伝統のバナナボート
(私は……いつまで経っても未熟者ですね)
目まぐるしく移ろう会話を見ながら、椿鬼は自己嫌悪に陥っていた。
先ほどの桔梗との会話を想起し、椿鬼は深い、深い、溜息を吐き出した。
昔の事だ、と切り捨ててしまえば簡単だ。こんな風に気を揉む必要もない。椿鬼自身もそう思うのに、胸に刺さったトラウマはそう簡単に消えてはくれない。
いや、目覚める直前の記憶がアレなのだから、無理もない。
消える直前に見た元主だった女の顔。アレは、喜び勝ち誇っていた。自分のした事など気にする事もなく、満面の笑みで女は言ったのだ。
「最後の最後でよう……やってくれはったね。あんさんは、誇りなはれ。最後の最後でようやくウチを喜ばせてくれたんやから」
そう言った元主の笑顔が、あの時代の椿鬼が見た最後のものだった。
そして今広がっているのは、椿鬼が齎した未来でもある。
(……これで、本当に良かったのでしょうか?)
目の前では、鬼絵巻を巡っての勝負をするため……自分以外の従鬼たちが準備を始めている。
自分も桔梗の従鬼なのだから、それに加担すべきだ。
(いえ、絶対にすべきでしょう。普段通りの自分になるためには……)
けれど困った事に、自分に姿を隠すようにと言ってきた桔梗から、姿を現すようには言われていない。
主の許可なしに、勝手に姿を現すことなど椿鬼には到底できない。
(どうしましょう? 主に自ら進言すべきでしょうか?)
しかしそれをして、桔梗からの烏滸がましいと顰蹙を買ってしまったら?
そう思うと自分から進言する勇気も湧いて来ない。
(私は、どうしてこうも……)
昔から自分が他の従鬼に劣っている事は知っている。
魄月花のように鬼絵巻の気配を探知することも、強力な守護を張れるわけでもない。
魁のように雷を操り、超遠距離攻撃が得意でもない。
魑衛のように術式を切れるわけでも、肉体を強化できるわけでもない。
鬼兎火のように炎を操り、相手の逃げ道を封じ、相手を燃やし尽くすこともできない。
魅殊のように、異種能力を使えるわけでもない。
魘紫のように恐るべき駿足を実現する声聞力も、大胆さもない。
桜鬼のように、そう桜鬼のように、風を操り、召喚術を行使し、他の従鬼を圧倒する力を持っていない。
今回の戦いでは、まだ出していないようだが……第八従鬼の桜鬼には、他の従鬼を圧倒する一撃がある。
それに比べて、自分の能力は気配を消せるくらいしか出来ない。
……伺見、俗に言う忍者などには適していただろう。そして歴代の主たちも椿鬼を主に使っていたのは、敵情視察などだ。
しかし、敵情は知れたとしても、対従鬼戦となると椿鬼は滅法に弱くなってしまう。自身の放った攻撃の気配までは消せないし、攻撃を加えたとしても、他の従鬼を打ちのめすほどの一手にはならないからだ。
だからこそ、自分の主になる=当主にはなれない、と謳われてしまっていたのだ。
椿鬼自身もそれは、重々に理解している。けれどそれでも悔しいと思ってしまう心を嘯くことはできない。
この悔しさがあるからこそ、椿鬼は桜鬼が嫌いなのだ。
第八従鬼というだけで、天賦の強さを持ち、主たちからもその存在を喜ばれる。
出来れば、自分もそんな風になりたかった。それが無理でもせめて、主から落胆されることのない存在になりたかった。
長い間、そう思っていた椿鬼にとって桔梗は今まで居なかったタイプの人だった。
今までの主のように、当主という座を渇望している訳でもなく、また椿鬼に対して諦めている訳でもない。
むしろ、椿鬼という従鬼の特性を見て「うん、大当たりを引いた感じやな」と言ってくれたのだ。
最初にその言葉を聞いた時、椿鬼は「また気遣われた」と思った。
主の中には椿鬼のことを「使えない」と罵る人もいたが、自分を気遣ってくれる主もいた。
自分を気遣ってくれる主は、「椿鬼は何も気にする必要はない。お前がいてくれて心強い」と口々に言ってくれていた。
しかし、そんな言葉を吐きながら、自分の主たちは当主になりたいにも関わらず、鬼絵巻を取りに行くことはしなかった。
つまりそれは……自分を罵る主と同じく椿鬼を使えないと思っていたからだ。
こんな気遣いを受けるくらいなら、まだ「使えない」と罵られた方がマシだ。
そう奥歯を噛みながら、椿鬼は自分の弱さを呪いもした。
だからこそ、桔梗の言葉も今までのソレだと思ったのだ。
しかし、桔梗は違った。むしろそんな主たちとは真逆な事をしてきたのだ。
当主の座に興味がないと言い張りつつ、自分に飛び道具を用意し、魄月花とも戦わせてくれた。あんな風に戦えたのは、本当に初めての事だった。
ーーようやく自分の本分を全うできる。
そう思った瞬間、震えるほどの歓喜が身体中を駆け回ったのを覚えている。
(私にあの喜びを与えてくれた主を、失望させる訳には行かない……)
椿鬼がそんな決意を固めていると……準備をしていた桔梗が自分の方へ視線を向けてきた。
『気持ちは落ち着いた?』
『はい……もう、大丈夫です』
霊的交感で話しかけてきた桔梗に椿鬼が頷いて答える。
