9話
会場の静まり返った空気の中、鈴木宗一郎がゆっくりと立ち上がった。その手元にあるメモは微かに震えていたが、彼の眼差しにはこの場所を守り抜こうとする老骨の執念が宿っていた。
「本日はお集まりいただき、心から感謝する。オリエント・スクエアは、まもなくその長い役割を終えようとしている。しかし、ここに集まった一人ひとりの人生と、この壁の中に積み上げられた膨大な時間は、決して無駄なものではなかったはずだ。今日は、そのかけがえのない時間を皆で分かち合い……」
鈴木が言葉を紡ごうとしたその瞬間、冷徹な響きを含んだ低い声が会場の空気を切り裂いた。
「鈴木さん。感傷的な昔話はそのくらいにしていただきたい」
声の主は、最前列で腕を組んでいた阿部俊介であった。彼は鈴木の言葉を真っ向から遮ると、椅子の軋む音を立てて傲然と立ち上がった。その一挙手一投足には、権力者特有の不遜な自信が漲っていた。
「私は、市民を代表する立場として一言、動かしがたい事実を述べさせていただく」
会場の空気が一瞬で凍りついた。阿部は聴衆を威圧するように見回すと、まるで選挙演説のような澱みのない口調で話し始めた。
「周知の通り、オリエント・スクエアは深刻な老朽化が進んでいる。耐震基準はとうの昔に下回り、市の詳細な調査によれば、このまま放置することは人命にかかわる重大な危険性を孕んでいるという指摘すらあるのだ。我々が計画している新しいビルは、万全な安全性を備え、地域経済を飛躍的に発展させ、この街に真の『未来』をもたらすものだ。過去を慈しむ心も大切だが、市民の安全と未来を軽視するわけにはいかないのだよ」
阿部の放った言葉は、鈴木が用意した「弔い」の場を、一瞬にして再開発の正当性を一方的に訴えかける公開論争の場へと変質させてしまった。
沈黙の淵:不信の眼差し
阿部の熱弁に圧倒され、会場の誰もが言葉を失い、沈黙が支配した。そのリセッタの隅で、ずっと古書に目を落としていた佐藤悠馬が、ゆっくりと本を閉じた。彼は誰に気づかれることもなく、静かに顔を上げた。
佐藤が目を向けたのは、熱弁を振るう阿部の顔ではなかった。彼は壁に貼られた色褪せた古い広告や、活気に溢れていた頃の白黒写真を、穴が開くほどじっと見つめていた。
彼の瞳の奥には、阿部の言う「未来」という言葉に対する、根深い不信感と侮蔑が混じり合ったような光が宿っていた。かつて東京の出版社で、輝かしい未来を謳った企画が脆くも崩れ去る光景を見てきた彼にとって、阿部の言葉は空虚な響きにしか聞こえなかったのだ。
阿部議員による「未来のための再開発」という一方的な演説が終わり、リセッタの空気は鉛のように重く沈み込んでいた。再開発を待ち望んでいたはずの人々も、市の権威を盾に取った阿部の高圧的な論理を前に、反論の糸口すら見つけられずに立ち尽くしていた。




