恋する太陽と月 11
翌朝。
昨夜は他愛もない事を少し話し込んで、そのまま眠った。
朝起きると、ベッドの脇に修繕された深緑色のドレスが掛けられていて、ヴィヴィアンはいつも通りそれを着る。
丁寧に修繕してくれたようで、破れた痕や血は残っておらず、新品のようだった。
起きる時間が早かったのか、大広間に出ても誰もいなかった。
エインはまだ寝ているのだろうか。そう思いながらテーブルを見ると、紅茶のカップは綺麗に片付けられていた。クリーブスが戻ってから片付けたのだろう。そして、カップの代わりに、一冊の書物が置いてあった。
手に取ると、『月と太陽の物語』と書かれていた。
昨日『図書館』で見つけた、ベルトワーズが書き記した書籍だと言っていたか。
ヴィヴィアンはソファに腰かけ、丁寧にページを捲った。
中には、文字とともに繊細な絵が描かれていた。
月と太陽の物語
太陽に照らされる事でしか輝く事が出来ない月は、自らを哀れみました。
おのれの力で美しく輝きたいと願う月。
でも輝けません。
やがて月は、自らを卑しい存在と思い始めます。
光を乞うだけの存在であると。
月は恥ずかしくなって、その姿を徐々に隠してしまいました。
ついに太陽の光が当たらなくなり、月の姿も消えてしまったある日。
太陽が呟きました。
ああ、あなたの姿を見るのが、私の最高の喜びなのに。
私が照らす事で、あなたが美しく輝くなら、私は幾らでも光り輝くのに。
例え対の別れとなる、この身の滅ぶほどの光が必要になっても。
あなたが輝くなら、私も輝くのに。
月は太陽の言葉に、また姿を見せ始めます。
本当ですか?
私のために輝いているのですか?
ならば、あなたの光で輝けるように、この身を晒しましょう。
月と太陽は暫し、見つめ合い、想い合うのです。
しかしまた、月は自らを蔑むのです。
ああ、私は何故、自ら輝けないのか。
私は何故、あなたを照らせないのか…と。
それでも太陽は月を照らしたいと、何度も何度も想いを伝えるのです。
あなたの姿が見たいのだ、と。
「旦那様の著書でございますね。」
読み終わるタイミングを見計らってか、ちょうどよい頃合にクリーブスが声をかけてきた。
「素敵な御本ですね…。」
ヴィヴィアンが言うと、クリーブスはにこりと笑って「ありがとうござます」と言った。
「胸を悪くされましてからは、ずっとご趣味だった旅をやめて、書を認める事に熱中しておりました。
時折余りに夢中になられるもので、息抜きをお奨めして散歩に出ますと、道中、私に言うのです。
『私の本は、一冊一冊が誰かのために書かれているのだ。だからその本を手にすれば、これは自分のものだと必ず判るのだ。』と。
旦那様は、アンお嬢様と教授を誰の事より心配しておられました。
きっと著書の多くは、お嬢様と教授に宛てて、書かれた本なのではと思っておりますよ。」
なるほど。そう言われればそのようにも捉える事が可能だ。
月と太陽のように対照的なエインとアンは、ともに歩めばこの様な事を何度となく繰り返すような気がする。
エインは否定をするが、やはりアンの事は気がかりであろう。ここに残り、アンに寄り添う事を拒否する事は、エインにとっては『愛していない』という事ではないのかも知れない。
昨夜、エインから聞いたベルトワーズの言葉を思い出す。
――諦める事で、決まりに従う事で、見えてくる幸せがあるのだ。
そう。運命は変わると信じている一方で、別の道を歩む事で気付く幸せがある事も解っている。
今までだって、考えなかった訳ではない。
「…そうですね…。」
反芻した言葉に納得するように呟くと、クリーブスは自分の言葉に賛同したと思い込み、にこりと笑って一礼をし、食事の支度をすると言って立ち去った。
クリーブスを見送り、再び書物に目を落とす。
ゆっくり、一枚一枚ページを捲る。
『運命は変わる』と鋭い眼差しで呟いたエインの顔を思い出す。
黄昏て窓の外を見ると、いつの間にか庭にエインがいた。庭の端に立ち、腰に手を当てながら、植木の向こうに見える海を見つめている。
白いシャツが海風に揺れ、はためいている。眼鏡を外しているのか、普段とは違う後ろ姿に、ヴィヴィアンは少し戸惑う。
エインの周りには、沢山の『運命』がある。
彼は、”どれ”を、変えたいのだろう…。
◆ ◆
食事を終え、屋敷に戻る事になった。伯爵の遺言状の謎も解けた事だし、ここに長居をする理由はなかったから、荷造りをして出発するためだ。
屋敷には昨夜の医者が来ており、ヴィヴィアンの傷を再度診てくれた。医者は、これならすぐに傷も消えてなくなる、と頷き、ついでにアンの様子を診て帰って行った。
アンは相変わらず伏せっていて、今朝はベッドから起きられないどころか、人とも会えない状態だと言うので、エインだけがアンの部屋を訪れ、少し話をした後、挨拶を済ませて出て来た。
そしてエインとヴィヴィアンは手早く荷物をまとめ、クリーブスと従者たちに見送られて屋敷を出た。
ここへ来た時と同じように、トンプスンとウィンストンが操る馬車に揺られ、目と鼻の先、ボルドーへ向かう。
昼前なので、まだだいぶ風は冷たく、空も白い。
