第3話 牢の中の契約
牢の中は、思ったより寒かった。
石壁は湿っていて、床には薄く藁が敷かれている。
窓はない。
あるのは鉄格子と、壁にかかった魔力灯だけ。
魔力灯の青白い光は、妙に人の顔色を悪く見せる。
いや、実際に僕の顔色は悪いのだろう。
口の中は切れているし、頬は腫れているし、背中は騎士の膝で押さえつけられたせいで鈍く痛む。
両手首には魔力封じの枷。
指先には、契約書へ血文字を書いた時の傷が残っていた。
最悪だ。
前世でも徹夜明けに会議室で詰められたことはあるが、さすがに牢屋に入れられたことはない。
異世界転生、イベントの振れ幅が大きすぎる。
「起き抜けにずいぶん間抜けな顔をするのね」
隣の牢から声がした。
レティシア・ヴァルドール。
銀髪の令嬢は、囚人用の粗末な衣服を着せられているにもかかわらず、なぜか貴族令嬢としての品格を失っていなかった。
背筋が伸びている。
顎の角度が美しい。
牢の中で藁の上に座っているのに、まるでサロンの椅子に腰掛けているように見える。
人間、環境より姿勢なのかもしれない。
「……間抜けにもなりますよ」
僕は起き上がろうとして、背中の痛みに顔をしかめた。
「王太子殿下の晴れ舞台で儀式妨害。神官長猊下の前で契約不備を指摘。聖女召喚の契約書に刃物を刺す。ついでに血判で勝手に追加条項。たぶん今、僕はこの国で一番面倒な下級職員です」
「自覚があるなら上出来ね」
「褒められてます?」
「呆れているのよ」
レティシアはそう言って、わずかに口元を緩めた。
笑われているのだと思う。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
あの大聖堂で、彼女は僕の異議申し立てを“記録”させた。
たったそれだけ。
けれど、あの場ではそれが決定的だった。
記録が残った。
神崎澪は、同意していないと言った。
帰還可否の説明を求めた。
王国側は明確に答えなかった。
神官長は、それでも隔離を命じた。
それが記録された。
契約の世界では、記録は武器になる。
「助かりました」
僕は改めて頭を下げた。
「あなたが神殿書記法を持ち出してくれなかったら、あの場の発言は全部なかったことにされていました」
「でしょうね」
「だから、ありがとうございます」
「礼を言うのは早いわ」
「え?」
「記録は残った。でも、それを読ませる相手がいなければ、ただの紙よ」
レティシアの声は冷静だった。
その言葉に、僕は黙った。
その通りだ。
記録しただけでは足りない。
保管庫に隠され、改ざんされ、都合の悪いページだけ抜き取られれば終わりだ。
神殿と王家が本気で握り潰そうとすれば、下級書記官一人の異議など、翌朝には「錯乱」と処理される。
前世でもよく見た。
議事録に残らない発言。
メールではなく口頭で済まされる指示。
問題が起きた瞬間に消えるチャットログ。
そして最後に残るのは、「担当者の判断ミス」だけ。
ああ、腹が立つ。
世界が変わっても、嫌なものは似ている。
「神崎澪さんは」
僕は顔を上げた。
「彼女は、今どこに」
「神殿の奥。おそらく聖女控えの間でしょうね」
「安全なんですか」
「安全の定義によるわ」
「物理的に殺されないという意味では?」
「今すぐ殺されはしないでしょう。彼女は貴重な資源だもの」
資源。
その言葉に、胸の奥が冷えた。
レティシアは、あえてその言い方をしたのだと思う。
「でも、精神安定の儀を行うと神官長は言っていました」
「ええ」
「それは何ですか」
「神殿は“混乱した召喚者を落ち着かせるための癒やしの儀”と説明しているわ」
「実態は?」
「抵抗心を鈍らせる」
短い答えだった。
僕は、思わず鉄格子を掴んだ。
枷がかすかに鳴る。
