餓鬼襲来
鳥居を抜け、目の前にある大きな本殿の前に立っていた。賽銭箱の奥にある本殿には、うっすらと明かりが灯っている。
「きっと本殿の中にお供えする場所があるんよね……?」
「多分。でも何か凄く雰囲気ありますね?」
紅葉が生唾を飲み込みながら、儚の腕に捕まってきた。そんな紅葉に負けず劣らず儚も紅葉の手を握っている。
「今さら何ビビってんだよ? 特に䰠宮家の奴」
怯える二人に隆盛が呆れた視線を送ってきた。
「うるさい。幾ら見えても、払えても、怖いものは怖いねんっ」
「何だよ、それ? マジで意味わかんねぇーー」
「ええの! 人には各々の苦手があんねん」
「儚は強がるわりに、怖がりだからな」
「魁も余計な事は言わんでええから。もう早よ、奉納して完成させよ。何が出来るか分からへんけど……」
苦笑してきた魁に儚が眉を寄せ、その間に隆盛が本殿の扉を開いた。
本殿の中は拝殿となっており、畳が敷かれている。そしてその奥に御神体があり、その前には八脚案があった。
八脚案は、神様への神饌……お供え物を置く机だ。
きっとそこに今まで集めた欠片を納めて、一つの形に作り出していく。最初はバラバラだった欠けらをどう並べれば良いのか分からなかったが、一つの欠けら一つの欠けらがぴったりとハマり、次から次へとハマり出したのだ。
出来上がったのは、能の面。しかも般若の顔だ。
「無事に完成させられたのは、ええけど……般若っていうのが微妙やな」
お面を見ながら、儚が微苦笑する。
「これで、何か起きるのか?」
小首を傾げて、隆盛がマジマジとお面を見ている。出来上がったのが般若の面であったのは、何とも奇異に感じるが、今の所、何かが起こる兆しもない。
もっと、ちゃんとさっきの子に訊いておけば良かったなぁ。
しかし、またさっきの所に戻ってもあの男の子がいるとは限らない。そう思うと動く足も動かなくなる。
儚が小さな溜息を吐いていると、魁が仕切りに辺りを見回し始めた。
サァアア、と儚たちを生温い風が吹き付けてきた。妙に肌にまとわりつく様な風だ。
「何か、嫌な感じやな」
自分を抱くように儚が両手で腕を摩る。風は強くなる一方だ。四人の顔が自然と険しくなっている。
「あっ」
声を上げたのは、紅葉だ。
「どうかしはったん?」
儚が声を掛けると、紅葉が徐に神饌の方を指差してきた。それに合わせて、儚たちが視線をそちらに向ける。
異変は一目瞭然だった。神饌に置いてあったはずのお面が消えているのだ。
「えっ、何で? さっきは確かにそこに合ったはずやのに……」
目を白黒させる儚の耳に、次に轟いたのは……「退くぞっ!」という魁の叫びと、御神体が勢いよく破壊される轟音だった。
魁が儚と紅葉を両脇に抱え、隆盛と共に後ろへ飛び退く。魁に抱えられた儚と紅葉が短い悲鳴を上げた。
一瞬のことで何が起きたのか、理解するのに時間を費やした。
一体、何が起きていると言うのだろう?
しかし、その疑問はすぐに払拭された。だがその代わりに儚たちを恐怖が襲った。
御神体を破壊し、自分たちの前にそれは現れた。ケタケタとなるこの様な音が聞こえてきた。笑っている。目の前に現れたモノが笑っている。
現れた怪物の大きさはちょうど小山くらいの大きさだ。顔は先ほどの般若の顔。ただお面のサイズではなく、巨大な体躯に合わせるように顔も大きくなっている。顔の周りから髪の様に揺れているのは、体毛ではない。
やけにツルツルとした表面をした、ヌタウナギの様な生物だ。
うにょうにょと蠢く様は、儚の背筋をぞくりと粟立たせた。そして、自分たちが恐怖を口に出す前に、得体の知れない怪物がこちらに向かって突進してきた。
見た目からは想像がつかない程の速さで、こちらに突進してきた。
折り曲げられた床の畳が振動で宙に跳ねる。拝殿の柱が折れ、木片が辺りに散乱する。さっきまでのここに合った荘厳な社は、あっという間に倒壊してしまった。
目の前いるのは、天神ではない。この怪物はそのような神ではなく、餓鬼だ。
餓鬼はあらゆる物を踏み潰し、餌食を求める。
「こんな所で、化け物の餌になってたまるかよっ!」
隆盛が叫び、護符を取り出す。
「ちょっと、アレと戦う気なんっ!?」
「当たり前だろ」
