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Hikaru  作者: tori
第二部
30/30

What A Feeling

彷徨編は今回で完結です。


 犬たちは低い唸り声で威嚇していた。

「あっちに行って」

 私は二本目の矢を番え、狙いを付けているテオを振り返った。

 渚は両手で矢を引き抜こうともがいている。しかし、矢は根を張ったようにぴくりとも動かなった。肋骨の間を突き抜けて内臓にまで達しているのだろう。もう彼女にそれを引き抜く力は残っていなかった。

 苦悶の表情が諦めにかわり、渚は静かに手を下ろした。何か言おうと口を開きかけたが、言葉は音にならなかった。

 渚の意識が混濁していくのが手に取るようにわかる。彼女は死の淵に引きずり込まれようとしているのだ。為す術もなく私はそれを傍観しているしかなかった。


 そして最期のときが訪れた。

 渚はゆっくりと私に視線を落とした。黒目がちな瞳に笑みが差した。哀しげではあるけれど、どこか安堵しているような色合いを帯びていた。

 実際、理不尽に背負わされた荷物から解放されてほっとしているのかもしれない。しかし、訊ねようにも渚の心はもう反応しなかった。糸電話の糸が切れたように私と渚の繋がりも途絶えてしまった。

 渚の首がぐったりと仰け反り、胸元からシルバーのチェーンが零れた。十六歳の誕生日に私が贈ったターコイズのネックレスだ。

「死ぬ瞬間までこれをはずさないよ。それでね、私が死んだらこれを私だと思って、持っていてほしいの」 

 安物のネックレスにここまで感動してくれる友人などめったにいるものではないが、その時の私は渚の大げさな態度に辟易した。しかし、この子はいつだって真剣だったのだ。

「目を覚ましてよ。私一人をこんなところに置いていかないでよ」

 私は渚の体を揺さぶった。

 ヒカルを失い、家族も失った。そして今渚を失おうとしている。子供の頃から寄り添うように育ち、ほとんど体の一部のように感じていた存在が私から剥がれ落ちた。碁石みたいに黒い瞳を忙しく動かして、私のほんの小さな動きすら見逃すまいとしていた面倒くさくて厄介な女の子はもう居ないのだ。


「すぐにここを離れないと、略奪に倦いた連中がやって来るぞ」

 バルガが私を見下ろしていた。

「お願いだから、放っておいて」

「せっかく助けた命を無駄にするな」

「誰がそんなことをたのんだのよ」

 私はバルガをにらんだ。

「あんたたちはやるべきことをやったんでしょ。私に構わないで、どこかへ行って」

 顔を上げると、テオが足を震えているのが眼に入った。色の失せた顔は紙のように白い。

その手に握られた弓を見たとき、私の憎悪に火が付いた。

 私は銃口を彼に向けた。テオは一瞬、驚いたように私を見たがすぐに目を伏せた。

「いい加減にしろ!」

 両手を広げてバルガが立ち塞がった。

「うるさい! そこをどけ」

 私は怒鳴りかえした。

「こいつが復讐のためにこの女を殺したとでも思ってるのか? 俺たちは諦めて帰ろうとしていたんだ。レイダーたちの姿を見かけたとき、テオはすぐに犬を放ってお前を探させたんだぞ。それもこれも、おまえの身を心配したからだ」

 そんなことは言われなくても解っていた。初めてこの子を見たとき、妙に懐かしさを覚えた。今それがなぜなのかはっきりとわかった。私を見る渚の表情と同じなのだ。

「いいんだ。結果的にこの人の大切な友人を殺したことは間違いないんだ」

 テオは銃口の前に進み出た。

「それで気が済むなら僕を撃ってください」と、彼は言った。

 もう彼は震えてはいなかった。

「あんたの悟りすました態度が大嫌い」

 ライフルを投げ捨てると、私はその場で嗚咽した。涙が留めなく溢れた。自分の中にこんなにも涙が残っているのが不思議だった。

 雲が太陽を覆い隠し、重い雪を落とし始めた。このまますべて雪に埋もれてしまえばいいのだと私は思った。


「弾が切れた」

 ニット帽がアリサを引きずるようにして階段から降りてきた。

 彼女は意識が朦朧としていて足許すらおぼつかない様子だった。額に玉のような汗をかき、紫色の唇をわななかせている。撃たれた傷が化膿し高熱を発しているのだ。

「アリサがやばい。早く手当てしないと死んでしまう」

 ニット帽は言った。

 たしかに彼の言うとおりだ、このままだと敗血症を引き起こし深刻な事態になるのは目に見えている。しかし、いったい私に何ができるのだろう。救急車でも呼べというのだろうか。それができるならとっくに渚のためにしている。それに私は渚の傍を離れたくなかった。彼女を置き去りにすれば彼女の死が事実として確定してしまう気がしたからだ。

