堕ちた女騎士
「では」
アンナロッテは、はじめのときと同じように数本の麺を箸で持ち上げた。
さあ、挑んでくれよう。
精神的な勝利を得るために。
騎士の鋼の心は揺るがないことを示すために。
そして、姫と共にここを脱するのだ。
ズッズズ
麺は先ほどと変わらず、堅め。
最初よりも免疫ができたのか、この心地よい噛みごたえにもさして動じることもない。
だが。
「……ん」
麺に絡んでいたスープの旨味がまったく違う。
鼻を通り抜けていった風味だけでその片鱗を感じられた。
まるでドラゴンが頭上を通過し、影が覆い被さるだけで、間違いなくこいつは強力なモンスターだろうと認識できるような。
それほどすさまじい凄味だった。
麺を咀嚼してすぐ飲み込むと、スプーンに持ち換えた。
これから例のスープと対峙しなければならない。
全てを屈服させるであろう味が待ち受けているのは覚悟せねばならないが、万全の状態で口にすれば勝機がないわけではない。
余裕があるうちに敵の攻撃を受け切ってしまえば。
アンナロッテはスプーンでスープを掬った。
白濁として脂の浮いた表面は変わらないが、この中に一体、どれだけ凶悪極まりない旨味がつまっているのだろうか。
苦闘は必至、だが挑むのだ。
このスープ1口を乗り越えれば、ラーメンという欲望を自制心で打ち破ったことになる。
決意し、スプーンを口に近づけていくと、
「ちょっと待ってくれ」
「な、なんだ」
「スープも自慢なんだが、その前に玉子とチャーシューを食ってくれ。純粋に具だけの味で味わえるように。それだけで1品として出せるくらい自信があるんだ」
「ぐ、具など、別にどうでもいいだろう」
「ラーメンに具の存在は大切なんだよ。まさか、美味いと認めたくないからできるだけ食わずに済ますってのか? そいつはずるいんじゃねえのかい」
「ずるいだと! 魔物にそんなことを言わせてなるものか! 具でも何でも、今すぐ食べてやろうではないか!」
アンナロッテは余裕を作るという戦術的な理由から具を後回しにするつもりだっただけで、避けようとは思っていなかった。
だがオークの挑発的な発言、多少言いがかりに近いものだが、それについ乗ってしまい、自らスープを先にする戦術を破綻させることになった。
ずるいなどと言わせるものか。
玉子? チャーシュー?
具でも何でも、全てを受けきってやろうではないか。
試練があればより厳しいものを選び、すすんで受けよ。
それが誇り高き騎士の教え。
その上で勝利を刻むのだ!
アンナロッテは決意を新たに箸を取ると、玉子をつかんだ。
濃く色付いた白身、ドロリとした黄身。
茹でた玉子を煮汁で煮たものでしかないのに、ただならぬ威容を見せつけている。
「くっ!」
(たかが玉子などに私は負けん!)
勢いよく、ぱくっと一口で口に入れた。
(っ! この食感は)
2度火を通されているにも関わらず、固すぎず柔らかすぎず、プリッとしたほどよい白身の弾力。
一噛みで分かるこの心地よい歯触りは城の専属の菓子職人が作るゼリー菓子にも匹敵する。
(んうっ!? き、黄身がぁ)
口中に一気に黄身が拡がった。
ドロッとした黄身が、舌に、歯列にねっとりと絡み付いてくる。
(ああ、濃密な味から逃れられない!? こ、この濃い味と香りは、醤油か! そこに何らかの調味液が数種類加わり。普段食べなれていない味ではあるが、その調和が生み出すこの玉子は──)
美味しい!
