第6話 父――誰かの時間を借りるのは、もうやめよう
アルバートの婚約者の父から、手紙が届いた。
婚約を解消したいという申し入れではない。
娘も18歳を過ぎたので、そろそろ婚礼の日取りについて相談したい。そう記されていた。
こちらを責める言葉は一つもなかった。
娘が18歳を過ぎても婚礼の日取りを決めなかったことにも、長男の婚姻を優先し続けたことにも触れていない。丁寧な文面で、ただ返事を求めていた。
私は、その日のうちに返事を書くことができなかった。
「何かあったの?」
日が暮れてから書斎へ来た妻に、手紙を渡した。
「アルバートの婚約者の家からだ」
「……婚約したときは、16歳だったのに」
「ああ」
長男であるジェラルドが先に婚礼を挙げ、そのあとでアルバートの婚礼を行う。
婚約を結んだ当時は、それで何の問題もなかった。ジェラルドには婚約者がいたし、先方も順番を待つことに同意していた。
まさかその後、ジェラルドが三度も婚約を駄目にするとは、誰も考えていなかった。
「先日、従兄にも言われたよ」
「何を?」
「親族の縁談で、うちとの付き合いについて聞かれたそうだ」
妻にも、それだけで通じた。
「ジェラルドとエレノアのこと?」
「ああ。うちと近い家なら、あの二人をどう見ているのかと尋ねられたらしい」
ジェラルドの婚約が三度なくなったことは、もう社交界に知れ渡っている。
その妹であるエレノアの縁談も決まらない。姉の息子にまで断られ、今は条件を変えて婿を探している。その経緯も、近しい家々には知られていた。
もはや、我が家だけの問題ではなかった。
「あの二人のことで、私たちは何か間違えたのかしら」
「何か、とは?」
「エレノアが小さい頃、具合が悪くなるたびにジェラルドを呼んだでしょう」
「ああ。あの子は、本当に身体が弱かったからな」
冬になるたびに熱を出した。
一晩で下がることもあれば、何日も寝台から起き上がれないこともあった。幼いエレノアは、具合が悪くなるとひどく心細がった。
そんな妹のそばに、ジェラルドはよく座っていた。
「エレノアのそばにいてあげてと、ジェラルドに頼んだのは私よ」
「子供の頃の話だ」
「ええ。でも、いつまでそうさせるのかは教えなかったわ」
妻だけの責任ではない。
私も、いつか自然に変わるものだと思っていた。
兄妹仲がよいのは喜ばしいことだった。ジェラルドに婚約者ができれば、そちらを大切にするようになる。エレノアも年頃になれば、いずれ誰かに嫁いでいく。
親が口を出さなくても、成長すれば互いに距離を覚える。
そう決めつけていた。
「最初の婚約がなくなったとき、私はジェラルドもまだ若いからだと思った」
「私もよ」
「二度目には叱った。三度目には、さすがにこのままではいけないと思った」
「それでも、次があると思ったでしょう?」
「ああ」
ジェラルドはまだ20歳だった。
一度や二度の失敗なら取り返せる。三度目のあとでさえ、時間をかければ変わるだろうと考えた。
だから、待った。
エレノアに夫ができれば、兄ばかりを頼ることもなくなる。そうすればジェラルドも、自分の家庭を持てるようになる。
息子を変えるために、娘の結婚を使おうとした。
しかし、その娘の縁談まで決まらなかった。
「あなた」
「何だ」
「あの子たちを、これ以上待たせてはいけないわ」
あの子たちとは、アルバートと婚約者の令嬢のことだった。
二人は何も問題を起こしていない。
それなのに私たちは、ジェラルドが変わるまで二人の婚礼を止めた。エレノアの縁談がまとまれば何かが変わると期待し、さらに待たせようとしていた。
「ああ」
翌朝、アルバートを書斎へ呼んだ。
「お前の婚礼を進める」
「兄上より先にですか?」
「ああ。先方から、日取りを決めたいと手紙が来た」
アルバートが何を思ったのかは分からなかった。兄より先になることを確かめただけで、異を唱えることはなかった。
「そうですか」
「長く待たせた。今度は先方の都合を優先する」
「お願いします」
あまりに静かな返事だった。
「お前は、それでいいのか」
尋ねてから、おかしなことを聞いたと気づいた。
「そのための婚約でしょう」
答えは単純だった。
結婚するために婚約した。
家同士で条件を整え、本人たちも受け入れた。その先に婚礼があることは、初めから決まっていた。
それなのに、令嬢が18歳を過ぎても、私は日取りを決めようとしなかった。
「彼女も、何も言わずに待ってくれました」
「ああ」
「もう十分でしょう」
責められたわけではない。
だが、息子が言う「十分」が何を指すのか、分からないふりはできなかった。
「すまなかった」
「父上が謝ることでは――」
アルバートはそこで言い直した。
「いえ。ありがとうございます」
それは、謝罪への返事ではなかった。
これから婚礼を進めることに対して、礼を言われただけだった。そのことが、何より堪えた。
「婚礼までに、お前の家の準備も進める。爵位も予定どおりだ」
「はい」
長男が本家を継ぎ、次男には別の家を立てさせる。
そのための従属爵位と領地は、以前から用意してある。これまで進められなかったのは、何かが不足していたからではない。
私が順番にこだわっていたからだ。
「先方には今日中に返事をする」
「お願いします」
だが、アルバートの話はまだ終わっていなかった。
「家同士で日取りを決める前に、彼女と会う機会をいただけますか」
「婚礼について話したいのか?」
「はい。彼女の希望も、直接聞いておきたいのです」
「分かった。先方への手紙に、そのことも書いておこう」
自分たちの婚礼なのだから、自分たちで希望を確かめる。
当たり前のことだった。
だが、これまではその段階に進むことさえ、ジェラルドの婚約に阻まれていた。
私は、ジェラルドに次の婚約が決まるのを待った。
今度こそ婚礼まで進むのを待った。
エレノアの縁談がまとまり、兄妹の関係が変わるのを待った。
その間、アルバートと婚約者の婚礼を止めていた。
先方への返事には、婚礼を進めたいと記した。まず本人同士で希望を確かめる機会を設け、そのうえで日取りを相談したい。長く待たせたことへの詫びも添えた。
これで、アルバートは結婚する。
その後は予定どおり実家を出て、自分の家を持つ。
ジェラルドより先に。
以前の私なら、許さなかった順番だった。
だが、長男が整うまで次男を止めておくことに、何の意味があるのか。今となっては、答えられなかった。
机の端には、ジェラルドがまとめた領地の収支報告が置かれていた。
数字に間違いはなく、添えられた指摘も的確だった。ジェラルドは、跡継ぎとして無能なわけではない。与えた仕事はこなし、領地についても学んでいる。
そういうところを見るたびに、この子なら大丈夫だと思ってきた。
ジェラルドは20歳だ。変わる時間は、まだある。
だが、そのためにアルバートと婚約者の人生まで止めておくことはできない。
エレノアの夫となる誰かに、兄妹を変えてもらう必要もない。
変わるかどうかは、ジェラルド自身の問題だ。
私は書き上げた返事を、先方へ届けるよう使用人に命じた。