「それ、洗脳じゃないですか」
「言葉を選ばないなら、そうね」
「選ぶ必要あります?」
「王都ではあるのよ。洗脳を“精神安定”と呼び、監禁を“保護”と呼び、収奪を“奉仕”と呼ぶ必要が」
レティシアは淡々としていた。
けれど、その淡々とした声の奥に、冷えた怒りがあるのが分かった。
「あなた、やっぱり聖女召喚のことを知っていたんですね」
「ええ」
「だから王太子殿下に逆らった?」
「逆らった、というより確認したの」
「何を?」
「先代聖女の最期よ」
牢の空気が、さらに冷たくなった気がした。
先代聖女。
大聖堂の壁画に描かれていた、歴代聖女たち。
名前だけが刻まれていて、その後の人生が見えなかった人たち。
「彼女は、王国を救ったわ」
レティシアが言った。
「結界を修復し、疫病を鎮め、干ばつの土地に雨を呼んだ。民衆は彼女を讃えた。王家も神殿も、彼女を“奇跡の乙女”と呼んだ」
「その後は?」
「病死、と記録されている」
「実際は?」
「役目を終えたあと、眠るように衰弱して死んだ。年齢は十九。召喚された時は十六だったそうよ」
僕は言葉を失った。
三年。
たった三年で、使い潰された。
「記憶は?」
「晩年の彼女は、自分の故郷の名前も思い出せなかったらしいわ。けれど、時々、知らない言葉で泣いていたそうよ」
知らない言葉。
たぶん、日本語だ。
いや、もしかしたら別の世界の言葉かもしれない。
どちらにせよ、同じだ。
帰りたかったのだ。
誰かに助けてほしかったのだ。
でもこの世界は、その言葉を理解しなかった。
理解しなかったのではない。
理解する必要がないものとして扱った。
聖女。
なんて便利な名前だろう。
人間を役割に変え、役割以外の痛みを見えなくする。
「私は彼女に会ったことがある」
レティシアは、静かに続けた。
「まだ幼かった頃よ。王宮の庭で迷っていたら、彼女が声をかけてくれた。優しい人だったわ。私の髪を綺麗だと言ってくれた。自分の世界にも、私と同じくらい髪の綺麗な妹がいると言っていた」
「妹……」
「ええ。けれど、その数年後に再会した時、彼女はもう妹の顔を思い出せなくなっていた」
レティシアの手が、膝の上で強く握られる。
「私はそれを、美しい犠牲だと教えられた。聖女とはそういうものだと。王国のために尽くし、王国のために消える。それが尊いのだと」
「……ふざけてますね」
「ええ。ふざけているわ」
その瞬間だけ、レティシアの声から貴族令嬢の仮面が消えた。
怒っていた。
静かに、深く、長い時間をかけて怒っていた。
「でも、私は何もできなかった。家の力を使って記録を調べようとしても、神殿文書は開示されない。王太子に問いただしても、“国のためだ”と返されるだけ。やがて私は嫉妬深い悪女にされた」
「嫉妬?」
「新たな聖女が召喚されれば、王太子の関心が私から聖女へ移る。それが気に入らず、儀式を妨害しようとした。そういう筋書きよ」
「なるほど」
「随分あっさり納得するのね」
「悪役令嬢って、便利な役割名だなと思って」
僕は鉄格子越しに、彼女を見た。
「聖女と同じです。その人が何を言ったかより、周囲が貼った役割名の方が強くなる」
聖女。
悪役令嬢。
下級書記官。
名前ではなく、役割で呼ぶ。
役割で呼べば、その人の感情を無視しやすくなる。
聖女は尊く犠牲になるもの。
悪役令嬢は嫉妬で邪魔をするもの。
下級書記官は黙って記録するもの。
そう決めてしまえば、誰も本当の声を聞かなくて済む。
「あなた、妙なところを見ているのね」
「小さい字が見えるので」
「その能力、本当に余白だけなの?」
レティシアの目が鋭くなる。
僕は一瞬、答えに迷った。
《注釈閲覧》。
契約書や契約魔法の本文外に隠された注釈、効力条件、抜け道、例外規定を読み取れる力。
