第1話
「お兄さん、ねぇ、ちょっと時間ある?」
深夜二時、東京都新宿区歌舞伎町。
路地裏を歩いていると、スマホを片手にした女が行く手を塞いだ。
——立ちんぼ。
数年前から、よく耳にするようになった言葉だ。
風俗店を介さず、路上で客を引いて売春の交渉をする女性のことらしい。
目の前のこの女も、その類だろう。
黒いレースのワンピースに、過剰な装飾。
生足、開いた胸元、剥き出しの肩。
まるで自分という商品を路上に陳列してみせるような立ち姿だった。
彼女がなぜここに立っているのか、その事情は知らない。
知る必要もないし、咎めるつもりもない。
「悪い。通してくれ」
そう言って、右に避けて通ろうとする。
すると——「待って」と細い声が漏れ、スーツの袖を掴まれた。
「少しでいいの。ほんの数分でいいから」
人通りのない路地に、その声がやけに響いた。
この道をよく通る俺は、これまで何度も同じ台詞を別の女から聞いては断り続けてきた。
だが、この女を見るのは初めてだった。
サツを避けて、シマを変えてきたのか。
あるいは、まだ始めたばかりなのか。
——まぁ、どうでもいいな。
小さく息を吐き、さらに右へ逸れようとした瞬間、袖を強く引かれた。
「お願い、します」
彼女は深く頭を下げた。
毎日手入れをしているのだろう、艶のある長い黒髪が、さらりと下へ流れ落ちる。
強引に引き留める手つきもさることながら、片手を膝に添え、丁寧に腰を折る所作——この路地には、不釣り合いなほどに礼儀正しい。
——ピコンッ。
内ポケットのスマホが、短く鳴った。
ターゲットが、ホテルに到着した合図。
——もう、構っていられないな。
俺は殺気を、わずかに流した。
女の喉が、ひとつ上下する。
視線がふっと逸れ、肩から背にかけて、小刻みな震えが伝う。
それでも、袖を掴んだ指は離れなかった。
——大した度胸だ。
大抵の人間は、これを浴びれば踵を返して走り出す。中には、その場で腰を抜かす者もいる。
彼女は、そのどちらでもなかった。怯えてはいるが、退きはしない。
その覚悟に免じて——俺は彼女の指に触れた。
一本ずつ、外していく。
女は抗わなかった。ただ、不思議そうな目で、こちらを見上げている。
最後の一本を解いて、手を引く。
「悪いな。時間がないんだ」
彼女は俯いたまま、膝の上で両手を握りしめている。
俺はそのまま、振り返らずに目的地へと向かった。
*
数分後——任務終了。
ホテルの裏口から路地へ抜け、いつもの帰路に戻ろうとした、その瞬間だった。
「——っ」
ぐい、と腕を引かれた。
反射的に、肘から先に力が集まる。
利き腕でなければ、そのまま投げ飛ばしていた。
電柱の陰。街灯の死角。
誰の目も届かない狭い空間に、引きずり込まれていた。
「……こっち」
あの、女だった。
息が浅い。
路地裏の薄明かりでもわかるほど、唇から血の気が引いている。
俺が何かを言うより先に——彼女は、ワンピースの肩紐に指をかけた。
スルッ。
黒いレースが、肩から滑り落ちる。
彼女は突然、着ている服を脱ぎ始めた。




