第2話 同意なき召喚者
契約書に刃物を突き立てる。
普通に考えれば、それはただの器物損壊だ。
前世なら、会社の稟議書にカッターを突き刺したようなものだろう。
即日で上司に呼び出され、総務に怒られ、最悪の場合はメンタル面の心配をされる。
だが、この世界では少し違う。
契約魔法において、契約書はただの紙ではない。
書かれた文言、押された印、流し込まれた魔力、立ち会った者たちの権限。
それらすべてが絡み合い、世界に対して「こうあれ」と命令するための媒体になる。
だから、発効前の契約書に物理的な損傷を与えることには意味がある。
特に、神殿印の刻まれた銀のペーパーナイフなら。
刃が羊皮紙に触れた瞬間、甲高い音が大聖堂に響いた。
紙が裂ける音ではない。
もっと硬い。
硝子に細い亀裂が入るような、澄んでいて、耳の奥に残る音。
黄金の召喚陣が、一瞬だけ脈打った。
床に描かれた七重の円環のうち、最も外側の一つが乱れる。
神官たちの詠唱が、半拍ずれた。
「――なっ」
王太子ユリウスの声が、初めて焦りを帯びた。
「何をしている、書記官!」
何をしている。
僕自身、答えに困る。
儀式妨害。
王命違反。
神殿規則違反。
公務執行妨害。
たぶん不敬罪もつく。
役満だ。
前世なら始末書では済まない。
今世でも、たぶん済まない。
でも、そんなことを考えられるほど、僕の頭は冷静ではなかった。
僕の目には、契約書の余白が見えている。
刃が入ったことで、隠されていた注釈がさらに濃く浮かび上がっていた。
――召喚対象の意思確認は省略可。
――召喚後の帰還請求は、王冠および神殿の共同承認を必要とする。
――役目完遂後、記憶、寿命、余剰魔力は王冠へ帰属する。
――聖女本人による契約破棄申請は、精神混乱状態とみなし無効。
最後の一行で、腹の底が冷えた。
つまり、この契約は最初から逃がすつもりがない。
泣いても。
叫んでも。
帰りたいと言っても。
それはすべて「精神混乱」として処理される。
完璧だった。
悪意として、あまりにも完璧だった。
「契約停止を申請します」
僕は言った。
声は少し震えていた。
それでも、大聖堂の端までは届いたと思う。
「本召喚契約には、対象者本人への説明義務、同意取得義務、帰還条件の明示がありません。さらに、役目完遂後の記憶・寿命・魔力の帰属先が本人ではなく王冠になっています。これは保護契約ではなく、収奪契約です」
大聖堂は静まり返った。
聖歌隊も、神官も、貴族も、騎士も、誰もが僕を見ている。
いや、正確には僕ではない。
僕の手元。
召喚契約書に突き立てられた銀の刃を見ている。
契約書の右下から、黒い文字が煙のように浮かび上がっていた。
普通なら誰にも読めないはずの注釈が、契約停止の衝撃で一時的に可視化されている。
神官長ソロンの顔が、ぴくりと歪んだ。
「下がれ」
低い声だった。
祈りの場にいる老人の声ではない。
自分の金庫を開けられた人間の声だ。
「貴様には、その文言を解釈する権限がない」
「では、権限のある方が解釈してください」
「黙れ」
「対象者本人の同意を省略できる理由は何ですか」
「黙れと言っている」
「役目完遂後に記憶と寿命を王冠へ帰属させる理由は何ですか」
ソロンの杖が床を叩いた。
重い魔力が落ちてくる。
肺が縮むような圧迫感。
立っているだけで膝が震える。
上級神官の威圧魔法だ。
僕のような下級書記官なら、本来は一言で跪く。
だが、跪いたら終わる。
ここで膝をついた瞬間、この場の全員が「あれは下級職員の錯乱だった」と納得する。
だから僕は、机に片手をついて耐えた。
見た目はたぶん、威厳も何もない。
必死で踏ん張る事務職員だ。
でも、それでいい。
僕は勇者じゃない。
格好よく立つ必要はない。
倒れなければ、それで勝ちだ。
「神官長猊下」
僕は息を吸った。
「これは、説明義務違反です」
その言葉に、周囲の神官たちがざわついた。
説明義務。
神殿契約法の基礎中の基礎だ。
商取引でも、婚姻でも、土地売買でも、契約によって一方の人生に重大な影響を及ぼす場合、主要条件は事前に説明されなければならない。