僕自身、完全には理解していない。
けれど、今日の大聖堂で分かったことがある。
この力は、ただの読解ではない。
見えないものを見えるようにする。
隠された責任の所在を浮かび上がらせる。
誰かが意図的に本文の外へ押し出したものを、僕の目は拾ってしまう。
だから、危険なのだ。
権力者にとって。
「余白が読めます」
僕は答えた。
「契約書の本文にはないけれど、魔力的には効力を持っている注釈。慣例。隠し条件。例外規定。そういうものが見える」
「生まれつき?」
「たぶん」
「たぶん?」
「正直、よく分かりません。昔から見えていました。でも、自分が他の人と違うと気づいたのは神殿に入ってからです」
「なぜ隠していたの」
「言ったら面倒なことになると思ったので」
「正しい判断ね」
「今日、その判断を台無しにしましたけど」
「ええ。見事に」
レティシアは楽しそうに笑った。
この人、状況が悪いほど笑うタイプだ。
味方なら頼もしいが、敵なら絶対に嫌だ。
「あなたの能力は、神殿にとって最悪よ」
「でしょうね」
「王家にとっても最悪」
「でしょうね」
「私にとっては、とても都合がいい」
「急に怖いこと言いますね」
レティシアは鉄格子に近づいた。
青白い魔力灯の下で、その碧眼が光る。
「ルシアン・アスター。取引をしましょう」
「牢の中で?」
「場所は重要ではないわ。契約は、意思があれば成立する」
「その言い方、神殿関係者みたいですね」
「貴族は契約で首を締めたり締められたりして生きるものよ」
「嫌な生き物だ」
「同感ね」
彼女は、声を低めた。
「私は先代聖女の真実を暴きたい。そして、新たな聖女――カンザキ・ミオを、同じ結末にしたくない」
「僕もです」
「でも、あなた一人では無理」
「分かっています」
「私一人でも無理」
「意外と素直ですね」
「事実を認めない人間は、王族だけで十分よ」
なかなか辛辣だ。
「あなたは余白を読める。私は王家と貴族社会の表文書を読める。どちらか片方では足りない。でも二つ揃えば、神殿と王家が隠している契約の構造に届くかもしれない」
「構造?」
「聖女召喚は、単なる儀式ではないわ。王都の結界、税制、貴族の爵位継承、神殿の祝福配分。そのすべてに聖女の魔力が絡んでいる」
「つまり、聖女一人を助ければ終わりではない」
「ええ。むしろ始まりよ」
僕は息を吐いた。
分かっていた。
召喚契約書一枚を破れば終わるなら、話は簡単だった。
でも、違う。
これは制度だ。
何十年も、あるいは何百年もかけて組み上げられた仕組み。
誰かを救国の名で召喚し、その力を都市の維持に回し、記憶や寿命まで吸い上げる。
そして民には美談だけを見せる。
個人の悪意ではない。
悪意が制度になっている。
それが、一番厄介だ。
「取引の内容は?」
僕は聞いた。
「あなたは私に、契約の余白を読む目を貸す。私はあなたに、この国の表側を読む知識と立場を貸す」
「貸すだけ?」
「まずはね」
「最終的には?」
レティシアは微笑んだ。
「王都の嘘を、本文ごと破り捨てる」
物騒だった。
非常に物騒だった。
でも、嫌いではない。
「そのためには、ここから出ないといけません」
「そうね」
「出られるんですか」
「普通は無理ね」
「普通は」
「ええ。普通は」
レティシアはそう言って、牢の扉を指さした。
「見える?」
僕は鉄格子の向こう、自分の牢の扉を見た。
鉄製の扉。
魔力封じの刻印。
王都地下牢の標準的な拘束術式。
そして、その右下。
石壁と扉枠の境目に、小さな文字が浮かんでいた。
――王命による拘禁対象は、裁定前に限り尋問、移送、処刑準備、または王国有益業務への転用を目的として、担当官の裁量により一時解放できる。