「これをあげるから自分でなんとかして」

 私は傍らのライフルを手渡した。彼は無言でそれを受け取った。私がすでに戦意を喪失しているのがわかったのだろう。


 一台のスノーモービルが雪煙を巻き上げて駐車場に入ってきた。上半身裸の男が後部座席に立ちあがった。顔にいたるまで一面にタトゥーが彫られている。

「ありゃなんだ」

 バルガが言った。

 タトゥーの男は何か訳の分からない言葉を叫びながら、両手にぶら下げたものをこっちに向かって放り投げた。

 血の滴る生首が白い雪の上に転がった。胃の腑が絞り上げられるようにして私はその場で吐いた。アリサが菓子を与えた幼い兄弟だった。

「酷いことをしやがる。俺が仇を討ってやるぜ」

 ニット帽は片膝を付くと、ライフルを構えた。スノーモービルは一直線にこちらに向かって来る。タトゥーは身を隠すことすらしなかった。奇声を発しながら、背中に負っていた槍を構えた。

 スノーモービルは私たちの手前で急ハンドルを切った。キャタピラが蹴立てた雪が波のように被さってくる。

 次の瞬間、凍った空気を切り裂くような銃声が耳元をかすめた。べっとりしたものが私の頬に張りついた。頭を吹き飛ばされたニット帽がそのままの姿勢で事切れていた。ザクロのように割れたニット帽の頭を抱えようとしたアリサの背中に槍が突き刺さった。

 股間から熱いものが滲みだすのも忘れて、私は震えていた。どこかに置き忘れてきたはずの恐怖が私を打ちのめす。目の前に次々と死を見せつけられて、噓くさかった世界にリアルな輪郭を持ち始めた。

「上だ! 上から撃ってくるぞ」

 バルガが叫び、テオがすぐに反応した。

 踊り場から身を乗りだしてショットガンを構えている男に向けて矢を放った。眉間を貫かれた男はそのまま真っ逆さまに転落した。

 駐車場にはスノーモービルが続々と入って来る。

「まずいぞ、早く地下に走るんだ」

 バルガが私を急き立てた。

「おい、何してる! 死にたいのか?」

 バルガは私の襟髪をつかんだ。

「足が震えて立てないのよ」

「冗談だろ。お前がそんな玉かよ」

「ほんとよ。おしっこ漏らすくらいに怖がっている」

 もう私はターミネーターではない。あれほどクリアだった五感は深い霧の中だ。ただひたすら怖かった。子供の首をトロフィーみたいに切り取るサイコ野郎が幅をきかす世界では私は無力な小娘でしかないことを思い知らされた。降りしきる雪と冷えた小便に震えながら私は鼻をすすり上げて泣きじゃくった。