もちろん、現実には抜け道だらけだ。
説明したことにする。
読める場所に置いたことにする。
理解しなかった側が悪いことにする。
前世でも見た。
この世界でも見た。
けれど、原則としては存在する。
神殿はその原則を掲げている。
掲げている以上、使える。
「異界から召喚される対象者は、この世界の言語、慣習、法体系を理解していません。その状態で同意を省略し、帰還請求も制限し、役目完遂後の権利を本人から奪う。これを保護契約と呼ぶのは無理があります」
「貴様……」
「少なくとも、契約の一時停止と再説明が必要です」
ユリウス王太子が、一歩前へ出た。
白金の髪が、召喚陣の光を受けて輝いている。
絵画のように美しい人だ。
王国の未来を背負う者として、きっと民衆の前に立てば歓声を浴びるのだろう。
だが、その瞳は冷たかった。
「下級書記官ごときが、王国の危機を理解したつもりか」
よくある言い方だ、と思った。
大きな目的のため。
国のため。
みんなのため。
そういう言葉は便利だ。
誰か一人を踏み潰す時、罪悪感を薄めてくれる。
「理解していません」
僕は正直に答えた。
ユリウスの眉がわずかに動く。
「ならば黙れ」
「王国の危機は理解していません。でも、目の前の契約書がひどいことは分かります」
その瞬間、召喚陣の中心で光が爆ぜた。
詠唱が完全に乱れたのだ。
本来なら、召喚陣は契約によって対象者の魂と身体を固定し、神殿側の条件を刻み込んだ上で顕現させる。
だが、僕が契約書を傷つけたせいで、その固定が不完全になった。
金色の光輪が、宙で砕ける。
大聖堂の中心に、人影が落ちた。
どさり、という鈍い音。
参列者たちから悲鳴が上がった。
僕は反射的に駆け出した。
「近づくな!」
騎士の怒声が飛ぶ。
だが、遅い。
僕は召喚陣の縁をまたぎ、光の中心に膝をついた。
そこにいたのは、少女だった。
黒髪。
見慣れた形の制服。
紺色のブレザー。
白いシャツ。
胸元のリボン。
そして、見開かれた目。
恐怖と混乱で、息がうまく吸えていない。
年齢は十七か十八。
前世の日本なら、高校生と呼ばれる年頃だ。
彼女は震える手で床を探り、次に自分の制服を見て、最後に僕を見た。
「……ここ、どこ」
小さな声だった。
日本語だった。
胸が詰まった。
この世界の言葉ではない。
けれど、僕には分かる。
前世の記憶の奥に染み込んでいる言葉だ。
僕は一瞬、何と返すべきか迷った。
優しい嘘をつくべきか。
安心させる言葉を選ぶべきか。
それとも、事実を伝えるべきか。
迷って、結局、いちばん不器用な言葉が出た。
「日本では、ありません」
少女の顔から血の気が引いた。
「……え」
「ここはラウレシア王国。あなたは、異世界召喚の儀式で呼ばれました」
「異世界、召喚……?」
「はい」
「私、帰れるんですか」
その問いは、あまりにもまっすぐだった。
大聖堂にいる誰も、すぐには答えなかった。
王太子も。
神官長も。
神官たちも。
美しい本文には「最大限の敬意」と書いてあった。
でも、この問いへの答えは用意されていない。
だから僕は言った。
「すぐには、難しいと思います」
少女の唇が震えた。
「じゃあ……なんで」
その声は、怒りというより、まだ現実に追いつけない子どもの声だった。
「なんで、勝手に」
僕は何も言えなかった。
代わりに、背後からユリウスの声が響いた。
「聖女よ」
王太子は、まるで舞台に立つ役者のように歩み出た。
騎士たちが道を開ける。
神官たちが頭を垂れる。
貴族たちは安堵したように息を吐く。
彼にとっては、ここからが本来の儀式なのだろう。
美しい王太子が、不安げな異界の少女に手を差し伸べる。
絵になる。
とても絵になる。
だからこそ、ぞっとした。
「恐れることはない。そなたは王国を救うため、神に選ばれたのだ」
少女は、怯えた表情のまま動かなかった。
ユリウスの目が一瞬だけ細くなる。
「そなたには、聖女としての栄誉と庇護が与えられる。王国はそなたを歓迎しよう」
「……帰れるんですか」
