第1話 勇者に金を貸した日
「世界を救いたいんです」
勇者は金を借りに来た。
王都の裏通りは朝から雨だった。石畳は濡れ、安酒場も沈んでいる。その一番奥に俺の店はある。
高利貸師ロアン・グリード。担保相談可。
扉を開けた女は濡れたマントを脱がなかった。銀の胸当て。腰の細身の剣。手の甲の聖印。
勇者リディア。王都中の子供が名前を知っている女だった。
勇者様が魔王を倒す。勇者様が世界を救う。勇者様なら何とかしてくれる。
便利な言葉だ。誰も金を出さずに済む。
「座れ」
俺は帳簿から顔を上げずに言った。
「ロアン・グリードさんですね」
「そうだ」
「お願いがあります」
「金だろう」
「・・・分かるんですか」
「俺の店に来る奴は全員そう言う。最後は全部金の話だ」
リディアは唇を結んだ。勇者にしてはずいぶん疲れた顔をしている。
「魔王討伐に必要な資金を貸してください」
「いくらだ」
「金貨10万枚です」
「帰れ」
「お願いします。必要なんです」
「金貨10万枚は願い事で借りる額じゃない。国家が予算を組む額だ」
王国は出さない。教会は祈るだけ。貴族は勝利後の支援を約束しただけ。
「勝った後に出す金は支援とは言わん」
世界を救えと言う者は多い。保存食1袋の値段を気にする者は少ない。
「返済原資は」
「魔王討伐後、王国から報奨金が出ます。それで必ず返します」
「契約書はあるか」
「口約束ですが、国王陛下が直々に」
「それはないのと同じだ」
俺は王国財政の写しを出した。本物ではない。数字は本物より正確だ。
「今年の歳入は足りていない。報奨金を出すと言っても財源がない。貴族に臨時税をかければ反発、教会から借りれば利権を渡す、民から取れば暴動だ」
「でも、魔王を倒せば」
「倒した後の話をしている。勝利は返済原資じゃない。勝利が生む収入が返済原資だ」
リディアは黙った。雨が窓を叩き、遠くで教会の鐘が鳴った。祈るだけならたしかに安い。
「担保は」
「この剣を」
「足りん」
「では私の鎧も」
「足りん」
「私の命では」
「論外だ。死んだ債務者からは取り立てられん」
「返す気はあります」
「なら生きて返せ」
誰もが魔王を恐れながら、自分の財布だけは守っている。そのくせ彼女には世界を救えと言う。
ずいぶん安い正義だ。
「ひとつだけ担保になるものがある」
「何ですか」
「お前が救う予定のものだ」
「・・・まさか」
「世界だ」
「世界を担保に?」
「そうだ」
「そんなことができるんですか」
「できるから言っている」
俺は契約魔法用の紙を広げた。
「魔王を倒せば報奨金が出る。お前はそれで返済する。そこまではいい」
「はい」
「報奨金だけでは信用が足りない。足りない分はお前が救う予定の世界を担保に入れろ」
「世界は私のものではありません」
「今はな」
「今は?」
「お前は勇者だ。王国も教会も民衆も、世界救済の責任をお前に押しつけている。なら契約主体になる資格はある」
「資格ですか」
「責任だけ押しつけて、契約の権限は渡さない。そんな都合のいい話はない」
リディアは契約書を見下ろした。
「なぜ・・・貸してくれるんですか」
「利息が取れる」
「それだけですか」
「それ以上の理由で金を貸す奴は、だいたい破産する」
契約書に文字が浮かぶ。
一、債務者リディア・アルフェンは、魔王討伐を目的として債権者ロアン・グリードより金貨10万枚を借り受ける。
二、返済は魔王討伐後に得られる王国報奨金、教会謝礼金、貴族支援金、その他正当な討伐収入をもって行う。
三、債務者が魔王討伐に失敗し、世界存続に重大な損害が生じた場合、債権者ロアン・グリードは担保対象である世界の保全権および回収権を有する。
「保全権と回収権?」
「担保は債権者が守る」
「世界をですか」
「担保価値が下がると困るからな」
「それはつまり、私が失敗したらあなたが世界を救うということですか」
「違う。俺は世界を救わない。担保価値を守るだけだ」
リディアはなぜか少し笑った。
「署名、血判、意思確認。この3つが揃えば契約魔法《絶対履行》が発動する」
「神でも破れない契約魔法ですね」
「知っているなら話が早い」
「でも、それを高利貸しが使うなんてあまり評判はよくありません」
「評判で飯は食えん」
リディアは契約書から目を離さなかった。
「怖くないわけじゃありません。でも、私がここで帰れば明日にはどこかの村が燃えます」
「その村はお前に金を出したか」
「出していません」
「ならなぜ背負う」
「勇者だからです」
「便利な言葉だな」
「本当に便利な言葉です」
覚悟は担保にならない。
「勝てば問題ないんですよね」
「勝って返せばただの借金だ」
「なら契約します」
若いと思った。勝つつもりの人間は負けた後の条項を軽く見る。だから破産する。
それでも彼女は署名し、親指を切って血判を押した。
「リディア・アルフェン。お前はこの契約内容を理解し、自らの意思で締結するか」
「はい。私はこの契約を理解し、自分の意思で結びます」
契約書が銀色に燃えた。
契約魔法《絶対履行》。これで担保がどこで傷もうと俺にわかる。
俺は金貨10万枚分の支払証書を置いた。
「支払先は指定してある。武器屋、薬師、馬車組合、転移術師ギルド。余計な酒場では使えん。現金で持ち歩くな、盗まれる」
「仲間を疑っているんですか」
「金を疑っている」
「ありがとうございます」
「礼はいらん。利息がつく」
「必ず返します。必ず魔王を倒してみせます」
「それが一番いい」
リディアは立ち上がった。扉へ向かう背中は細い。その背中に世界が乗っているのだと皆は言う。
俺には担保価値、国家信用、信仰残高、そして魔王との戦争で削られていく世界の残存価値が見えていた。
まだ壊れていない。だから壊されれば困る。
「ロアンさん」
彼女は振り返った。
「もし私が負けたら、本当に世界を取り立てに行くんですか」
「当然だ」
「どうして」
「取り立ては、債権者の義務だからな」
リディアは一瞬だけ驚き、それから小さく笑った。
「変な人ですね」
「よく言われる」
扉が閉まる。勇者は魔王討伐へ向かった。
その日俺は勇者に金を貸した。
*
その夜、契約線が震えた。
早すぎる。勇者が王都を出てまだ半日も経っていない。
俺は帳簿を閉じた。
「担保が傷んだか」




