†:革命を継ぐ者 1
卒業式当日になった。
早朝に目覚めた俺、和希・Hは、頭に巻いた包帯を外し、洗面台に向かって冷たい水で顔を洗った。
顔の右半分はひどいケロイド状になっているが、外の世界に出れば、治療をして貰えることになっている。セレブレ一人ひとりにかけられた医療保険がそれを可能にしてくれるようだ。シンジがいなくなったあと、H組を担当することになった荒巻先生が言ったのだから間違いない。
人間扱いしていないのに顔の傷は治してくれるわけだ。大人たちのやることは矛盾している。もっともそれは、今に始まった話ではないが。
洗顔を終えた俺はもう一度包帯を巻き直す。そして服を脱ぎ、鏡の前に立った。制服に着替えるためだ。
女の下着はつけていない。元々胸が薄いのでさらしを巻く必要もない。シャツを着て、スカートを履き、リボンはつけずにブレザーをはおる。こうして量産型のセレブレができあがる。
唯一違うのは、髪型だ。長い髪をゴムで結わえてポニーテイルにする。俺はこの髪型が好きだった。自分のトレードマークだとさえ思っている。男子生徒になっても髪を伸ばし続けているのはそのためだ。
俺の体は女だが、心は男である。どちらの制服を着るのかは自由にしろと言われたので、俺はあえてスカートを履くことを選んだ。男子となった元女子生徒の中で、いまだにスカートを履き続けているのは俺一人だ。
理由は明確。康介がそうしていたからだ。男の心をもって不安定になった俺を、康介という存在が支えてくれた。
クラスメートから女子として扱われることに違和感を抱いても、制服を変えるほど大胆にはなれない。そんな曖昧な性を持て余した俺の、ロールモデルに彼はなってくれた。「男がスカート履いたっていいじゃん」と康介は笑顔で言ってくれた。
制服に着替えた俺は、部屋を出て食堂へ向かった。卒業式の日とはいえ、毎日繰り返す行動に変わったところはない。俺は定食をのせたトレイを手に持ち、ランダムに選んだ席に座る。
食堂には監視カメラがあるため、特定の場所に陣取るのは命取りだった。無作為に選んだ食堂の席で、俺はこれまで何人ものエニモーと密談をかわした。食事をするふりをしながら、小声で話し合った。
エニモーは康介がいなくなったあと、次の指導者を求めていた。俺は彼らに、自分が康介の意志を継ぐ者であることを教えた。康介に向けていた忠誠心を自分に向けろと言い含めた。拒絶する者は誰一人いなかった。康介が始めた課外活動は、二年半あまりの活動の間に十分なほど組織化されていたからだ。
きょうも一人の元エニモーが俺の斜め前に座った。俺はもう彼らのことをエニモーとは呼ばない。彼は黙々とパンを齧り続ける俺を見ずに、監視カメラを意識した姿勢で言った。
「和希さん、ついにこの日が来ましたね」
俺はミルクを飲むついでにゆっくりと頷く。その動作の意味は「焦るな」だ。
康介はエニモーを訓練する過程で、彼らをスパイ映画さながらのエージェントに変えていた。きわめて高度に統制のとれている彼らは、俺の些細な動作の意味をたちまち理解する。
だから目の前の元エニモーも、高揚しかけていたおのれを抑制し、トレイの上のパンやスープに視線を戻した。彼以外の多くの元エニモーたちは、そもそも俺の側へ近寄ってこない。俺たちの集大成とも呼ぶべき作戦を実行する当日、担当官たちに怪しまれる行動をとるべきではないとわかっているからだ。
食事を終えた俺は自室に戻り、椅子に座って、先生から貰った一台の端末を取り出す。学業成績における学年一位を守り通した俺は、卒業生を代表して答辞をする役目を担っていた。端末には、そのための原稿が入っている。
確認のために取り出すが、原稿は真っ白で、そこに文字は書かれていない。語るべきことは全部頭の中に入っていたし、実際にはアドリブをきかせながら話すことになるだろう。この端末はフェイクだ。さもまっとうな答辞をする気であるかのように見せかけるための小道具だ。
小道具と言えば、作戦へ向けた最大の武器であるネット接続可能な端末は、美琴先生が残してくれたものだ。先生が離任する際、端末のありかをメールで教えたのはこの俺だ。
隠し場所は『緋色の研究』というミステリー小説の犯人の名前がキーで、イニシャルに付属の数字をかけ合わせれば座標が割り出せるようになっていた。それを解くのは俺には造作もないことだった。
ほどなく講堂へ向かう時間になった。俺は渚を誘い、一緒に廊下を歩いた。互いに無言だったが、康介の意志を継ぐという一点において俺たちは同志だった。