少女はもう一度聞いた。
ユリウスは微笑んだ。
「役目を終えれば、神殿が最善を尽くす」
便利な言葉だ。
最善。
検討。
善処。
前向きに。
責任を持って。
前世で何度も見た、何も約束していない言葉。
少女にも、それは伝わったのかもしれない。
彼女は怯えるような声で言った。
「それ、帰れるって意味じゃないですよね」
大聖堂の空気が、また変わった。
少女の声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
まだ名前も知らない彼女は、この世界に来て数分で、王太子の言葉の空白を見抜いた。
ユリウスの笑顔が、少し硬くなる。
「混乱しているのだ。無理もない」
彼は騎士に目配せした。
「聖女を控えの間へ。休ませよ」
騎士が近づいてくる。
僕は少女の前に立った。
ほとんど無意識だった。
「本人の意思確認が先です」
「どけ」
「どきません」
「下級書記官風情が」
「下級でも書記官です。契約手続きの不備を見つけたら、止めるのが仕事です」
「これは契約ではない。神事だ」
「契約書があります」
僕は振り返り、机上の羊皮紙を指さした。
「契約書があるなら契約です。神事で押し通すなら、その紙は燃やしてください」
誰かが息を呑んだ。
たぶん、とんでもない不敬発言だった。
だが、僕にとっては当然だった。
奇跡だと言うなら、契約書はいらない。
契約だと言うなら、説明がいる。
両方の都合のいいところだけ取るな。
「……面白いことを言うのね」
その声は、場違いなほど涼しかった。
大聖堂の端。
銀髪の令嬢が、初めてこちらを見ていた。
レティシア・ヴァルドール。
悪女と噂される女。
彼女は唇の端をわずかに上げていた。
笑っているようにも、泣くのをこらえているようにも見えた。
「神事なら責任は神へ。契約なら責任は人へ。なるほど、だから皆さま、その中間がお好きなのね」
「レティシア」
ユリウスの声が低くなった。
「君には発言を許していない」
「あら。失礼いたしました。元婚約者として、最後くらい殿下の晴れ舞台を拝見しようと思っただけですわ」
「黙っていろ」
「ええ。黙っております。少なくとも、そこの書記官よりは」
完全に巻き込まれた。
いや、たぶん最初から見ていたのだ。
彼女はこの儀式の異常性を知っていた。
だから追放された。
そして今、僕という想定外の異物が契約に傷をつけたことで、沈黙を破る余地が生まれた。
ソロン神官長が杖を掲げた。
「儀式を再固定する。聖女を陣の中心へ戻せ」
床の召喚陣が再び光り始める。
まずい。
契約書に傷は入れた。
だが、完全に破棄したわけではない。
神官長ほどの権限があれば、乱れた召喚契約を上書きして再固定できる。
その場合、少女――聖女に刻まれる拘束条件は、最初より強くなる可能性がある。
失敗した儀式を補正する時、契約はたいてい厳しくなる。
前世のシステム改修と同じだ。
失敗を防ぐための制限が増え、現場の自由度が死ぬ。
そして、今回の“現場”は彼女の人生だ。
「名前」
僕は少女に小声で言った。
「あなたの名前を教えてください」
「え?」
「契約上、対象者を“聖女”ではなく個人名で特定したい」
「か、神崎……澪」
「漢字は?」
「神様の神に、崎。澪は……さんずいに、令和の令みたいな……」
「僕はルシアン、あなたと同じ日本で育った。カンザキ・ミオ……分かった…」
分かっていない。
この世界の文字で正確に漢字を書くのは無理だ。
でも、音は分かる。
カンザキ・ミオ。
名前がある。
役割ではない。
資源でもない。
聖女という記号でもない。
彼女は神崎澪だ。
僕は自分の親指を、銀のペーパーナイフの刃に押し当てた。
痛みが走る。
血が滲む。
「何を!……」
澪が怯えを含んだ声で叫んだ。
「追加条項を書きます」
「追加……?」
「あなたを、聖女ではなくカンザキ・ミオとして扱わせるためのものです」
血のついた親指で、僕は契約書の裂けた余白に文字を書いた。
神殿書記官の血判は、本来なら正式な印章の代わりにはならない。