と出かけて、アンナロッテは口元に手を添えて必死に耐えた。
旨さあふれる後味と風味が口に残る。
それは呪術師がかける呪詛のように、アンナロッテをしばり、攻め立てる。
正直、たまらなく美味いのだ。
だがここでそれを認めたりしたら、もう、戻れなくなる。
「……ぅぅ」
彼女は「美味しい」の言葉もろとも、なんとか玉子を飲み込んだ。
もしアンナロッテの忍耐力を表すヒットポイントがあるとするなら、今の一口で大きく削られたことだろう。
「どうだったい、俺の煮たまごは?」
「おぃ、ん、わ、わ、悪くはないな」
「強がりを。じゃあ次はチャーシューを試してくんな、冷めないうちにな」
オークは休憩の時間を与えない。
温かいまま食べてほしいという料理人の本心がある一方、ここが攻め時だと見極めたのだ。
(なんと凶悪極まりない見た目だ)
アンナロッテは箸で掴み上げたチャーシューを、グッと眉を寄せて睨み付けた。
眉間に力を入れていなければ、表情が緩んでしまいそうになるくらい美味しそうだからだ。
表面の照り、締まった肉からはじわじわと肉汁が流れ出ている。
香ばしさと甘みを想像させる匂いが漂ってきて、口に入れずとも絶対美味いと断言できそうだった。
だが、彼女はそれを認められない。
認めたら負けだからだ。
(肉料理には普段から親しんでいる。口にしたところで、取り乱すような事態にはなるまい。なるものかっ)
アンナロッテはえいっと口に入れ、半分ほどのところで噛み切ったが、
(んんんっ!)
驚くほど柔らかく、口を動かさずとも、ほろほろと中でほぐれていく。
しっかりした肉質ながら柔らかい。
一見矛盾しているようだが、それを実現しているのはオークの調理技術だ。
下拵えから煮込みまでの工程が完璧。
ほぐれた肉は肉汁をまといながら口中に拡がっていく。
同じ濃密な味わいでも玉子にはない、肉と脂が生み出す重厚さ。
(これは、こんなことが!?)
肉は食べなれているから大丈夫。
それが仇となった。
よく食べているからこそ、これが普段口にする並大抵の肉料理とは別次元のものだと分からされてしまう。
「どうだい、最高の仕上がりだろう?」
「……ぅぅ」
アンナロッテは声もあげられず、咀嚼し、飲み込むのがやっとだった。
(まさか、こんな味があっただなんて。玉子に続けて、こんなものを食べさせられたら、私は、私は──)
呆然とする彼女の自制心はほぼ瀕死の状態と言えた。
この状況であのスープが飲めるのか?
だがアンナロッテの心は、完全には死んではいなかった。
これらを食べ続けなければならないというわけではない。
あと1度、耐えきれば良いのだ。
あと1度、1度だけ。
「さあ、俺が作り上げた自慢のスープだ。さあさあ、グイッとやってくれ」
アンナロッテは震えを隠せない手でスプーンを持つと、スープを掬った。
(これを凌ぎ切りさえすれば私の勝ちだ。一口飲んで真っ向から否定する、たったそれだけのこと、それだけのこと──)
「私は絶対屈しない。私は決してこんな、魔物が作った料理になど、絶対に屈したりしない、屈したりするものかっ!」
彼女はスプーンを口に近付けていき、意を決したようにスープを飲んだ。
「──あっ!」
アンナロッテの口内に、一瞬で花火のような爆発的な旨味が花開いた。
それは単なる味という概念を超えて、肉体的な官能ですらあり、体を震わせる快感と言っても過言ではなかった。
絶頂に至るに等しいほどの味の快感は、舌から脳髄までを電撃で貫かれたかのような衝撃を彼女に与え、
「んっ、んん……んほおぉぉぉ!」
アンナロッテは喉を見せるようにして、大きく仰け反った。
騎士として重んじるべきプライドも誇り高き言葉を並べるだけの語彙も、その衝撃が全て吹き飛ばしてしまった。
それほどの旨味だったのだ。
「お、お、おぉ、おいひいぃぃぃ!」
彼女は今までの沈着さが嘘だったかのように、猛烈な勢いでラーメンをすすり始めた。
「だめ、だめなのにっ! 魔物の料理を認めるだなんて、だめなのにぃ! くっ、悔しい! 悔しいのにラーメンが美味しすぎて、か、体が勝手にぃ!」
「おお、良い食いっぷりじゃねえか。止められないってのは、どうしようもなく体がそれを求めてるってことだぜ? その、とびっきりに濃厚なやつをなあ」
