、いくら恋人から言われた言葉だとしても良い気はしなかった。
「それに君が嫌いなのは空想上のサンタだろ? 今のサンタ・クロースってのは国が主導しているプロジェクトの一環なのだから、そんなに毛嫌いする必要はないと思うぜ」と俺は言った。「それに、公務員に近い立場だから、生活も安定しているしな」
「だから嫌いなのよ」
俺の論理的な説得も、彼女の一言で唾棄された。
それからしばらくの時間、僕も彼女も口を開かなかった。
大学の中庭、芝生に腰を下ろした俺と彼女、その周りには誰もいない。時々吹く柔らかな風が、言葉をどこかに飛ばしてしまったようだった。あるいは、風に揺れる芝生の微かな音は、言葉の代わりをなしていたのだろうか。
次に彼女が口を開いたのは五分か十分後の事だった。
「はぁ、ごめんなさい。別にあなたを責めたかったわけではないの。ただね、幸せって不幸せがあるから存在し得るものなのだと思うの。つまり、幸せの象徴で在り続けるためには、何かを失わなければならないんじゃないかって」
当時の俺にはその真意がつかみきれなかったし、今でも完ぺきに理解しているとは言い難い。けれども、もしあの時、彼女の言葉にもう少しだけでも気を配っていれば、結末は何か変わったのかもしれない。