第4話 伯爵家の三男――自分の家が欲しい
父に呼ばれたので、ようやく返事が来たのかと思った。
先月から、働き口を求めていくつかの家へ手紙を出している。代官見習いでも、領地の出納係でもいい。実家を出たあとに食べていける仕事が必要だった。
長兄は家を継ぐ。
次兄は母方の親戚の領地で、代官補佐になることが決まっている。
三男の私には、まだ何もない。
「縁談が来た」
父の第一声は、予想と違った。
「私に?」
「ああ」
相手は17歳の令嬢だという。
少し身体が弱く、子供に恵まれるかも分からない。
そこまで聞けば、なぜ三男の私に話が来たのかは察しがついた。
「婿に入る話だ」
やっぱり。
「条件は?」
「随分と食いつくな」
「そりゃあ、私には大事でしょう」
婚姻後は従属爵位を与えられ、別家を立てる。小さな領地と屋敷も用意されていた。仕事は本家の領地経営に携わり、経験を積めば一部を任せたいという。
妻の療養にかかる費用は実家が負担する。
もし子供に恵まれなければ、継承についても先方で考える。
「……破格の条件ですね」
「ああ」
父も、これを断る理由はないと考えているのだろう。
「先方は、お前が算術や領地経営を学んでいることも知っている」
「そこまで?」
「評価してもらえたようだ」
私の勉強についてまで調べられているとは思わなかった。
剣を習えば、長兄のほうが上だった。馬に乗ってもそうだった。
家庭教師も、私に一つくらいは褒めるところを見つけようとしたのだろう。
『あなたは算術が得意なのですね』
選ばれたのは算術だった。
ただそれだけの言葉なのに、妙に覚えている。
それから帳簿の読み方を覚え、法を学び、領地経営についての本を読むようになった。
誰かに命じられたわけではない。
家を継げないなら、自分で使えるものを増やしておこうと思っただけだ。
「私も、お前には悪くない話だと思っている」
父が言った。
「受けてみてもよいと思うぞ」
「そうですね」
爵位がある。家がある。仕事もある。
今出している手紙の返事を待つより、よほど確実だ。
父が家名を口にした。
受けるつもりでいた気持ちは、その瞬間に消えた。
「では、辞退してください」
「待て。今の話を聞いていたのか?」
「聞いていましたよ」
父の問いは当然だった。
「なら、なぜだ」
「エレノア嬢でしょう。ジェラルド様の妹の」
「ああ」
「じゃあ嫌です」
家名に間違いはなかった。
「噂だけで決めるな」
「一度の噂なら気にしませんよ。でも、婚約が三度もなくなっているんでしょう」
それは風聞ではなく、実際に起きたことだ。
「先方も、結婚後はジェラルド様との距離を改めると言っている」
「だったら、改めてから来てください」
口約束を信じて縁談を受けるつもりはなかった。
「少なくとも一度会ってみろ」
「嫌ですよ」
会ったところで、私の懸念が消えるとは思えなかった。
「エレノア嬢は、何でも兄君の話をするそうですね」
「それは……」
「お兄様なら、お兄様は、お兄様だったら」
父も、その評判は知っていた。
「私はもう、兄と比べられるのは十分です」
そのことで、兄たちや両親を責めるつもりはなかった。
社交界へ出るときに着た礼装も、長兄のお下がりだった。仕立て直せば十分着られたし、布も上等だった。不満だったわけではない。
次兄には新しいものが作られたが、あれは体格が長兄と違ったからだ。
理由は分かっている。
馬を選ぶときも、教師の日程を決めるときも、兄たちが先になることが多かった。
それも仕方がない。
長兄には家がある。
次兄にも行き先がある。
私は自分で探せばいい。
父にそう言われたこともある。
『お前なら、どこへ行ってもやっていけるだろう』
私はあれを褒め言葉だと思っている。
「兄上たちが嫌いなわけじゃありません」
「分かっている」
「父上や母上を恨んでもいません」
恨みがあるから、この縁談を断るのではない。
「ああ」
「だから、もういいんです」
結婚してまで、妻の兄と比べられたくない。
それでも、父との話は噛み合わなかった。
「必ず比べられると決まったわけではない」
「寝室でまで『お兄様なら』って言われたら、私、一生立ち直れませんよ」
「馬鹿者! 兄妹だぞ!」
父の受け取り方がおかしくて、笑ってしまった。
「寝室は冗談ですって。でも、何をしても兄君が基準になるのは嫌なんです」
父が惜しんでいるのは分かる。
私だって、惜しい。
「条件は、本当に惜しいですよ」
「そうだろう」
「爵位も欲しいし、領地も欲しい。仕事まであるなんて最高です」
父にとっては、それなら受ければよいという話になる。
「なら」
「でも、それを手に入れた先で、また誰かの兄の影を気にして暮らすなら、今までと同じでしょう」
条件がどれほどよくても、そこだけは譲れなかった。
「私は、自分の家が欲しいんです」
誰かから何も受け取らないという意味ではない。
そんなことはできない。
ただ、自分の家でまで誰かの兄を見上げて暮らしたくなかった。
父はしばらく何も言わなかった。
「……そうか」
「はい」
ようやく、どれほど条件がよくても返事は変わらないと伝わった。
「断っておく」
「ありがとうございます」
これで話は終わったはずなのに、父は最後まで条件を惜しんだ。
「惜しい話だぞ」
「分かってますよ」
だから困るのだ。
部屋を出ながら、返事を待っている手紙のことを考えた。
全部断られるかもしれない。それなら、また探せばいい。
爵位も領地もないところから始めることになるかもしれない。
それでも、その先で得たものなら。最初から最後まで、自分のものだ。