長い。
ものすごく長い。
そして、いかにも役所の抜け道という感じがした。
「見えました」
「やはり」
「王国有益業務への転用……?」
「辺境に、灰境街グレイヘイヴンという場所があるわ」
「聞いたことはあります。魔物の侵入と干ばつで半分廃墟になった街ですよね」
「ええ。王都としては捨てたい。でも、完全に捨てると北部防衛線が崩れる。だから名目上は再建計画が残っている」
「つまり?」
「王国にとって有益な業務として、反逆者を辺境奉仕に回せる」
僕は目を瞬いた。
「それ、追放では?」
「言い方の問題ね」
「言い方の問題で命が助かるなら大事ですね」
「でしょう?」
レティシアの笑みが深くなる。
「あなたは処刑されるより、辺境で契約再建の労働力にされた方が王国にとって得。私は王太子にとって王都に置きたくない邪魔者。二人まとめてグレイヘイヴンへ送る理由は作れる」
「でも、澪さんは?」
僕はそこだけは譲れなかった。
「僕たちだけ出ても意味がない。彼女が神殿に残れば、結局同じです」
「聖女を連れていくのは難しいわ」
「でしょうね」
「でも、不可能ではない」
レティシアは声を潜めた。
「あなたが書いた追加条項。あれはまだ生きている可能性がある」
「一時的なものです」
「一時的でも構わないわ。あなたは“本人の明示的同意なき拘束を禁ずる”と書いた。つまり、神殿は彼女を完全な拘束状態にはできない」
「でも隔離はしている」
「ええ。だから向こうは“保護”という名目を使うでしょうね」
「出た。便利な言い換え」
「なら、こちらも言い換えるの」
「何を?」
「聖女の移送を、“保護環境の変更”にする」
なるほど。
僕は思わず唸った。
この人、本当に悪役令嬢の名に恥じない。
発想が貴族社会の抜け道そのものだ。
「ただし、神殿が認めるとは思えません」
「認めさせる必要はないわ」
「え?」
「王太子に選ばせればいい。聖女を王都に置いて騒ぎを大きくするか、一時的に辺境へ移して“儀式妨害の影響で静養が必要”という体裁にするか」
「王太子殿下が後者を選びますかね」
「彼は選ぶわ。自分の失敗を隠せるなら」
レティシアの声には確信があった。
「ユリウス殿下は、王国の未来より自分の無謬性を愛している。今回の召喚儀式は公衆の前で乱れた。聖女は同意していないと叫んだ。書記官に記録も残された。神官長は儀式の再固定に失敗した」
「かなりまずいですね」
「ええ。だから彼らは、この事件を小さくしたい」
「僕を処刑したら?」
「余計に目立つわ。儀式直後に下級書記官を処刑したとなれば、何かあったと認めるようなもの」
「なるほど。辺境へ飛ばす方が静かに処理できる」
「そういうこと」
僕は天井を見上げた。
ずいぶんひどい状況だと思っていた。
実際ひどい。
けれど、完全に詰んではいない。
契約書に傷をつけたこと。
澪が同意していないと叫んだこと。
記録が残ったこと。
レティシアが王家の性格を知っていること。
それらが、細い糸のように繋がっている。
頼りない。
今にも切れそうだ。
でも、糸はある。
「レティシア様」
「様はいらないわ」
「では、レティシアさん」
「それも妙ね。まあいいわ」
「一つ聞いていいですか」
「何かしら」
「なぜ、僕を信用するんですか」
レティシアは少しだけ黙った。
そして、鉄格子の向こうで僕をじっと見た。
「信用はしていないわ」
「してないんですか」
「ええ。あなたは無茶をするし、権力を怒らせるし、自分が死ぬ可能性を軽く見ている。信用するには危なすぎる」
「散々ですね」
「でも、信じる理由はある」
「信用と信じるは違うんですか」
「違うわ」
彼女は、少しだけ視線を伏せた。
「あなたは、大聖堂でカンザキ・ミオを“聖女”ではなく“カンザキ・ミオ”と呼んだ」