渚の役目は、俺が起こした騒乱のどさくさにまぎれ、担当官のIDカードを奪い、仲間の元エニモーたちを地上に送り込むことだ。ターゲットはB組を受け持っている、女性の担当官。そのために渚は、留め具に鉄の重りがついたベルトを巻いている。いかに非力な渚でも、それを鞭のように使えば相手を制することができるだろうし、そのための訓練も積んでいる。
俺たちの目的は、俺の声を端末を通じて世界中に配信すること。そして、叛逆の意志を漲らせた元エニモーたちを地上へ解き放つこと。端末をネットにつなげば、通話ができる。相手は首領様だ。
彼は俺の答辞をネットニュース専門の報道局に送信し、セレブレの蜂起を公にしてくれる。首領様が協力的だったのは、美琴先生が彼に俺という人間を託したことからも明らかだった。
美琴先生は俺たちに希望を残すと言った。俺たちの希望は自由と解放だ。言葉にすればありふれているが、それこそが人間性という理念の核心だ。
講堂につき、式が始まっても、俺は緊張を緩めない。準備は整っていた。あとはやり遂げる勇気だけ。今からこの学校で起きる事件は、セレブレ計画の失敗として外の世界を震撼させるだろう。担当官の皆様、そして来賓の皆様がた、あなたたちがどれだけ俺たちを弄んでくれたか、これはほんのお礼のつもりだ。
修学旅行前、康介は俺に言った。自分の計画がたとえ失敗に終わっても、その意志は引き継がれ、学校に必ずや革命を起こせると。
俺は子供の頃から、漠然と「世界を変えたい」と思っていた。渚の奴が「人のためになることがしたい」と思っていたように、それは俺のひそかな夢だった。本来なら、形をなす前に消え去るような夢。可能にしてくれたのは康介だった。
あいつはセレブレを縛りつける使命という概念を信じていなかった。俺たちに限らず、世界は抑圧と搾取に満ちていると説いてやまなかった。俺はそんな康介に共鳴し、逸脱を助け、康介の意志を挫こうとする琉架をあの世に送った。
学校側はそれを正当防衛だと認め、俺自身、罪悪感は抱かなかった。目的の前にはいかなる手段も肯定される。そのくらいの心構えがなければ、この世に革命を起こすなんて絵空事にすぎない。
式は淡々と進行し、校長の挨拶と在校生の送辞が終わり、卒業証書授与となった。ここでH組とA組以外の卒業生は、初めて自分の奉仕先を知る。静寂は破られ、講堂は悲嘆の声に包まれた。望みどおりの未来を手にした者はほんの一握りだったからだ。やがて騒然とした空気の中、俺の出番が回ってきた。
「卒業生答辞。代表、保坂和希」
担当官の呼びかけに応え、俺は壇上に上がる。ちなみに保坂というのは、外の世界で通用するために与えられた真新しい苗字だ。
演台から講堂を見渡すと雑音が消えた。俺の意識は研ぎ澄まされており、今ならエニモーだった連中が息をのみ、唾をのみ込んだ音さえ聞こえてきそうだ。
演台に立った俺は、担当官たちの側を向いて一礼した。彼らの穏やかな反応から、俺が一人の優等生だと今この瞬間にも信じていることが伝わってきた。親に裏切られることを疑わない幼児のようだと思った。
俺はブレザーの胸ポケットから端末を取り出し、軽く息を吐いた。これから発するメッセージは、世界への問いかけであると同時に、まだ外の世界で生きているだろう康介へのメッセージでもある。
俺宛のメールを通じ、美琴先生は教えてくれた。康介は処分されていないと。セレブレによる逸脱が世間に露見していないというのは、生徒たちを動揺させないための嘘だったことを。この地下施設にはたくさんの嘘がある。
俺は生まれてからずっと、本音を口にするのが苦手だった。しかし、きょうはこの場で、それらの嘘を白日の下に晒すつもりだ。
「保坂和希です。本日はたいへんお日柄もよく、まるでぼくたちの門出を祝ってくれているかのようです。これから話すことは、答辞としてはちょっと長いものになります。聞き苦しい点があるかもしれませんが、最後までご清聴いただきたく思います」
おろし立てのブーツみたいな苗字を口にしながら、俺は思う。伊達に学年一位をとってきたわけじゃないんだ。康介との約束どおり、俺は優等生の仮面をかぶり続け、ようやくこの場に立つことができた。中等科に上がってからの三年間、その長きにわたる戦いにピリオドを打つべく、俺は講堂にアルトボイスを響かせる。プロジェクト・メイヘムの再開だった。