『ほな、姿を出して準備を手伝ってくれる? 魘紫の舵を取るのが上手みたいやからね』
ついでと言わんばかりの桔梗の言葉に、椿鬼が笑みを浮かべた。
『無論です。我が主の言葉ならば』
櫻真は、目の前に広がる光景に眉を潜めていた。
櫻真たちの前にあるのは、湖の前にはどこから持ってきたのか分からないバナナボートが浮かんでいる。
「これは、ある意味伝統の代物よ」
「伝統? 何でバナナボートが伝統なん?」
櫻真がバナナボートと葵の顔を見比べながら、首を傾げさせる。隣にいる蓮条の訝しげな表情を浮かべている。
「昼間の勝負は、従鬼、式鬼神は一切ナシの主同士による真剣勝負よ。そんで、私と夜鷹がこのバナナボートを引くの。そのボートに貴方たちが乗って、振り落とされなければオッケー。良い?」
葵による勝負説明に櫻真は嫌な予感しかしない。
「完全に振り落とそうとする奴やん……」
「おほほ。そんなに怖がらなくて平気よ。カナヅチでない限り、死にはしないわ」
「嘘やん。湖でも深い所はホンマに深いし……危ないって。自分はジェットスキーに乗るからええかもしれんけど……」
気楽な口調の葵に儚が口元を引き攣らせる。
「ノン、ノン、ノン。葵たちにだってリスクはあるわ。相手を落とす為の操縦技術は並大抵のものじゃないの。宙でひっくり返った拍子に自分も落下してしかう可能性だってあるのよ? それを考えたら、私たちもリスクなぁーい? 儚たちのように頼れる従鬼もいないし」
頬に片手を添えて、わざとらしく葵が溜息を吐く。
すると葵と同じようにジェットスキーを運転する為、水着に着替えた夜鷹が口を開いてきた。
「私も不安です。こちらの方はどう見ても強敵。そんな方の猛攻に陰陽院の方々が耐えられるか……そして私もそれに匹敵することが出来るかどうか……ああ、私が激しく操縦する程度では、男女のひっ付き合いにしかならないのでは? と危惧するばかりです」
「あらあら〜〜。どうする、櫻真たち。貴方たちにとっては、ただのラッキーイベントになるかもしれないわよ」
夜鷹の言葉でニヤける葵の言葉に、櫻真が眉を潜めさせる。
「ラッキーイベントって……姉さんたちがバナナボートを引く時点で無いわ。絶対に」
「何を言うの、櫻真? これは気の持ちようなのよ。水着姿の女子と密着できるかもしれないのよ? しかも自然に」
「密着って、身内やん」
「ああっ! これだからお馬鹿な中坊はっ! 身内? だから意味がない? ノンッ! 違うわ。身内だからこそ味わえる背徳感があるんじゃないの! もうそんな簡単事も分からないなんて、姉さんは悲しいぞっ☆」
「いや、意味不明な説明に変な熱入れんでよっ!」
全く理解できない、むしろしたくない葵の持論に櫻真が叫ぶ。
するとそんな櫻真と同じく、葵たちの会話にじれったいさを感じていた隆盛が準備運動をしながら、声を上げてきた。
「䰠宮の言う通りだ。そんな御託は良いから、さっさと勝負を始めようぜ!」
「これだから、コロコロ系主人公は……あおりん、真面目にテンション下がりんご」
まともな事を言った隆盛に、葵が眉尻を下げて萎えている。
そんな葵を見て、隆盛が勝ち気な表情を浮かべてきた。
「どうとでも、好きに言えよ。俺的にはお前のテンションが下がってくれるのは、こっちとして良い事だからな」
敵の気力を下げられた事に、隆盛が胸を張っている。そんな隆盛の言葉に、櫻真たちもハッとした。
確かに、この勝負では操縦者のやる気を下げれば、下げるほど良いのではないか?
(でも、この夜鷹って人の気分が下がる話なんて、知らへんしなぁ……)
櫻真がそんな事を思っていると、桔梗が口を開いてきた。
「櫻真君、そんな顔をせんでも大丈夫やで? 葵の顔を見てみ?」
「えっ?」
櫻真が顔を上げると、桔梗が葵の方を指差してきた。それに合わせて、櫻真が葵の顔を見る。
するとさっきまで、眉尻を下げていた葵の口元が微かに上がっているのが見えたのだ。
「アレは、自分を害した相手に対して、執拗に報復するタイプやから」
にっこり笑う桔梗の言葉に、櫻真は何とも言えない気持ちになった。
(執拗に報復って、最悪やん……)
けれど、口角を上げる葵に気づいていない様子の隆盛は、同じくバナナボートに乗るメンバーに気合いの掛け声を掛けている。
「さっ、皆様……ご乗船を。20分の間に何人の方がボートに乗れているか、楽しみですねぇ」
うふふ、という夜鷹の笑い声に櫻真は生唾を飲み込んだ。
(姉さんに勝てへんとか言わはってたけど……)
櫻真は薄々と感じていた。こういうタイプの人は、底知れない力を持っている事を。
「櫻真、妾たちは浜辺で見守ることしか出来ぬが、武運を祈っておる。それに、櫻真の身に危険が起きようものなら、妾は一目散に駆けつけるぞ。だから櫻真は大船に乗った心持ちで行くが良い」
少し怯んでいた櫻真の背を桜鬼の言葉が励ましてくれた。
そんな桜鬼の言葉に少しグラついていた櫻真の気持ちが支えられる。
「うん、分かった。ありがとう、桜鬼。俺も頑張ってくるな」
力強く頷き、櫻真はバナナボートへと向かった。