僕は何も言えなかった。
「あの場にいた誰もが、彼女を役割で見ていた。王太子は聖女として、神官長は魔力資源として、貴族たちは王国の救世主として。でも、あなたは名前を聞いた」
「当然です」
「その当然が、この国では珍しいのよ」
レティシアは顔を上げた。
「だから、信じる。少なくとも、あなたは彼女を使い捨てにはしない」
その言葉は、僕には重かった。
自分がそんな立派な人間だとは思わない。
僕は怖かった。
震えていた。
何度も、やめておけばよかったかもしれないと思った。
それでも、澪の名前を聞いた。
たしかに、それだけはした。
なら、そこから始めるしかない。
「分かりました」
僕は頷いた。
「取引しましょう。僕は余白を読みます。あなたは表を読んでください」
「交渉成立ね」
「契約書は?」
「今は不要よ」
「貴族なのに?」
「契約書がなくても守るべき約束はあるわ」
レティシアは、少しだけ寂しそうに笑った。
「私はそれを、先代聖女に教わったの」
その時、地下牢の奥から足音が響いた。
重い靴音。
複数人。
僕とレティシアは、同時に口を閉じた。
魔力灯の光が揺れる。
廊下の向こうから現れたのは、黒衣の神官たちだった。
その中心に、神官長ソロンがいる。
老人の顔には、穏やかな笑みが貼り付いていた。
大聖堂で見せた怒りは、もうない。
それが逆に恐ろしかった。
「目は覚めたかね、ルシアン・アスター」
「おかげさまで。寝心地は最低でした」
「口はまだ動くようだな」
「書記官なので」
ソロンは笑わなかった。
彼は僕の牢の前で立ち止まり、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。
その紙には、王家の獅子印と神殿の聖印が並んでいる。
正式命令書だ。
「君には二つの道がある」
「聞くだけ聞きます」
「一つ。聖女召喚儀式を妨害した反逆者として裁かれる道」
「処刑ですか」
「公開ではなく、静かな裁きになるだろう。王国は寛大だからな」
「静かな処刑を寛大と呼ぶ文化、嫌ですね」
「もう一つ」
ソロンは僕の言葉を無視した。
「儀式妨害によって乱れた聖女契約を補助するため、君を特別監督下の契約書記官として再任用する道だ」
僕は眉をひそめた。
「再任用?」
「聖女は君の言葉に反応している。異界の言葉も、多少は理解できるようだ。君を通訳兼記録係として置くのが、最も効率的だと判断された」
なるほど。
僕を殺すより、澪を従わせる道具にした方がいいと考えたわけだ。
あまりにも不愉快だが、同時に予想通りでもある。
「条件は?」
「君は今後、神殿の命令に従い、聖女に対し王国への奉仕を受け入れるよう説明する。大聖堂で見た余計な文言については、錯乱による誤認だったと認める」
「つまり、黙って協力しろと」
「賢い選択だ」
ソロンの目は笑っていなかった。
「君のような下級書記官が、王家と神殿に逆らって生き残れると思うな」
「思ってませんよ」
「ならば」
「でも、従うとも言ってません」
空気が張り詰めた。
黒衣の神官たちが、杖に手をかける。
レティシアが隣の牢で静かにこちらを見ている。
僕は、ソロンの持つ命令書を見た。
その右下。
王家と神殿の印の下に、やはり余白がある。
文字が浮かんでいた。
――対象者が神殿協力を拒否した場合、辺境奉仕刑への減刑を認める。ただし、王国有益業務に資する技能を有する者に限る。
あった。
レティシアの言った通りだ。
糸は、切れていない。
僕は、できるだけ平静を装って言った。
「神官長猊下」
「何だ」
「僕は神殿協力を拒否します」
ソロンの目が細くなる。
「意味を理解しているのか」
「はい」
「ならば裁きだ」
「いえ」