だが、契約停止中の緊急注記としてなら、一時効力を持つ。
持つはずだ。
いや、持ってくれ。
僕は書いた。
――召喚対象カンザキ・ミオに対し、本人の明示的同意なき拘束、記憶干渉、寿命収奪、帰還請求権の制限を禁ずる。
文字が赤く光った。
召喚陣の光が、金から白へと変わる。
澪の足首に絡みつこうとしていた光輪が、ぱきりと割れた。
同時に、僕の胸を見えない槌が殴った。
「ぐっ」
息が詰まる。
契約反動だ。
当然だ。
王家と神殿が組んだ召喚契約に、下級書記官が血判で割り込んだのだ。
普通なら、指先が吹き飛んでもおかしくない。
実際、親指の傷口から血が止まらない。
止まらないどころか、明らかにおかしな量の鮮血が床に赤い点が落ちる。
「……!」
澪が僕の腕を掴んだ。
その手は震えていた。
僕は何とか笑おうとした。
「大丈夫です。たぶん、労災です」
「ろうさい……?」
「仕事中の怪我です」
「この状況で何言ってるんですか」
「僕もそう思います」
澪が、泣きそうな顔で少しだけ笑った。
その瞬間、僕は思った。
ああ、止めてよかった。
たとえこの後、首が飛んでも。
この子が一瞬でも、自分の名前でここに立てたなら。
止めてよかった。
だが、物語はそんな綺麗な感傷では終わらない。
ソロン神官長が、ゆっくりと杖を下ろした。
顔から表情が消えていた。
「拘束せよ」
短い命令だった。
騎士たちが一斉に動く。
まず、僕の両腕が背後からねじ上げられた。
次に、膝裏を蹴られた。
床に叩きつけられる。
口の中に血の味が広がった。
「ルシアンさん!」
澪が叫ぶ。
「聖女様をお連れしろ」
騎士が澪の腕を掴む。
澪は抵抗した。
だが、身体能力が違いすぎる。
彼女の細い腕が、簡単に引き離される。
「やめてください!私は、まだ何も――」
「混乱なさっているだけです」
神官の一人が、優しい声で言った。
その声が、いちばん気持ち悪かった。
「落ち着けば、きっと王国の尊い使命をご理解いただけます」
「理解じゃなくて、同意が先だろ……!」
僕は床に押さえつけられたまま叫んだ。
騎士の膝が背中に乗る。
息が潰れる。
ユリウス王太子が、僕の前に立った。
見下ろす目に、もはや微笑みはない。
「下級書記官ルシアン・アスター。貴様は王命による聖女召喚儀式を妨害し、王国存続を危機に晒した」
「危機に晒してるのは、説明なしで人を連れてくる側です」
「まだ口が減らないか」
「書記官なので」
殴られた。
頬が熱くなる。
視界が揺れる。
それでも、僕は笑った。
たぶん、かなり不格好だったと思う。
「記録してください」
「何?」
「本日、神聖暦六百十二年、春の月、十三日。ラウレシア大神殿にて、聖女召喚対象者カンザキ・ミオは、帰還の可否について質問した。王太子ユリウス殿下は、明確な帰還保証を行わなかった」
ユリウスの瞳に怒りが宿る。
「黙れ」
「さらに、本人の同意確認前に、神官長ソロン猊下は対象者の再拘束を命じた」
「黙れ!」
「記録してください!」
大聖堂に、僕の声が響いた。
静まり返った空間の端で、書記台にいた別の補助書記官がびくりと震える。
彼はペンを持ったまま固まっていた。
同期ではない。
名前も知らない。
ただ、同じ書記官だ。
僕は彼を見た。
「記録を」
彼の手が震えた。
ソロンが鋭く睨む。
「書くな」
書記官のペン先が止まる。
無理もない。
書けば巻き込まれる。
書かなければ安全だ。
僕だって、昨日までなら書けなかったかもしれない。
その時だった。
「記録なさい」
涼しい声がした。
レティシアだった。
彼女は王太子の制止も、神官長の威圧も無視して、一歩前へ出た。
「公的儀式における発言は、記録対象ですわ。神殿書記法第十二条。儀式中の異議申し立ては、採否にかかわらず要旨を残すものとする」
書記官のペンが、紙の上を走り始めた。
ソロンの顔が、今度こそ怒りに歪む。
「レティシア・ヴァルドール。貴様もか」
「ええ」
彼女は微笑んだ。
それは、噂に聞く悪役令嬢の笑みそのものだった。
「どうせ悪女ですもの。少しくらい、悪事の記録を残してもよろしいでしょう?」