「アホ。この中やとまともな術式は使えへんで? 無理に使おうとしたら、体力を減らすだけや」
「そんな事言ったって……じゃあ、どうするんだよ?」
護符を手に握りしめたまま、隆盛が餓鬼のミミズの様な触手から間一髪の所で避ける。獲物を捕らえられなかった触手はそのまま、鳥居へとぶつかった。
その瞬間に石で出来ていたはずの鳥居が柔らかい液体の様に溶け始めた。
信じられない光景に儚たちが思わず絶句する。
あんな物に触れてしまったら、自分たち人間など一溜まりもない。気づけば、奥の神社の部分から露店が並んでいる場所へと来ていた。
そこには、平然と縁日を興じる何人かの人がいる。
「そこに居たらアカン! はよ、逃げて!」
儚が叫び、片方の腕に抱えられている紅葉が不安そうな顔で辺りを見回している。
「坊主の言う通り、ずっとここで逃げ回ってるのは厳しいな。どこかで体制を整えねぇとな」
厳しい表情の魁がそう呟く。
しかし、どうやってこの状況を打開するのだろう? 術式が使えなければ、あの餓鬼に対抗する事は出来ない。
儚がそんなことを考えている間に、餓鬼が縁日に居た人々を捕まえ、自分の口の中へと放り込んでいく。悲鳴などの阿鼻叫喚はなく、静かに咀嚼されていく。
聞こえるのは、バキバキという骨を砕く音と、口の中の粘液の音だ。
「もう、嫌やぁ……」
青い顔で紅葉が目に涙を浮かべている。儚もそんな紅葉と似た様な表情を浮かべていた。魁にこうして抱えなければ、まともに動けていたのかも怪しい。
それを考えると自力で怪物の手から逃げている隆盛は大したものだ。
「ったく、いつまで追いかけてくるつもりだよ?」
額に汗を浮かべながら、隆盛が愚痴を零す。息を吸うたびに肩が上がり、かなり疲労が溜まっていた。
本人が思っているより、体の状態は深刻そうだ。
「儚、ここに居てくれ。何とかアイツを倒せないか試してくる」
魁がそう言って、儚と紅葉を降ろしたのは最初に通った鳥居の階段下だ。
「ちょっと待って。そしたら、ウチも行く」
自分は魁の主だ。それなのに、魁だけ一人行かせるわけにはいかない。その意志を込めて彼を見た。それなのに……
「いや、お前は待ってろ。正直、今の状況だとちゃんと守れるか怪しいんだ」
魁は困った様な顔をして、そう言ってきた。
そして耳にはーーダダダダッと地面を強く蹴り、こちらを追う餓鬼の足音が聞こえる。思わず心臓が跳ねた。
そんな儚の表情を読み取ったように、魁が優しく微笑んできた。
「安心しろよ。何とかアイツを食い止めてやるから」
そう言って、魁が素早く鳥居の方へと疾駆していく。
さっきの言葉は、主である自分を心配させないようにする言葉だ。
しかし……その言葉がまるで嬉しくない。自分はそんなに頼りないのだろうか? いや、実際そうなのかもしれない。
従鬼が呼び出せるだけの声聞力があったとしても、一人では何も出来ない。そんな覚悟もないのだ。
自分の脆さを実感して、儚が顔を俯かせる。
——悔しい。
そんな儚の耳に、並んでいた露店が壊れる大きな音が聞こえた。餓鬼の野太い唸り声も聞こえてくる。その声は弱い儚を怯ませるのに、十分な効力があった。
知らずの内に膝が笑っている。止まれ、と思うのに止まらない。
これじゃあ、魁に置いていかれても無理はない。あの時と自分は何も変われていない……。
「ああっ! クソッ! 何で術が使えねぇーんだよ!」
気落ちしている儚の隣で、隆盛が臍を噛みながら手に護符を握りしめていた。
「アンタ、術を使うの、まだ諦めてへんかったん?」
少し驚いて儚が訊ねる。すると隆盛がさも当然かのように口を開いてきた。
「当たり前だっつーの。こんな所でアホ面なんかしてられるかよ」
そう言って、再び隆盛が護符を指剣で構え始めた。目を閉じ、術式を詠唱し始める。その姿に、儚は頭を殴られた様な気分になった。
普通に見れば、愚かな無鉄砲さだ。声聞力が上手く出せないというのに、めげないで術式を口にしている。もしかしたらを信じて。
そして、今のこの状況で一番必要なのはそれだ。どんなに希望が薄くても、諦めてはいけない。悄然としていた儚の目に気力が宿る。
そして儚も持っている護符を構え、詠唱を始めた。




