エピローグ
「おとなしく聞いていたから、約束どおり、放送室の鍵を渡してあげるわ。ほら、近くまで取りに来い」
そう言って、神園は、鍵を持った左手を前方に伸ばす。
煽るように、鍵を柵にぶつけた。
かちん。かちん。
かちん……。
七奈美の声で命令する神園の言動に、力也は感情が逆なでされたのだろう。
小さく舌打ちをする。
それでも、鍵を渡すと告げられ、言われたとおりにゆっくり前方へ歩きだした。
後ろで見ていた栞と鈴音も、ようやく、ホッと安堵の息を漏らす。
――その瞬間。
ふいに、神園は叫んだ。
「やめて! 力也くん、近寄らないで! あなた、七奈美のときのように、私を突き落とす気なんでしょ? 嫌だ、死にたくない! 誰か助けて!」
それは、これまでの七奈美の声ではなく、一年間聞き慣れた神園自身の低い声だった。
急にあげた叫びとその内容に、栞は呆気に取られて言葉を失う。
だが、突然のことでパニックになった鈴音が、叫び声をあげた。
「力也! あの女に、それ以上叫ばせないで!」
鈴音の声に押されたのか、慌てて力也が、神園に向かって駆けだした。
柵に辿りつくと、左手で柵を握りしめ、右手を神園のほうへ伸ばす。それより先に神園は、鍵を持っていた左手を、サッと頭上へ掲げる。
「てめぇ、このアマ! ふざけんな!」
罵声を浴びせながら力也の伸ばした手は、頭上の鍵へは届かずに宙を掻く。そのまま、神園の髪を引っつかんだ。神園は悲鳴をあげる。見ていた栞が、思わず叫んでいた。
「力也くん! 先生に酷いことをしないで! 乱暴はやめて!」
「うるせぇ!」
栞の制止の声と神園の悲鳴、その両方に対して力也が怒鳴った瞬間。
神園は笑った。
その笑いは、これまでの神園の薄い笑みでもなく、七奈美の微笑みでもなかった。
邪気を含んだ毒々しい、にんまりとした笑みだ。
その神園の右手には、小さな棒状の銀色に光を反射したものが握られていて、一番上で、赤い色が点灯している。意味に気づいた力也の目が、大きく見開いた。
その力也の頬へ、神園は爪を立て、表面の肉を削ぐ。
力也は驚いた拍子に、数本の髪の毛を引き抜いて指にまとわせながら、神園を取り逃がした。
神園は、淵ぎりぎりに立つ。
右手に握られたボイスレコーダーの録音停止ボタンを押すと、フッと赤ランプが消えた。
そのまま、彼女の豊満な胸の谷間に、丁寧に押しこめられる。
呆気にとられている力也へ、神園は、満足そうに告げた。
「七奈美、一年かかったけれど、いま無念を晴らすね」
そして神園は、邪気に満ちた極上の笑みを浮かべてみせる。
「――私はいま、あなたに捕まったわ。だから、今度はあなたたちが逃げる番よ。でもね、私があなたたちを追いかけるんじゃない。あなたたちは、なにから逃げると思う?」
七奈美が、穢れを知らない純白の羽を持つ天使であれば。
暗闇に浮かぶ神園は、罪に濡れた黒い羽を広げる堕天使だった。
「次はあなたたちが、この社会に追いかけられる番よ。マスコミ、警察、近所、友人、身内、ネット……。さあ、世のなかのあらゆる人々の目から、逃げまわるがいい!」
栞が、ハッと顔をあげる。
どのあたりから録音されていたのかわからない。
だが、聞きようによっては、先ほど吹きこまれた鈴音や力也の声が、神園を突き落とそうとしている瞬間に思えるのではないだろうか……。
手には、放送室の鍵と、力也のDNAを握りしめて。
そして、証拠となるボイスレコーダーが壊れぬように、自分自身をクッションにして。
そう栞が確信したときには、神園は、後ろ向きに屋上の縁を蹴っていた。
力也へ笑みを向けたまま、神園は七奈美の声で、はっきりと告げる。
「さあ。ヲワイの後半戦や」
神園の姿が視界から消えたとき。
七奈美の歌声がこだまのように、栞の脳裏でかすかに響いていた。
パトカーのサイレンが、正門前で停まった。
――了――