場が再び凍る。
その隙に、澪が叫んだ。
「私は、同意してません!」
その声は震えていた。
でも、大聖堂の天井まで届いた。
「勝手に連れてこられて、帰れるかも分からなくて、説明もされてなくて、それで聖女とか言われても分かりません!」
騎士が澪の腕を押さえる。
それでも彼女は言った。
「私は、神崎澪です!」
白い光が、彼女の足元に広がった。
召喚陣の黄金ではない。
もっと柔らかく、けれどまっすぐな光。
神官たちがどよめく。
「聖女の魔力……」
「覚醒している……」
ソロンの目が、ぎらりと光った。
獲物を見つけた目だった。
僕はその目を見て、ぞっとした。
この男は、今の澪の叫びを聞いていない。
彼女の恐怖も、怒りも、名前も聞いていない。
見ているのは、力だけだ。
どれだけ使えるか。
どれだけ搾れるか。
どれだけ王国を延命できるか。
「聖女を隔離しろ」
ソロンが言った。
「精神安定の儀を行う」
精神安定。
嫌な言葉だった。
澪が僕を見る。
助けて、と言わなかった。
でも、目がそう言っていた。
僕は身体を動かそうとした。
動かない。
騎士に押さえつけられ、魔力封じの枷まで嵌められている。
指先一つ、まともに動かない。
そのとき、僕の視界の端で、契約書の余白がまた光った。
さっき血で書いた追加条項の下。
さらに小さな文字が浮かんでいる。
僕が書いたものではない。
古い筆跡。
震えるような、けれど確かな文字。
――第六召喚対象の名を記録せよ。
背筋が冷えた。
第六召喚。
澪のことだ。
なら、この文字を書いたのは誰だ。
先代の聖女か。
それとも、この召喚契約にかつて関わった誰かか。
文字は、すぐに消えた。
だが、僕は確かに読んだ。
記録せよ。
そうだ。
今、僕にできることは、助けることではないのかもしれない。
少なくともこの場では。
でも、記録はできる。
記録が残れば、後で使える。
契約は、書かれたものに縛られる。
なら、書かせればいい。
僕は床に押さえつけられたまま、必死で顔を上げた。
「記録……!」
血の混じった声が出た。
「召喚対象者、カンザキ・ミオ。本人は、同意していないと明言した。帰還可否の説明を求めた。王国側は回答を保留したまま、対象者の隔離を命じた」
書記官のペンが走る。
レティシアが、静かに頷いた。
澪は泣いていた。
でも、泣きながらもう一度言った。
「私は、同意してません」
その言葉も、記録された。
直後、僕の後頭部に衝撃が落ちた。
視界が暗くなる。
床の冷たさが遠のいていく。
最後に見えたのは、連れていかれる澪の背中。
そして、こちらを見下ろすソロン神官長の目だった。
「余計な文字を読む者は、余計な真実を見る」
老人は、低く囁いた。
「だから書記官。貴様の目は、ここで閉じておく」
暗闇が迫る。
その直前、銀髪の令嬢の声が聞こえた。
「閉じる目なら、私が代わりに開けておきますわ」
悪女と噂される令嬢の声は、奇妙なほど頼もしかった。
そして僕の意識は、そこで途切れた。
………
……
…
次に目を覚ました時。
僕は石造りの牢の中にいた。
両手には枷。
口の中には血の味。
背中は痛く、頭は割れそうで、状況は最悪。
だが、ひとつだけ確認できたことがある。
僕はまだ生きている。
そして、隣の牢から声がした。
「起きたかしら、契約書に刃物を刺す非常識な書記官様」
銀髪の令嬢が、鉄格子越しにこちらを見ていた。
レティシア・ヴァルドール。
噂の悪女は、牢の中だというのに、まるで夜会の席にでもいるような顔で微笑んでいた。
「初対面の挨拶としては最悪ですが」
僕はかすれた声で答えた。
「助けてくれて、ありがとうございます」
「勘違いしないで。私はあなたを助けたわけではないわ」
「では?」
「面白そうな火種に、少し薪をくべただけ」
彼女は優雅に足を組んだ。
「それで、ルシアン・アスター。あなた、あの契約の余白が読めるのね?」
眠気が、一瞬で消えた。
牢の冷たい空気の中で、僕は悟った。
どうやら本当の厄介事は、ここから始まるらしい。