「そ、そんな、くぅぅ、ああだめっ! はし、はしがさっきから止まんないっ! 欲しがってる、体が、この強烈な味のラーメンを欲しがってるぅぅ!」
「へへ、あんなに嫌がってたってのに、女騎士様はとんでもなく貪欲だねえ。本心では最初からそうしたかったんだな」
「ああ、だめ、だめなのに逆らえない、この麺に、スープに体が逆らえないぃ!」
「おお、おお、箸をとんでもない勢いで動かして、具もたっぷり口にかきこんで、もう大盛りを食い尽くしちまう勢いだ」
「ああっ! こんな、こんなんじゃ……こんなんじゃ足りない、足りないのぉ! もっと、もっとぉ! 私が満足するまでラーメンのおかわりをちょうだぁぁい!」
豚骨ラーメンに屈したアンナロッテの悦びに充ち充ちた声が店内に響き渡った。
それから1時間ほど経った頃、店の扉をノックする音がした。
オークが開けると、そこには数人の騎士と侍女が立っていた。
アンナロッテとは別の範囲で姫を捜していたものたちだ。
オークの登場に騎士は身構えるが、
「おっと、俺はオークだが国からちゃんと許可をもらって食い物屋を開いてるもんだ。許可証もあるぜ。で、何か用かい?」
「この家の近くに、さる高貴な御方を捜していた騎士の馬が留め置かれていた。店主よ、何か知らないか?」
「ああ、お姫様だったら迷っていたとこを俺が助けて、少し前に来たその騎士様に無事保護してもらったんだ」
「おおっ、そうであったか! 礼を言おう。して、店主、2人は?」
「見ての通り、ここは食い物屋なんでな。奥の部屋でゆっくり食事をしてもらってる」
なるほど、と騎士と侍女たちが奥へと行こうとすると、
「今は行かないほうが良いかもしれないぜ。食ってる最中だからよ」
「いや、構わん。今は姫様の無事を確認し、アンナロッテ殿に保護の状況を聞くことが何より優先されるのだ」
「そうかい。まあ、無理には止めんがな」
彼らは部屋の前でノックすると、
「姫様、失礼いたします」
扉を開けた。
「!? ひ、姫様!?」
「アンナロッテ殿!?」
そこには可憐な姫も、誇り高き高潔な女騎士もいなかった。
「んんん、豚しゃんのスープおいひい」
「あぁあ、はし、はし止まらないぃ」
彼らが見たのは、大盛りのラーメンを夢中になってすすり、別皿に盛られた具を遠慮なくバクバクと貪る2人の姿。
「たまご、はむっ、んん、濃くておいひぃ。んむぅ、いっぺんにもう1つ食べちゃおう」
姫は煮玉子を口いっぱいに頬張った。
「ああ、姫、ずるい、私もそれほしい」
「アンナロッテ、はい、あーん」
「あーん、あん、んん、はあぁ、濃厚な黄身がとろけてぇ、たまんなぁい」
2人の目には騎士も侍女も写らない。
テーブルマナーもそっちのけにして美食の快楽に身を委ねていた。
「そ、そんな、あのアンナロッテ殿がこのような乱れかたを」
「ひ、姫様、おいたわしや、ああっ」
騎士が驚愕し、侍女が卒倒するなか、それでもアンナロッテと姫はとろけた表情でラーメンをすすり続けていた。
オークのラーメン屋から救出された2人は、当初なんらかの薬物か術の影響を疑われたが、単に美味しすぎる料理を前に錯乱に近い状態になっていただけだった。
すぐ正気に戻り、体に悪影響もなかった。
この件は姫の行方不明の件を含めて、その日のうちに国王の耳に入ることになった。
関係者に処罰が下るかと思われたが、これというお咎めは特になし。
食の細かった姫が食事に興味を持ち、よく食べるようになって、姫の健康にうるさかった国王は逆に喜んだという。
さすがにラーメン屋での様子には箝口令が敷かれたが、アンナロッテの痴態はどこからか漏れ伝わってしまい、
「森にあるオークの家で悶えていた」
「騎士にあるまじき乱れかたをしていた」
「ああ見えて実は大変な大食いらしく、はしたないほど食いまくっていた」
などと噂が流れてしまった。
「どうしてあのような失態を」
後悔しながらもアンナロッテはあのラーメンの味が忘れられなかった。
この件で話題となり人気店になったオークの店にお忍びで行こうかと悩みながら、自分の噂話を耳にするたび、
「くっ殺せ」
と彼女は赤面するのだった。
今日も王国は平和である。




