第8話 アルバート――家の行く先
息子が生まれてから、父のことを考えることが増えた。
もうすぐ三か月になる。
「今、あなたを見たわ」
妻に呼ばれて覗き込んだときには、息子は窓のほうを向いていた。
「見ていないじゃないか」
「さっきは見ていたのよ」
私の知らないところで、息子は少しずつできることを増やしているらしい。
婚礼から一年余り。
父から与えられた家へ移り、領地の仕事を覚えながら、妻と暮らしてきた。そこへ息子が加わった。
朝になれば仕事へ行き、帰れば妻と食事をする。息子が泣けば、妻か乳母が様子を見に行く。私が抱いても泣きやまないときには、妻に笑われる。
大きな出来事はない。
それでも、家へ帰れば二人がいる。
「そろそろ行かないと」
「今日は本邸で夕食でしたね」
「ああ。なるべく早く帰るよ」
「急がなくていいですから、気をつけて」
今日は父に呼ばれていた。
領地について相談したいことがある、とだけ聞いている。
本邸へ着くと、母は私の顔を見るなり息子の様子を尋ねた。
三日前に寝返りを打とうとして失敗したことまで話すと、今度は妻の体調を聞かれた。母の質問に一通り答えなければ、夕食にはたどり着けそうになかった。
エレノアは、持ってきた小さな肖像画を見たがった。
「大きくなったわね」
「前に見せたときから、それほど経っていないだろう」
「赤ちゃんは、すぐに大きくなるもの」
エレノアは19歳になった。
新しい縁談が二つ持ち込まれたことは聞いている。どちらも、顔を合わせるところまで進まなかった。
兄上も22歳になった。
こちらにも、新しい婚約者はいない。
父が何もしなかったわけではない。何度か話はあったが、三度の破談について先方から尋ねられると、その先へは進まなかった。
以前なら、兄上ほどの条件ならば、いくらでも次があると思っていた。
実際、三度目まではあった。だが、四度目はなかなか現れなかった。
「今度、会いに行ってもいい?」
肖像画を見たまま、エレノアが尋ねた。
「もちろん」
「ジェラルドお兄様も一緒に」
「都合が合えばな」
それで十分な返事だったらしい。エレノアは、いつ訪ねるかを兄上と相談し始めた。
夕食の席でも、二人は昔と変わらなかった。
「エレノア、それはやめておけ」
「どうして?」
「昨日、胃の調子が悪いと言っていただろう」
兄上が給仕に命じ、エレノアの前の皿を別の料理と取り替えさせた。
「もう大丈夫よ」
「念のためだ」
「お兄様ったら」
そう言いながらも、エレノアは替えられた料理を口へ運んだ。
昔から見慣れた光景だった。
以前は、兄上がエレノアのことばかり気にかけるたびに、なぜ誰も何も言わないのかと思っていた。
今では、腹も立たない。
食事が終われば、私は自分の家へ帰る。
そこには妻と息子がいる。
夕食後、父の書斎へ呼ばれた。
今年の収穫を報告し、来年予定している用水路の補修について相談した。私を呼んだ理由は、それで終わるはずだった。
だが、話が済んでも、父は次の書類を出さなかった。
「暮らしはどうだ」
「順調です」
「妻とは?」
「仲良くやっています」
息子が生まれたことで、夫婦の間に増えたのは喜びだけではない。夜中に起こされることも、医師を呼ぶべきか迷うこともある。
それでも、二人で同じ子供のことを考えている。
「子供ができると、変わるものか」
「何がです?」
「親を見る目だ」
父が聞きたかったのは、領地の話ではなかったらしい。
「以前より、父上のことが分かるようになりました」
まだ首も据わらない息子を思う。
あの子がいずれ道を誤ったとしても、間違えたのだから捨てればよいとは考えられないだろう。
「前は、なぜ兄上のことをもっと早く決めないのかと思っていました」
「今は違うのか」
「決められなかった理由は、少し分かります」
兄上は、仕事ができないわけではない。
任されたことはこなし、領地についても学んでいる。子供の頃から跡継ぎとして育ててきた息子を、父が簡単に見限れなかったのも分かる。
「ですが、分かることと、このままでよいと思うことは別です」
「そのとおりだ」
父の前には、見慣れない書類が置かれていた。
父はそれを、私の前へ出した。
「ジェラルドを嫡嗣から外す」
そのための書類だった。
「お前を嫡嗣にする」
「はい」
「今のお前の爵位と領地をどう扱うかは、正式に手続きを取らなければならない。あちらの家にも、私から説明する」
「まず、妻と話させてください」
私一人で受けられる話ではなかった。
妻は今の家へ嫁いできた。息子も、この家の跡を継ぐ者として生まれている。
「もちろんだ。妻とあちらの家に話を通す前に、正式に進めるつもりはない」
「ありがとうございます」
父は、すぐに家督を譲るつもりではなかった。
当主である間に私へ仕事を引き継ぎ、次に家を継ぐ者を明らかにしておくつもりだという。
「お前たちは、今の家で暮らせ」
「本邸へは移らないのですか」
「ああ。ここには私たちがいる。エレノアの療養にも、住み慣れたこの屋敷を使わせたい」
エレノアにとっては、医師も使用人も環境も変えずに済む。
「私が家督を継いだあともですか」
「そのつもりだ。本邸は、将来もジェラルドとエレノアが暮らせるよう残す。お前が当主になったからといって、妻子をここへ移す必要はない」
