第七話
なお進む二人は、少しずつ「白羽の矢」が増えているのを見て取った。
先ほどから二人が注意を払っていた枝葉や茂みたちはもちろん、土たちにさえその痕跡が見られるようになってきた。そして二人の背でもとうてい届かない、頭上の枝葉にさえも。
何があるか分からない。二人は矢たちに触れないよう努めながら、カメラを回していく。
「会長の家のときといい、白羽の矢は高いところから降ってくるのかしら?」
「俺もそう思う。でも、そうだとしたらまいったな。この荷物は折りたたみ傘は入ってないんだ。もし来たら、気合入れてかわすしかないな」
「また、しかたないこといって……」
二人は少し笑うも、すぐ真顔に戻った。
目の前が開けたからだ。おそらくはこの小山のてっぺん。
けれど、安易に駆け出すわけにはいかない。「白羽の矢」はいよいよその版図を広げ、二人の足元のほとんどをカバーしていた。
これ以上進むには白羽の矢を踏んでいくよりなく、2人にその度胸はない。
安全地帯であるこの近辺から、頂に広がる原っぱを見るよりなかった。
いや、もはや「原っぱ」と称していいものか。
すでにそこは、ピンク一色。あの得体のしれない「白羽の矢」に染め上げられていたのだから。
あっけにとられる夏樹だったが、今度は後ろから千里が肩をつつく。
「ね、この原っぱの地表をよく見て。なにか生えていない?」
ん? と夏樹は目を凝らそうとするが、すぐ自分が手にするデジカメに気づく。
ズーム機能。カメラのレンズを伸ばし、近くの「白羽の矢」を見下ろしてみる。
肉眼の何倍ものレンズで見る地表には、稲穂を思わせる細い毛がびっしりと生えていた。
ところどころ抜けて露わになっている面もあるが、相当の量に違いなかった。
これまでの道中で見た葉たちとは異なり、明らかにその形状は毛そのものなんだ。自然に生えるものとは考え難いが……。
「ハピ、ハピ、ハピ、ハピ、ハッピータイム・レイディオ〜」
その時だ。2人がいま、もっとも聞きたくないと思っていた音楽が、スキだらけの耳へ不意に叩きこまれた。
男の声だ。もしや野村が戻ってきたのかと見回すが、そこには誰もいない。
「ハピ、ハピ、ハピ、ハピ、ハッピータイム・レイディオ〜」
「ハピ、ハピ、ハピ、ハピ、ハッピータイム・レイディオ〜」
「ハピ、ハピ、ハピ、ハピ、ハッピータイム・レイディオ〜」
なお、耳へ音楽は注がれる。
男のように思えた。女のように思えた。子供のように思えた。老人のように思えた。
いくつもの声が重なって、一帯に響き渡る。
完璧だった。千里のモノマネもとても上質なものだったが、この声はそれらが越えられなかった一線を越えている。
紡ぐ口などここにはないのに。声だけが不気味に繰り返され、こだまして、二人を包んでいた。
はじめこそ、危うく飛び上がりかけた大声だったが、それが聞いていくうちに音が弱まり、どこか聞き取りづらく……。
声が小さくなっているんじゃない。こちらの耳だ。
聴力が奪われている。おそらくはあの、完璧な歌声たちによって。
幾度となく声が渦巻くこの場所にとどまれば、自分たちは……!
「千里、逃げ……」
「待って! 見て!」
踵を返しかける夏樹の制服の袖を、千里がつかむ。その指さす先は、空を向いていた。
今は昼間。なのに千里にならって見る、原っぱの上空に浮かぶのは青空でも太陽でもない。
地上と同じ、ピンク色の原が空に広がっていた。だが、葉とピンクのすき間からは、境目たる空の青が、わずかににじみ出ているのが分かる。
――染まっているんじゃない。ピンク色のでかい球体だ。
そう察した時にはもう、先ほど見えていた青が消え、なお張り出す勢いでピンクが落ちてくる。
「ハピ、ハピ、ハピ、ハピ、ハッピータイム・レイディオ〜」
またも響くテーマ曲。今度は若い女の声というだけでなく、千里が目を見張った。
「マリちゃん? マリちゃんの声?」
「誰だ?」
「ほら、行方不明になった7人いたでしょ。あのうちの1人で、うちのクラスの子! 話したよ!」
一カ月以上も前から姿を消している子だったか……と、考える矢先に、また目の前の景色が変わる。
落ち来る、ピンク型の球体。
あのテーマ曲を口ずさむ声がするや、表面を大きく二分するようなひびが入ったんだ。
「ハピ、ハピ、ハピ、ハピ、ハッピータイム・レイディオ〜」
「ハピ、ハピ、ハピ、ハピ、ハッピータイム・レイディオ〜」
「ハピ、ハピ、ハピ、ハピ、ハッピータイム・レイディオ〜」
声はなおも、もろもろの音をもってこだまする。
その歌が届くたび、ケーキを分けていくように空の球体に新しいひびが入り続けていった。
その斬撃に耐えられず、弾かれて刻まれた球体の破片がまき散らされ、ひと足先にこちらへ落ちてきた。
二人の頭上を覆っていた樹冠の影が、突然消えた。
思わず見上げる二人の身体のすれすれを、いくつもの断片が降り落ちていく。
あるいはピンクの塊と化した葉、あるいは塊そのものが土に触れ、たちまち取り付いて固まってしまう。
そしてあるいは。元と変わらない葉のように見え、ほんのわずかピンクを帯びる気配を見せるや、ただちに姿を消してしまうもの……。
「ああっ!」
千里が突然、悲痛な声をあげる。
眼帯をした目をおさえ、うつむき気味になる顔。その眼帯の端からは、真新しい血の筋が垂れ落ちていく。
かといって 夏樹も彼女を心配しきれない。
叫びを聞くのとほぼ同時に、自分もまた胸から腹にかけてがかっと熱くなるとともに、内側から何度も蹴り飛ばされるような、痛みに襲われたからだ。
声こそ出さなかったが、背筋を伸ばしていられず、前かがみになってしまう。歯を食いしばる口元から、鉄に似た苦みがにじむのを感じる。
「ハピ、ハピ、ハピ、ハピ、ハッピータイム・レイディオ〜」
よく通るソプラノの一声ののち、ついに無数のひびを入れられた空の球体は、大いに砕けた。
が、痛みにあえぐ二人の意識はわずか、声そのものに引っ張られてしまう。
「「会長!?」」
つい見回し、二人が彼女の姿をとらえようとしてしまったのは、ほんの数秒のことだった。
だが、そんなことはお構いなしに、先よりずっと数を増した「白羽の矢」は、二人のあたりにも容赦なく降り注ぐ。
先ほど彼らの盾となってくれた樹冠の葉は、すでにない。無防備にさらされた自分の身に、あの砕けた破片がそばまで迫っていた。
点じゃなく面。
崩れた屋根を思わす広さで、視界をぐんぐん埋めてくるそれは、もう気合でかわせる域を越えている。
逃げられない。だったら……。
「千里!」
「夏樹!」
互いが互いを、かばおうとした。
痛みをこらえ肩をぶつけ合い、すでに脱いだリュックを大きく掲げ、それらもまた一緒にかち合う。
心もとない盾と化す二つのリュック。打ち合わされて揺れたそれらのうち、夏樹のものからタブレットがこぼれ落ちる。
それが地面で跳ねる音と、リュック越しに受けた重すぎる衝撃。その押し返されたリュックが頭を直撃した痛みを最後に、夏樹の目の前は真っ暗になった……。