「まったく世話の掛かる女だ」

 バルガは軽々と私を肩に担いだ。

「テオ、援護しろ」

 銃弾が雪面を弾く中をバルガは走り出した。

 タトゥーのサイコ野郎を乗せたスノーモービルが迫ってきていた。獲物を追い詰めるのを楽しむようにジグザグに走行しながら、私たちを煽っている。

 地下鉄の入り口まではまだ五十メートルはある。

「槍が来るぞ!」

 テオが叫んだ。

 サイコ野郎の投げた槍が放物線を描いて落ちてきた。バルガは私を投げ捨てて、横っ飛びにダイブした。槍が二人の間に突き立った。

「ちくしょう、やっぱり逃げきれんか」

 バルガが雪の中から身を起こした。駐車場には犬たちの死骸があちこちに転がっていた。


 今や勢揃いしたスノーモービルは私たちの目の前で横一列に停止した。

「何をするつもり?」

「頭目の仇をとった奴が次の頭目だ。それがあいつらのルールだ。どうやらあいつが名乗りをあげたらしい」

 タトゥーが雪の上に降り立った。

 デカい。二メートル近くはあるんじゃないだろうか。こんな世界で何を食べたら、あんなにデカくなれるのだろう。男は隆々たる筋肉を誇示するように背中を向けた。

「渚を殺したのはテオでしょ?」

 バルガは肩をすくめた。

「どうやら、ご指名はお前のようだぜ」

 サイコ野郎が片手をあげ、斧で私を差していた。

「逃げてください」

 テオが言った。

 逃げるつもりはなかった。私はもうこれ以上、何も失いたくない。それくらいなら自分が無くなったほうがましだ。もっと言うなら、面倒くさかったのだ。

 私はタトゥーに向かって中指を立てた。

「いいのか? 殺されるぞ」

 バルガが言った。

「人気嬢はつらいわね。センチになっている暇もない」

 一際高いエンジン音が鳴り響いた。サイコ野郎はスノーモービルの後ろに再び乗り込むと、立ち上がって頭上に掲げた斧を打ち鳴らした。喚声が沸き起こり、スノーモービルがゆっくりと前進する。


「これを」

 テオが私に渚の拳銃を握らせた。

 死ぬことはさほど怖くないが、モヒカン野郎どもの余興のだしにされるのはまっぴらごめんだ。

 あのチート性能が戻っていれば良いのだが、確信はない。ただ不思議なほど落ち着いてはいる。気分は闘技場に立つマキシマスだ。

 私は大きく足を開いて立つと、両手で持った拳銃を水平に構えた。スノーモービルとの距離は二十メートルというところか。素人が的に当てられる距離ではない。私は呼吸を整えて待った。サイコ野郎のあばたが肉眼で捕らえられるくらい近づいたとき、私は引き金を引いた。

 一発目は大きく外れた。私はさらに発射した。これもだめだ。十メートルまでスノーモービルが近づいてきた。加速しているのは、さっきみたいに私の目の前でターンを決めるつもりなのだ。それが連中の美学なんだろう。

 硝煙の匂いに咽せながら、私は続け様に撃った。鋭い金属音が響き、スノーモービルは車体を大きく傾かせてバウンドすると、そのまま横転した。運転手が放り出されるのが一瞬見えたが、すぐに雪煙が辺りを覆った。

 私はサイコ野郎の姿を探した。近くに居る。気配がそう教えてくれる。だがどこだ? 立ちこめる雪の中で私は目を凝らした。

 いきなり強い力に足首を引っ張られ、うつ伏せに倒れた。そのままマウントポジションを取られたら、万事休すだ。すばやく半身を捻ると銃を向けた。サイコ野郎は斧を振りかぶったままフリーズしている。

「あんたが今考えていることを当ててあげようか?」

 サイコ野郎は表情を歪ませた。

「私が何発撃ったか考えているんでしょ。実は私も夢中でよく覚えていないんだ。あんたの頭が吹っ飛ぶか、私の首が飛ぶか、運試しね」

 私はゆっくりと引き金に掛けた指を引いた。


 すべては終わった。雪の上に挑戦者が脳みそをぶちまけるのを見届けると、モヒカンたちは引き返していった。

「まったくおまえというやつは大した女だ。見ているこっちが小便をちびりそうになったぜ」

 バルガがひげ面を綻ばせた。


 私は渚の元に戻ると、彼女の首からネックレスを外してポケットにしまった。

「こんなところに置き去りにしてごめんね。でも落ち着くことができたら、きっと戻ってくる」

 私は物言わぬ親友に別れを告げた。テオとバルガが穴を掘り埋葬してくれた。

「どうしたの?」

 私は何か言いたげに躊躇っているテオに気づいた。

「付いていっていいですか?」

「ダメと言っても付いてくるでしょ。それに私みたいないい女が一人旅するにはこの世界は物騒すぎる」

「小便タレの小娘がよく言うぜ」

 バルガがぼそっと呟いた。

「それは忘れなさい。次に口にしたら、脳みそごと記憶を吹っ飛ばしてやるから」

「おお、こわっ」

 バルガは首をすくめるとスノーモービルに跨がった。


 


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