引っかかり
あの人が注文した「せっか」は、おすすめのお品書きにちゃんと書かれていた。
通ぶってる訳ではなく、ストレートな注文。
その日から、店に出る前には仕入れによって変わるおすすめを頭に叩き込むようにした。
少し見回す余裕が出来ると、色々なことに気づく。
例えば、メニューの幾つかは「時価」と書かれている。
先日の「せっか」も時価だった。
それにも関わらず、時価なる物をためらわず客は次々と注文をし、美味い美味いと平らげるのだ。
まるで別世界。
確かに、提供される料理の鮮度は見ただけで分かるほど生き生きしている。
どの料理も手間暇がかかっていることも、たいして料理をしない私でも分かる。
そこに惚れて、価格を厭わず訪れる客たち。
まだ19歳の私には、お盆に乗せたこの料理も、この小さな瓶のお酒も、一日のバイト代なんてすっ飛んでしまうくらいなのだろう。
「ケント、頼むわ」
ご主人が厨房でそら豆に塩をもみ込んでいたケントに声を掛けた。
手には先程女将が手際よく詰めた2段の折り箱が入った保冷ボックスがある。
花登屋は出前をしていない。
不思議そうに思うと、ケントが耳打ちした。
「向かいだから、長尾さんには特別なんだ」
そう言って、保冷ボックスを受けたケントは白衣を脱いでどこかへ出掛けると、10分もしないで戻ってきた。
そんなことが何度か続いた。
店が開く前の時間。
ご主人はさっそく折り箱に料理を詰め始めた。
その美しい弁当に思わず見惚れる。
こんな仕出しが食べられるなんて、幸せな人だ。
「長ちゃんは私もファンだから、特別なんですよ。よく店に来てくれるし。時間も不定期だからね」
ご主人の説明に小鉢の用意をしていた女将が嬉しそうに続けた。
「親父さんのご飯が美味しいって。嬉しいですよね」
折り箱を詰め終え、たくさんの保冷剤と共にアイスボックスへ弁当を入れる。
「ピンポンして、いたら直接渡すし、居なかったら宅配ロッカーに入れるんだ。ただし、今日中に食べることが条件でやってる、特別ルール」
ケントも私が長ちゃんなる人物を知ってる前提で話すが、やはり誰か分からなかった。
せっかの人に会えたのは、それから暫くしてからだった。
「いらっしゃいませ」
店の扉が開き、声をかけた方を見れば大きな男の人が立っていた。
カウンター越しのご主人に「こんにちは」と声をかけた。
「いらっしゃい」
席についてメニューを開くその人にお茶を出しながら、その人がせっかの人だと思い出した。
その人は、カウンターに慣れた様子で座る。
お茶を出すと「ありがとう」とこちらを見て微笑んだ。
20代後半だろうか。
鍛えられた大きな体とあどけない優しい笑顔のギャップに、私は胸がトクンと跳ねた。




