月の港の極東人 1
ボルドーは、紀元前三〇〇年頃、ケルト人によって設立された街だ。元の名をブルティガラと言い、紀元前一世紀にローマに占領された事で主要な交易港が作られ、ワイン生産を基盤に産業地として栄えた。五世紀のローマ帝国の崩壊を受け、その後凡そ五〇〇年に渡りゲルマン民族であるゴート人に支配され、さらにはイベリア半島からやって来たアブド・アル・ラフマーンのイスラム軍に占領されたり、ノルマン人によるヴァイキングの侵略を受けたりしている。
七世紀にフランスの前身であるフランク王国であるメロヴィング朝の良王と言われるダゴベールによってアキテーヌ公領が創られ、ボルドーはやっと、都市として栄え始める。
一時、アキテーヌ地域圏の女公エリアノールが後にイングランド王となるヘンリー二世と結婚した一一五四年から約三〇〇年にかけてイングランド支配下に収まるが、フランスとイングランドによる百年戦争末期に、イングランド軍の敗北によりフランスに奪回された。イングランド支配下にあった当時、自治を確立していた恩義もあり、その後一〇〇年余りはフランスに反逆していたが、時間が経つにつれフランス支配を受け入れ、ここ最近は西インド諸島との貿易やワインの輸出などで急成長を遂げている。主にフランス植民地から仕入れた砂糖やコーヒーなどの嗜好品を始め、奴隷などを扱い、ドイツやオランダの諸都市に売る中継貿易によって大いに潤っている。
あまり栄えていないガロンヌ川と河口付近のジロンド川右湾は、ベルトワーズ邸付近と同様に森と葡萄畑が広がり、川を挟んで左湾に街が広がる。
ガロンヌ川は大きな河川であるため架橋工事が難しく、未だ左湾と右湾を行き来するに船を使っている。
左湾へ渡れば一変、美しく歴史ある建造物が立ち並ぶ、まさに世を謳歌し、さらに栄えんばかりに活気溢れる街に変貌する。
三日月型に湾曲する港を持つため月の港と呼ばれ、左湾の湾曲部ほぼ中央の川縁には、四〇年前にわずか五歳でフランス国王に即位したルイ一五世の騎馬像を囲う宝石箱をイメージした王国広場と宮殿の建築が進む。この工事は六年前に落成し、ボルドーの繁栄のシンボルとされている。
ここまでが、ボルドーに入りトンプスンとウィンストンと別れ、ガロンヌ川を船で渡る間にエインから説明を受けた内容だった。
相変わらず潤滑油の成分を知りたくなるほど饒舌に語り尽くすエインを脇目に、ガロンヌ川上から見るボルドーの港は、船が所狭しと停泊する賑やかな港だった。
話に出た王国広場には、木による足場が組まれた宮殿も見える。
港に降り立ち、宮殿を左手に見ながら西へ進むと、コメディ広場と呼ばれる大きな広場が見え、その向こうにあるトゥルニー広場まで抜けるトゥルニー通りには、偶数番地側にのみ、ロココ様式の装飾形式を持つルイ十五世様式と呼ばれる柔らかな曲線が特徴的な軽快、優美な様式の建物が並ぶ。
このトゥルニー通りは、一七四三年にボルドーへやって来たトゥルニー候ルイ・ユルバン・ オベールの「ボルドーは、均整も便宜も無視した醜い家が、ごちゃごちゃと固まリ、その間をきちんと直角に交わることのない、狭い通りが縫っている。」という嘆きにより整備された。
エインの旧友はこのトゥルニー通りの一角に住居を構える、ボルドー大学の教授だそうだ。
クリーム色の石を積み上げて、統一感を持って整備された街並みは、人工的ながら実に柔らかで美しく、気品ある様子だった。
暫く歩いていると、区画の間の路地から現れた一人の男が、エインを見るなり大袈裟なほど大きな身振りで手を振った。
「おや…。」
エインが溜め息を吐きながら苦笑した。そして、手を振る男を指差し、「あれがボクの旧友。」と言って、エインも手を振り返した。すると男はすぐさま走り寄って来た。
「エイン! 良く来た!!」
そう言う彼は、西洋人特有の彫の深い角ばった顔に、大きな瞳をキラキラを輝かせ、横に口をひきにかっと笑い、まさに陽気を絵に描いたような顔でエインの肩を叩いた。
一方でこじんまりと整った顔のエインは、彼と比べると全く西洋人のように見えない。
「済まないね、ご無沙汰をして。」
