何となく
店では濃紺の作務衣と白い割烹着が制服だった。
作務衣とは素晴らしいと、感心する。
人を選ばず誰にでも馴染むのだ。
着替えた私は、しゃれた制服ではないことに心から感謝する。
まず初めに与えられた仕事は、お客さまにお茶とおしぼりを出すこと。
今後は注文をとることも仕事だが、まずは慣れてねと言う女将の優しい配慮だ。
私がお茶を出しに行くと、板前見習いの男の子が厨房から注文が決まりましたら声を掛けて下さい!とお客に声をかける。
ほとんどが常連客のようで「なんだ、ケント。かわいい子が入って張り切ってるな」なんてからかわれれば、周りから温かい笑いが溢れた。
板前の見習いの男の子と言っても、私より二つ年上だった。
可愛らしい童顔だから若く見える。
店の主人も女将も「板前見習いのケント」とだけ紹介してくれたが、彼がこの店の跡取り息子だとは後日、常連客の話から知った。
店にいる客は店の構えと関係があるのか、みんな身なりが整っている。
ラフな姿の客もいるが、彼らもどこか品があった。
入りたての若いバイトをからかうような客はどこにもいなかった。
その日は何だか分からないうちに終わった。
家に戻るとまだ灯が灯っていた。
いつもならすっかり眠りについているはずの祖母が、ロッキングチェアに揺れながら夜風にあたっていた。
「ただいま」
祖母はこちらに目を向けると、「どうだった?」とワクワクした様子でたずねた。
「ステキなお店だったよ。何だか分からないうちに終わったけど、頑張れそう」
「そうかい。それはよかったよ」
安堵したようで、「さぁ、もう寝よう。お休み」と腰をさすりながらロッキングチェアから立ち上がり寝室に入って行った。
少しづつだが店に慣れ始めた頃。
カウンターに座っていた体の大きな男性が告げた注文がよく分からなかった。
言われた通りにメモしたがよく分からず、注文を書いたバインダーから慌てて顔を上げると、その人はまるで小さな子どもでも見るような優しい目でこちらを見ている。
私は聞き間違いかと思い、思わずたずねた。
「せっか、ですか?」
その人は微笑んだまま頷いた。
「そうだよ。せっかで当たり」
その人の笑顔が素敵で、私は思わず固まった。
女将が楽しそうに言う。
「せっかは有明の牡蠣のことなのよ」
聞き間違いでもなく、言い間違いでもなかった。
単なる知識不足。
私は慌てて頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。せっかですね。かしこ参りました」
恥ずかしくなり、厨房へ逃げ込むように走り去った。
私とあの人の出会いは、そんな小さな出来事だった。