わたしはいつも、わたしでいなければなりません
中庭を通り抜けて玄関ホールへたどり着く寸前、先に立って進んでいたラムウィンドスが不意に勢い良く振り返った。
「姫は、ヴェールを用意していないのか。ライオンの森を抜けるために、兵士を何人か連れてきている。彼らの前で素顔を晒すことには反対だ」
真摯なまなざしを向けられて、セリスはラムウィンドスの眼鏡の奥の瞳に吸い込まれるようにじっと見つめ返してしまった。
(私のことを気に入らない態度であっても、必要なことは省かずに助言してくれるのね)
意外さに戸惑いながら、セリスは正直に答える。
「普段はヴェールを使っていないんです。顔を隠すのは防犯上望ましくないという判断で」
「離宮では常に素顔でいたと?」
「わたしが何らかの理由で、あるときを境に別人にすり替わっていても、ヴェールで顔を隠していれば周りの者が気づかない恐れもあります。わたしはいつも、わたしでいなければいけません」
離宮ではレルワニだけがヴェールを常用していて、決して素顔を明かすことはなかった。
しかし、人相を不明にするヴェールは侵入者があったときには大変不都合なものである。人数が少ないからこそ、全員が顔見知りであるほうが防犯上は良い。
そうでなくとも離宮勤めの女性兵士たちは視界が悪くなるから仕事にならないと使っておらず、侍女たちも同じく仕事をするときに邪魔だという理由でつけていなかった。セリスに関して言えば特徴的な「銀の髪」はあれど、万が一さらわれたときに顔を知る者がいなければ探しようもなくなるなどの理由により、離宮の者たちの前では素顔を晒していた。
「女性だけの環境だから、他の者も使っていなかったようだ。姫にはヴェールの習慣そのものがないんだろう。この先警護にあたる者が姫の顔を知っているのも、重要なことだ」
とりなすようにゼファードが会話に口を挟み、セリスの顔を見ながら続けた。ラムウィンドスはゼファードが話す間、苦みを滲ませた表情でセリスの顔を見つめてきていた。
(見られて……いますね。見られています。そんなに見なくても。いつまで見ているんですか? 見すぎではないですか……!?)
緊張して動けないセリスをよそに、ラムウィンドスは「了解だ」と低い声で言ってようやく視線を外した。
「俺は姫がヴェールを被っていたとして、別人にすり替わっていれば絶対に気づく。だが、他の兵士も皆俺と同じようにやれるかといえば、そういうわけではない。兵たちの能力の平均値に合わせるのであれば、姫は顔を隠さないでいてくれたほうが、護衛しやすくなるのかもしれない」
「別の問題は起きるだろうけどね」
すかさずゼファードがラムウィンドスに目配せをする。
「起こさせない。そのために、姫の側には俺がいる」
ラムウィンドスはゼファードの視線に応え、煽りにも動じない様子でそう言い切った。そのままもう一度セリスへと向き直り、淡々とした口ぶりで言った。
「その顔は注目されるだろうが、姫は他人の目を気にしなくていい。というか、気にしている暇はない。これからライオンの森を通過する」
ライオンがどのような生き物か、セリスは離宮で生活している間、散々聞かされてきた。「敵も味方も関係なく言葉も通じない分、いつ裏切るかわからない人間を置いておくよりも安全である。肉が賄賂になる面はあるが」と言っていたのはレルワニである。
主に離宮と王宮を行き来する役目を担っていた女性兵士たちは、そんなレルワニに胡乱げな視線を向けていた。溜め息をついて首を振る者もいた。レルワニが退出したのをみはからって「敵にも味方にも等しく安全ではない存在です」と耳打ちをされたこともある。
「ライオンの森を通過するのは危険なので、離宮と行き来するときは王宮側で裏庭に睡眠薬を混ぜた餌を置き、すべてのライオンを満腹にさせたのを確認してから荷馬車を通過させていると聞いています。ここに来るときは当然、そのような対策を取っていますよね?」
「いかなる対策も万全とは言えない。気休めの意味しか持たない」
セリスの問いに対し、ラムウィンドスの返答は微妙に噛み合っていなかった。
「気休めのって、それはライオンに襲われてしまう可能性があるという意味ですか?」
その答えを聞く前に、ラムウィンドスは眼鏡の奥の目を細めて首を巡らせゼファードに告げる。
「何かあったようだ。先に行く。姫のそばを離れる」
言うなり、風のような速さで走り出してすぐに姿が見えなくなった。
(あの方自身が、まるでしなやかなライオンのようだわ。百獣の王の)
セリスの横に立ったゼファードは、ラムウィンドスの背を見送ってから「『姫のそばを離れる』だって」と面白そうに呟いた。
「自分は姫の護衛だって自覚はあるんだ。心強いことだ」
「何かあったというのは、何でしょう。待っていたほうが良いのでしょうか」
「待てとは言ってなかったから、良いんじゃないかな。危ないなら『絶対に来るな』って言うはずだ。あの口ぶりであれば、私が姫のそばにいるなら一応安全という意味らしい」
ゼファードは目を輝かせ、手を差し伸べてくる。意味をとらえかねてセリスが固まっていると、くすっと噴き出して手をひらめかせた。
「これはね、私たちが離れ離れにならないように『手をつなごうか?』という意味だよ。いざというときに支え合うこともできる。姫は、誰かと手をつないだことはある?」
「手をつなごうか?」
離宮で暮らしている間、セリスにそのように接してきた相手はいなかった。
どういう意図があるかわからず、セリスは自分なりに考えて答える。
「わたしはこの道は知っています。はぐれることはありませんし、転ぶような難所もありませんので、わたしたちは支え合わなくても歩けます」
無言で、ゼファードは唇の端を吊り上げた。
「とても含蓄がある。このような場に閉じ込められていて、初めて外の世界へ出て行くというのに、姫には恐れがない。それでこそイクストゥーラの姫と言うべきか」
「ここはわたしがずっと暮らしていた場所です」
感心されるようなことは何も言っていない、とセリスはゼファードの態度を不審に思って訴えかける。
翠の瞳を炯々と光らせたゼファードは、低い声で囁いてきた。
「昨日まで姫が出会ったことがない『男』たちが、男子禁制のこの領域に侵入してきている。この場はもう、姫の知る離宮ではない。思いもかけない難所が発生しているかもしれないよ。それでも姫は、私の手は取らないんだね? わかった、それでいいよ。行こう」




