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女神

 入学後、すぐに使い走りとして、英二は力也の手下となっていた。

 その日も、昼休みに購買部へアイスコーヒーを買いに、英二は廊下を走る。

 うつむき加減で駆けていたため、前方から歩いてくる男子に気づかず、英二はぶつかってしまった。踏ん張りのきかない英二は、後ろにコケて尻もちをつく。


「あ、悪い悪い。俺も前をみてなかったわ」


 軽い調子で謝ると、ぶつかった相手はそのまま、ほかの友人たちと通り過ぎていった。小さなため息をつきながら、英二は起きあがるために両手を床につき四つん這いになる。

 そんな英二の目の前に、小さくて白い手が差し伸べられた。


「――え」

「どうぞ。災難やったね」


 にっこりと笑みを浮かべて、七奈美は、呆然と見あげていた英二の手をつかみ、引っ張り起こした。近くで聞く七奈美の声は、とても女の子らしいソプラノで、英二の耳に涼やかに心地よく響いた。


「あ、ありが……」

「気にしなくてええよ」


 すぐに手を放して、七奈美は言う。そして、英二が言い辛そうに口を開こうとすると、察したように、茶目っ気たっぷりの口調で、七奈美は続けた。


「なんか、男の子と手をつないだん、照れるわ」


 そんな七奈美を、英二は驚いたように、目を見開いて見つめた。

 七奈美は、英二の視線を正面から受け止める。


「英二くん、きれいな目をしてるやん。もったいないわ、うつむいてたら全然わからへんわ。――力也くんに、いいようにこき使われとん違う? わたしから、力也くん本人か、先生に伝えようか?」


 本当に心配しているように、七奈美は英二の瞳をのぞきこんだ。

 慌てて英二は、頭を左右に振った。


「――あ、だ、大丈夫。いじめられてる、わけでもないから」

「そうなん?」

「うん……。ぼくは、弱いから。命令されることもあるけど、ついていくだけって、けっこう楽だし……。力也さんのグループだから、ほかのグループに、手をだされないし」


 英二は、珍しく自分が長くしゃべっているなと感じた。そして、七奈美が、自分の言葉を真剣に聞いてくれている、それがとても嬉しく感じた。


「そう。それならいいけど。なにかあったら、遠慮なくね。あ、急いでたんやろ? 早く行かな。引き留めて悪かったわ」


 そして、七奈美はもう一度、英二に笑みを向けてから歩きだす。


 英二が七奈美と言葉を交わしたのは、そのときが初めてだった。アイスコーヒーを買うべく駆けだした英二は、なぜか無性に嬉しい気分になっていた。


 ――クラスの男子たちは七奈美のことを、可愛らしい天使のようだと言っている。

 だが、英二にとっては、モノクロの高校生活に色を与えた、光を放つ女神のようだと考えるようになった。




 目の端に、七奈美の姿が映るだけで、その一日を頑張れる気がする。

 そんなある日、教師と交際をしているという、七奈美の不穏な噂が広がった。もちろん、英二は、噂をまったく信じていなかった。手をつないだだけで照れると言っていた七奈美だ。そんなこと、あるわけがないと、心の中で思っていた。七奈美に関する力也の軽口も、嫌な気分にはなったが、黙って聞き流していた。


 しばらくして、ある日の放課後、突然、力也が七奈美を罵倒して、髪の毛をつかんで引き倒した。七奈美が鈴音の悪評を流したことが原因だと、そのときはじめて英二は知った。

 それもきっと、なにか誤解があったんだと、英二は七奈美を信じていた。

 実際に、それ以降も七奈美の凛とした姿に変化はなく、その姿すら、英二にとっては清らかで美しかった。


 そんなとき、力也が、遊びを思いついた。

 追う側と逃げる側に分かれて追いかける、俗にいうドロケイだ。

 強制的に七奈美に遊びに参加させて、逃げる彼女を追いかけよう、捕まったら罰ゲームと称して、噂の相手を吐かせよう、うまくいけば、楽しい思いができるかもしれない……。


 そんな力也の思いつきに、英二は反吐がでそうなほど、嫌悪感をいだいた。だが、英二は力也に逆らうほどの勇気は、持ち合わせていなかった。


 放課後、ひとりで下校しようとする七奈美を待ち伏せして、無理やり追いかけるようになった。学校外では逃げる範囲が広く、警察などに駆けこまれても困るからと、校門を出るまでというルールを、力也は勝手に決めた。門を出て逃げ切れば、次の日の放課後、また初めから繰り返された。どう考えても、七奈美が一度捕まるまで、永遠に繰り返される遊びにしか思えなかった。


 七奈美が友人と――たとえば安藤栞と一緒に下校すればいいのにと、英二は思ったときもある。だが、どうやら七奈美としては、友を巻きこみたくなかったらしい。

 あとから考えると、もし安藤栞が七奈美とともにいたら、力也は、ふたりとも遊びのターゲットとして追いかけ、罰ゲームを与えていただろう。

 そういう意味では、七奈美の判断は正しかったかもしれない。



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