窓の外には、豆粒ほどに小さくなってしまったが、ベルトワーズ邸が見える。
見送り際のクリーブスの顔を思い出す。
少し、切なそうに笑っていた。
話し込む機会はなかったが、何故か全てを知ったような、すぐ傍にいてくれるような安らぎを覚える人だった。従者とは、そうあるべきであろうか。
隣を見ると、エインが鼻歌を歌って窓の外を眺めていた。鼻歌の旋律とは違って、横顔は少し哀しそうだ。エインはヴィヴィアンの視線に気付くと、にこりと笑って尻のポケットから手紙を取り出した。
「『図書館』で見付けた手紙はトリガー。」
「トリガー?」
「あの手紙を見つける事で、本当にボクが受け取るべきこの手紙を得る事が出来る。」
エインが窓辺に頬杖を突いた。
「氏は、『図書館』であの手紙を入手出来た時、この”本物の遺書”を渡すよう、アンに預けていた。
アンは、手紙の内容を知らされてはいなかったが、手紙のある一文だけを本物か偽者かを見極めるための条件として教えられていた。
氏がボクに遺した本物の遺書は、コレ。」
そう言って、エインは手紙をヴィヴィアンに差し出した。
「読み給え。」
言われて、ヴィヴィアンは手紙を開けた。
綺麗な封蝋でシーリングされた手紙は、長い年月を経たように茶色く黄ばんで、インクも少し擦れていた。
エイン・アンダーソン。
この手紙を読んでいると言う事は、私は死んでいて、あの手紙を手に入れたという事なのだろう。
つくづく、君の想像力と勘には、溜め息が出る。
アンにこの手紙を託したのは、私の最期の抵抗だ。そして、私の最大の願いでもある。
繰り返し言って来た我が娘との婚姻を、君はどうしても受けないだろう。
だが、君の夢のために、この屋敷は必要になるであろうと思う。
だから、君をまずアンの代理人とする事に決めた。そしてアンが亡くなった暁には、あの屋敷の後継人が君であるよう手続きをした。
それまでは、財の一切をアンに委ねる。
屋敷、土地、人間、ボルドーのあの地にある全てのものが、アンが死ぬまでアンのものである事を、ここに記す。
君の手に入るのは、アンが遺した全てのものだ。
もしかすると、それら一切は債権になっている事だってあるかも知れない。私の娘に限って、そのような事はないだろうが…。
アンが死んだ時は、君はアンを弔い、私の墓の隣に埋めてくれ。
そして、時折あの海辺の屋敷を訪れ、太陽と月とで並び、居間で私たちを思い出して欲しい。
アルネスト・ベルトワーズ
手紙の最後には、ベルトワーズの名と、アンの名、そして、この遺書を正式なものとするための、ベルトワーズ家と懇意にしている法律家の名が記されていた。
「何故、こんな回りくどいやり方をするのか、結構腹立つんだけどね。」
エインが鼻で溜め息を吐いた。
「屋敷を渡す事が、目的のようですね…。」
「文面からすると、ね。」
「そのために、婚姻を奨めていたのですね。」
「それはどうなんだろう。」
エインが少し愉快そうに言った。
「あれはあれ、これはこれ、な気もするけどね。
まぁ、何はともあれ、これでアンも暫くは安心して暮らせる。」
「…?」
ヴィヴィアンが首を傾げると、エインはふふと笑った。
「アンが氏から受け取った遺書は、本物じゃない。
これを読んだ後に気になったので、さっき見せて貰ったんだが、確かにベルトワーズ伯が書いたものだが、第三者の書名がなかった。
遺書としては無効だ。」
「…そうだったのですね…。」
「アンは無知ではないが、法律については知る事も少ない。況してや、父親がそんな賭け事のような事をしているとも思ってなかっただろう。
相当驚いていたよ。」
「これを、アンの手元に置いておかなくてよろしいのですか?」
そう言った事情があるなら、これこそアンが持っていなくてはならないものなのではないのか。
「うん。
ボクが代理人である以上、この書類はボクの手元にあった方がいい。
クリーブスにも言ってあるから、アンが何かに困っていれば、必ずボクに連絡が来る。」
その時、ボルドーとエディンバラという距離では、すぐに駆け付けられないではないか、とは思うが、エインの今までの言動を見ていれば、フランスに身を置く事は何があっても考えられない事なのだろうと思う。
ヴィヴィアンは手紙を元に戻し、ゆっくりエインに返した。
「あとは、これと一緒にアンが預かっていた、法律家への委任状を投函すれば、ボクの仕事は終わり。
そしてそれは、クリーブスがやってくれる。
という事で…。」
言いながら、エインが手紙を手にしてポケットに突っ込んだ。
「ちょっと、ボルドーで美味しいワインを入手しつつ、旧友に会いに行く。
付き合っておくれ。」
エディンバラまではどうあっても同行なのだから、断る必要もないのだが、エインは何をするにも了解を得てくる。否、言うだけで有無を言わせずという状況を理解しての事ではあろうが。
一方で、出た当初言っていた、赴任早々に旅をせねばならなかった状況を、未だ気にかけているのかもしれない。
「はい。」
ヴィヴィアンが、短い思案の後、いつも通りの抑揚のない返事をすると、エインは満足そうに窓辺に頬杖を突き直し、鼻歌を再開した。
旧友と会うのは、胸が躍るようだった。