31話
午後になり、フリーマーケットの熱気が最高潮に達したとき、事件は起きた。
ビルの裏口、つまり佐藤が注目していた私書庫のすぐ近くの通路に、市からの正式な通達を装った通行禁止のバリケードが、不自然なほどの手際の良さで突然設置されたのだ。
「通行止めだと? 何の許可を得てこんな真似をしているんだ!」
大家の鈴木老人が、日頃の穏やかさからは想像もつかないほど激しい声を上げて抗議した。しかし、バリケードの前に立ちはだかったのは、阿部議員の秘書だった。彼は冷徹な笑みを浮かべ、手に持った書類をこれ見よがしに掲げて言い放った。
「市民の安全のためですよ。ビルの裏手の壁の一部に、昨夜、新たなひび割れが確認されました。老朽化による構造的な危険性があるため、市の命令で緊急に封鎖します。皆さんも命が惜しければ、速やかにこの場を離れることですな」
これは阿部議員による、あからさまな妨害工作だった。イベントの活気を削ぎ、このビルが危険な負の遺産であることを市民に再認識させるための、極めて露骨なやり口である。裏口の封鎖は単に搬入路を塞ぐ物理的な嫌がらせに留まらず、多くの人が集まる場所で根も葉もない「不安」を煽ることで、祭りの高揚感を恐怖へと塗り替えようとしていた。
一瞬にして、人々の顔から楽しげな笑顔が消えた。活気溢れるフリマの喧騒に、冷たく鋭い不協和音が響き始めた。来場者たちは互いに顔を見合わせ、不安げにビルの天井や壁を見上げ、足早に立ち去ろうとする者も現れ始めた。
その時、高橋美咲が集まっていた客たちの中心に飛び出し、お腹の底から絞り出すような大きな声を上げた。
「皆さん! 待ってください! ここは、そこの人たちが言うような危険な場所なんかじゃありません! このビルは、私のおばあちゃんや、ここにいる人たちみんなの生活を何十年も支えてきた、本当に丈夫なビルなんです!」
彼女の声は、広場にいた全員の足を止めた。美咲は自分を遮ろうとする秘書の冷たい視線を真っ向から跳ね返し、さらに言葉を重ねた。
「阿部議員はこの活気を邪魔したいだけです! 嘘の言葉で私たちの思い出を壊させたくない! 私たちは、この交差点の灯を絶対に消させません。裏口が使えなくても、私たちには堂々とした正面玄関があるじゃないですか! 皆さん、どうか正面に回って、引き続きフリマを楽しんでください!」
美咲の必死の呼びかけに、最初は戸惑っていた人々も、彼女の真っ直ぐで力強い瞳に動かされた。沈黙が支配していた場に、今度は力強い民衆の声が響き始めた。
「そうだ、このビルはまだ大丈夫だ!」 「あの議員はいつもそうだ、自分たちの都合で私たちを脅そうとする!」 「邪魔なんてさせないぞ、祭りを続けよう!」
市民たちは、美咲の言葉に従い、バリケードを築いた秘書たちを軽蔑の眼差しで見やりながら、ぞろぞろと正面へと回り始めた。人々の足音は先ほどよりも力強く、連帯の熱を帯びていた。
小川葵は、カウンターの奥からそのすべてを見ていた。かつてはこの街を捨てようとしていた美咲の目覚ましい成長と、権力の介入を撥ね退けた住民たちの固い連帯。その光景が、阿部の卑劣な妨害を鮮やかに打ち砕いたことに、葵は心の底から深い感動を覚えた。