エインが言うと、男はこれまた大きく首を振り、「全く構わないさ」と笑った。そして、ヴィヴィアンを見、一転して柔らかな優しい微笑みを浮かべ、
「立ち話をして済まなかった。さあ、我が家へ案内しよう。」
と言って、手で元いた路地を示した。
◆ ◆
案内された家は、男が出て来た路地を少しガロンヌ川へ向かって歩いた場所にあった。
二階建てのこじんまりとした家だが、偶数番地なのでルイ一五世様式の美しい装飾を施してある、大変優雅な様相の家だった。
中へ通され、二階の一室へ案内される。
部屋の窓は路地に面していて見晴らしも悪くなく、陽もそこそこ当たって明るかった。
調度品は気を遣って選ばれたようで、シンプルではあるがさり気無く植物をあしらったシルエットの柔らかな装飾が施されたものが並んでいる。
部屋に入るなり、エインと男は窓辺に立ち、あちこちを指さして話し始めてしまった。ヴィヴィアンは取り敢えずドアの脇に移動し、少しだけ体を縦に細めて立っていた。
すると、ドアが開き、銀のティー・セットを持った女性が入って来た。女性はヴィヴィアンを見て「あらあら」と言うと、プレートを部屋の真ん中にあるテーブルに置き、腰に手を当てて男に言った。
「あなた。お客様を放っておくなんて、失礼ですわよ。」
女性に言われ、エインと男が振り向きヴィヴィアンを見て、申し訳なさそうに苦笑した。
「すまん、ヴィヴィ。」
「申し訳ない。女性を独りにしてしまうなんて、紳士の風上にも置けぬ無礼をしてしまった…。」
二人に詫びられ、然して気にもしていなかったヴィヴィアンは、眉を顰めて肩を竦めた。
「…いえ…。お気になさらず…。」
ヴィヴィアンが言うと、エインがヴィヴィアンに歩み寄り、二人に紹介をした。
「すまん。紹介すらまだだった。
ヴィヴィアン・トーマス。つい先週、ボクの屋敷へ来たばかりのサポート役です。
ヴィヴィ、こちらはイトダ夫妻。
夫がボクの旧友のアルフォンス。こちらが奥さんのエリーズだよ。」
エインが各々紹介すると、アルフォンスもエリーズもヴィヴィアンに歩み寄り、握手を求めた。
ヴィヴィアンが握手に応じると、二人は無表情のヴィヴィアンに優しく笑いかけ、席に着くよう椅子をひいてくれた。
他の三人も席に着き、エリーズが紅茶を淹れてくれ、即座に話に花が咲く。
「アルは東洋人なんだよ。ああ、東洋と言うのは、ずっと東の端にある地域だ。そこの、ニホンという国から、学生の頃にフランスへ来て、成績が優秀だったためにそのまま大学に残り、そろそろ五年ほどボルドー大学で教鞭を振っている。
エリーズとはボルドー大学で知り合って、生徒だったエリーズがアルフォンスに一目惚れをして、結婚したんだ。」
「親の猛反対を受けてね。殆ど駆け落ち同然。姉は時々手紙をくれるけど、両親はもう駄目ね。
アルの仕事が大学教授でなかったら、とっくに父親に連れ返されているところだけど…。」
「何とか俺が大学での地位を維持しているから、この生活が成り立っているんだ。
エインとは、ボルドー大学の学生になる前に出会ってね。
一時の出会いかと思っていたら、俺らが駆け落ちした直後に、本当に困っている時に再会し
たんだ。
それ以来、フランスへ来たら、我が家へ寄って貰う事にしているんだよ。」
三人の説明に、ヴィヴィアンは要所要所に頷く。
「手紙で、メイドが次々辞めて行ってしまうと聞いて、心配していたんだ。
まだ一週間ほどかい?」
「はい。」
「でも、屋敷に来たその日にフランスへ出てしまったから、まだ家の事は何もした事がないんだ。」
「あら。落ち着かない旅になってしまったのね。体は大丈夫?」
「大丈夫です。有り難うございます。」
「ヴィヴィとエリーズは、歳が近いんじゃないかな。」
「まぁ、そうなの? ヴィヴィはおいくつ? 私は今年で二十六になります。」
「二十五です。」
「あら、良かった。殆ど同い年ね。」
「俺らも同い年だからな。今年で三十六か。」
そう言って、アルフォンスが陽気に笑った。エリーズもふふと笑う。
「変わり者だが、悪いヤツじゃない。
長くいてやっておくれ。」
アルフォンスの言葉に、エインが苦笑した。そんなエインを、ヴィヴィアンは真っ直ぐ見つめて頷いた。