僕は鉄格子越しに、命令書の余白を指さした。
「辺境奉仕刑への減刑を申請します。王国有益業務に資する技能として、契約魔法文書の読解、修正、記録管理能力を提示します」
ソロンの顔から、ほんの一瞬だけ表情が消えた。
その一瞬で、僕は確信した。
この余白は本物だ。
そして、彼は今、僕が読んだことに気づいた。
「貴様……」
「正式な命令書ですよね。なら、余白も効力を持ちます」
僕は喉の奥に残る血の味を飲み込み、続けた。
「僕を殺すより、辺境で働かせた方が王国の利益になる。そういう条項です」
ソロンの魔力が膨れ上がる。
牢の空気が重くなる。
しかし、彼はすぐには何もできなかった。
契約の前では、神官長でさえ完全な自由ではない。
これが契約社会の厄介なところであり、唯一の希望でもある。
レティシアが隣の牢で、優雅に微笑んだ。
「ついでに、私も同行を申請いたしますわ」
ソロンが鋭く振り向く。
「ヴァルドール令嬢」
「元、ですわ。現在は反逆疑惑のある悪役令嬢ですもの。王都に置いておくより、辺境へ追放した方が殿下も安心なさるのでは?」
「黙れ」
「あら。事実ですのに」
レティシアは鉄格子に指を添え、軽やかに言った。
「灰境街グレイヘイヴンの再建計画には、貴族監督官の欠員があるはずです。ヴァルドール家で学んだ財務、統治、土地管理の知識は、王国有益業務に資する技能と言えるでしょう?」
ソロンは沈黙した。
長い沈黙だった。
やがて彼は、低く言った。
「……王太子殿下に確認する」
「ぜひ」
レティシアは微笑んだままだ。
「殿下なら、きっとご自身にとって最も美しい選択をなさるでしょう」
皮肉が鋭い。
ソロンは踵を返した。
黒衣の神官たちがそれに続く。
地下牢に、再び静寂が戻った。
足音が遠ざかっていくのを待ってから、僕は大きく息を吐いた。
「……怖かった」
「正直ね」
「心臓が口から出るかと思いました」
「出なくてよかったわ。掃除が面倒だもの」
「貴族令嬢の冗談って冷たいですね」
「牢の中だから仕方ないわ」
レティシアは、少しだけ肩の力を抜いた。
僕も壁にもたれかかる。
全身が痛い。
けれど、頭は妙に冴えていた。
辺境奉仕。
灰境街グレイヘイヴン。
そこへ飛ばされれば、王都から離れることになる。
処刑は避けられるかもしれない。
レティシアとも手を組める。
だが、澪はまだ神殿にいる。
そこだけが、胸に引っかかっていた。
「レティシア」
「何かしら」
「澪さんを、必ず連れ出しましょう」
「ええ」
彼女は即答した。
「そのために、あなたは生き延びなさい」
「あなたもです」
「あら、私の心配?」
「取引相手に死なれると困るので」
「いい返しね」
レティシアは笑った。
その笑みは、悪役令嬢というには少しだけ優しかった。
地下牢の冷たい空気の中で、僕はもう一度、自分の手首の枷を見た。
鎖はまだ外れていない。
牢の扉も開いていない。
けれど、世界のどこかに小さな余白がある。
誰かが見落とした抜け道がある。
なら、そこに文字を書けばいい。
本文に居場所がないなら、余白から始めればいい。
その時、遠くの方で扉が開く音がした。
今度の足音は、軽かった。
神官ではない。
騎士でもない。
そして、聞き覚えのある震えた声が、地下牢の廊下に響いた。
「……ルシアンさん」
僕は顔を上げた。
鉄格子の向こう、青白い魔力灯の下に、黒髪の少女が立っていた。
神崎澪。
その両脇には神官がいたが、彼女の足は自分の意思でこちらへ向かっていた。
泣いた跡のある顔。
疲れ切った目。
それでも、彼女はまっすぐ僕を見ていた。
「私、話があります」
その瞬間。
牢の中で結ばれかけていた僕とレティシアの小さな契約に、もう一人分の声が加わった。