私が今暮らしている屋敷を、次の当主の住まいとして整える。
本邸は、兄上とエレノアの住まいとして残す。維持に必要な財産も、侯爵家のものとは分けておくという。
「エレノアの療養にかかる費用も用意しておく。お前の妻に、あの二人の世話をさせるつもりはない」
「分かりました」
兄上とエレノアは、家から追い出されない。
私の妻と息子も、二人と同じ屋敷で暮らすことを求められない。
家族であることと、同じ家で生活することは別だった。
その夜、家へ帰ってから、妻にすべて話した。
「あなたは、どうしたいの?」
「引き受けようと思っている」
妻が確かめたいことは、それだけではなかった。
今の爵位と領地はどうなるのか。息子の立場は変わるのか。妻の生家には、誰が説明するのか。
そして、私たちはどこで暮らすのか。
「今の家を出るつもりはない。私が家督を継いだあとも、ここが私たちの家だ」
「ジェラルド様とエレノア様は?」
「本邸に残る。エレノアの療養のためにも、そのほうがよいと父上は考えている」
「私たちと一緒に暮らすことにはならないのね」
「ああ。君に二人の世話を頼むこともない」
そこが明らかになって、ようやく妻は、その先のことを口にした。
「では、私の父には、あなたからも説明してください」
「もちろんだ」
「息子の立場についても、曖昧にしないで」
「ああ」
「それから、今の領地の者たちを急に放り出すようなこともしないでください」
「分かっている」
妻にとっては、侯爵家を継ぐことより、すでにある暮らしをどう守るかのほうが重要だった。
私も同じだった。
「では、引き受けましょう」
私たちの家のことを一つずつ確かめたあと、妻はそう言った。
兄上とエレノアに話がされたのは、その数日後だった。
私も同席した。父は二人を前にして、結論から告げた。
「ジェラルド。お前を嫡嗣から外し、アルバートを後継にする」
兄上は、しばらく何も言わなかった。
「……なぜです」
「この家の先を任せる相手として、アルバートを選んだ」
「私の仕事に問題がありましたか」
「仕事のことではない」
兄上は、父から任された仕事を怠ったことはない。数字に誤りがあれば直し、領地で問題が起きれば対応してきた。
だからこそ、理由が分からないのだろう。
「ならば、なぜ私ではいけないのです」
「お前の婚約は三度なくなった。その理由が知られ、エレノアの縁談にも影響した。アルバートの婚礼まで遅れ、今では我が家と近しく付き合うこと自体を警戒する者もいる」
父は、兄上だけを責めているのではなかった。
「お前たちを止めるべきときに止めなかった、私たちにも責任がある。いずれ自然に変わるだろうと考え、ほかの者を待たせた」
「ですが、私は家を裏切るようなことはしていません」
「裏切りへの罰ではない」
兄上は、なおも理由を探していた。
自分は仕事をしている。家の財産を損なっていない。エレノアを大切にしてきただけだ。
だから嫡嗣から外される理由がない。
「何度話しても、お前は、自分とエレノアの関係が周囲に何を強いているのか理解しなかった」
父が問題にしているのは、兄上が妹を大切にしたことではない。
そのために誰が待たされ、誰が巻き込まれたかを、今も理解していないことだった。
「お前は、任せた仕事をこなす。だが、この家の先を任せることはできない」
エレノアが口を挟んだ。
「お父様、お兄様は、ただ私を大切にしてくださっただけです」
「分かっている。お前を大切にするなと言っているのではない」
「でしたら、どうしてお兄様が――」
「今の話を聞いても、お前たちは同じことを言う。それが理由だ」
エレノアには、その言葉も理解できなかったらしい。
兄上も同じだった。
「私たちは、どうなるのです」
「私の子供であることは変わらない。本邸で暮らし続ければいい。生活に必要なものも用意する」
「では、今までと何が変わるのですか」
「この家の先を、お前たちが変わるまで待つことをやめる」
父が変えたのは、兄上とエレノアの暮らしではなかった。
二人はこれからも、慣れ親しんだ屋敷で暮らす。
兄上は、任された仕事を続ける。エレノアも、体調のよい日には母と客を迎える。
それから、二人に新しい縁談が持ち込まれることはなかった。
父も、条件を積んでまで、こちらから相手を探そうとはしなくなった。
兄上が変わるのを待って、家の将来を止めることもなかった。
私は本邸へ通う回数を増やした。
父から任される仕事は、少しずつ重くなった。
家督を継ぐのがいつになるかは、まだ分からない。父は健康で、すぐに当主を退くつもりもなかった。
それでよかった。私にも、覚える時間が必要だった。
ある日、仕事を終えて執務室を出ると、廊下の向こうから兄上とエレノアが歩いてきた。
エレノアが何かを話し、兄上が笑っている。
すれ違うとき、互いに挨拶をした。
それだけだった。
二人は本邸に残る。
私は自分の家へ帰る。
屋敷の前では、迎えの馬車が待っていた。
帰れば、妻と息子がいる。
兄上とエレノアは、たぶんこれからも変わらない。
それでも、家の行く先まで、二人が変わるのを待つ必要はなかった。
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