「そのつもりです。」
ヴィヴィアンが言うと、エインがふわりと笑い直した。
「そう言えば、お二人ともお食事は?」
「ああ、そう言えば、ベルトワーズ邸で朝食を摂った後は、何も。」
「なんだ。俺らもまだなんだ。」
「一緒にどう? これから支度ですけど。」
「うん。お言葉に甘えようかな。」
エインが言うと、エリーズが席を立った。
「では、手早く準備しますわね。」
そう言ってドアへ向かうエリーズに、ヴィヴィアンが声をかけた。
「お手伝い、します。」
エリーズは振り向いて、エインを見た。エインの了解を得なければと思ったのだ。
エインが頷くと、エリーズはにこりと笑って、「お願い」と言った。
「行ってまいります。」
ヴィヴィアンが席を立つと、エインはヴィヴィアンを見上げて言った。
「行っておいで。」
◆ ◆
ヴィヴィアンとエリーズが出て言った後、暫し沈黙が訪れた。
エインはヴィヴィアンの出て行ったドアをじっと見つめ、アルフォンスはそのエインを見つめていた。
やがて、アルフォンスが椅子の背凭れに凭れ、腕組をして溜め息を吐いた。
「彼女と出会ったのは、偶然か?」
アルフォンスの問いかけに、エインが浮かべていた微笑みをすっと消した。そして虚ろな目でアルフォンスを見ると、小さく首を振った。
そんなエインに、アルフォンスはさらに溜め息を吐いた。
「またか…。
何故だ、お前はあれだけ失敗をしたのに、何故また繰り返すんだ?」
「ベルトワーズ伯爵にも言われたよ。
『諦めろ』と。」
「当たり前だ。俺だって言うよ。」
アルフォンスが少し語気を荒げて言うと、エインは哀しそうに笑って、俯いた。
「ここまで来たんだ。最後までやりたいんだ…。
でも…。」
「でも?」
「それも、これで最後かも知れない。」
「…?」
「もう、”流れられない”。」
エインの言葉に、アルフォンスも俯いた。
そしてそのまま少し項垂れた後、首をかったるそうに持ち上げて、窓の外に目をやる。
「”シュレーディンガーの猫”は、否定された筈だ。
俺たちが生まれるずっと前に…。」
「オレが”観て”いるのは、猫じゃない。」
「じゃあ…ッ!?」
静かに否定するエインを、アルフォンスはキッと睨みつけ、そして即座にはっとした。
エインの横顔は、出会って初めて見る、深い悲しみに沈んでいたからだ。
アルフォンスは息を整えるために、少し口を閉ざした後、小さくゆっくり呟いた。
「”バンブー”を観測したと聞いて、それを”渡った”と聞いた時は、俺だって驚いたさ。
驚いたと同時に、施設を裏切ったお前を憎みもした。
勿論…。」
言葉を止めたアルフォンスを、エインが横目でちらりと見た。
エインの視線をアルフォンスも横目で受け止め、
「…同情もした。」
と続けた。
「でも、その哀しみを受け止めるのが、”人間”じゃないのか?
俺たちは神じゃない。
超えてはならない領域がある。その中でさらに留めておくべきルールがあるだろう?
俺たちが守るべきものは、”それ”じゃなかったのか?」
その問いかけに、エインは何も反応を示さなかった。
ただ俯いて、疲れたように椅子に凭れ、虚ろに空を見つめているだけだ。
「…お前の心の中は、ぐちゃぐちゃなんじゃないのか…。」
静かに、しかし吐き捨てるようにアルフォンスが言うと、エインは少しだけ笑って、目を閉じた。
「そうかもしれない…。
だから。
だからこそ、最後までやってみたいんだ。
最後まで、縋り付きたいんだ…。」
いつだって冷静で、笑顔を絶やさなかった男が、と思うと、アルフォンスにはエインが惨めに見えて仕方がなかった。
尊敬もし、心を啓いた友人には違いない。勿論、この先もエインが困れば手助けを躊躇う訳もない。
だが、心中に闇の渦巻く友人は、闇へとことん潜ると言う。
その先に、同じ哀しみが繰り返し待っていようと。
覚悟とも、ある種諦めとも取れるその決意が、いつ友人の心を壊してしまうかと、気が気ではない。
「『運命は変わらない』、なんて、素朴実在論は、お前には不要ないな…。」
アルフォンスが少し嫌味を言うと、エインは俯いたまま、目を閉じたままにやりと笑った。




