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29話

「阿部俊介は、かつて、オリエント・スクエアのテナントの一つ、小さな広告代理店で働いていた。今から20年ほど前の話だ。その頃、彼が中心となって関わったある『プロジェクト』が、取り返しのつかない大きな失敗を招いた。それは単なる経営上のミスでは済まず、会社を倒産に追い込み、多くの関係者の人生を狂わせ、不幸のどん底に叩き落としたのだ」


鈴木は、絞り出すような静かな声で、慎重に言葉を選びながら語り続けた。


「阿部議員が、なりふり構わず再開発を強引に進めるのは、単なる功名心からではない。その失敗の記録、彼にとっての汚点そのものであるこのビルごと、すべてを灰にして完全に消し去りたいからに違いない。彼の異常なまでの出世欲の裏側には、人知れず抱え続けてきた過去のトラウマが、黒い澱のように隠れているのだよ」


鈴木は震える手で上着の内ポケットを探り、小さな、手のひらサイズの真鍮の鍵を取り出した。それを、佐藤の目の前のテーブルへと、音を立てて置いた。鍵は長年の歳月によって鈍く曇り、古びていて、今となっては何の扉を開くためのものか、一見しただけでは判別がつかない。


「これは、かつて阿部が働いていた広告代理店の、旧倉庫の鍵だ。再開発の波が押し寄せ、ビルが解体されるその時、この倉庫の中に眠る記録こそが、彼の最大の『秘密』を暴く鍵となるだろう。ワシはもう高齢だ。これ以上、阿部の冷酷な圧力に独りで耐え抜く自信がないのだよ……」


鈴木は、縋るような眼差しで佐藤を見つめた。


「佐藤くん、君は『記録』の価値を知り、それを守り抜ける人間だ。たとえこの鍵が示すものが何であれ、それを歴史の闇に葬らず、未来に残してはくれないか」


鈴木は、長年抱き続けてきたビルへの深い愛着を、一人の政治家の過去を清算するという、あまりに重い形で佐藤に託したのである。


佐藤は、目の前に置かれた冷たい真鍮の鍵と、鈴木の老いた、しかし確かな光を宿した瞳を交互に見ていた。外界との繋がりを断ち、自分自身の過去さえも書棚の奥に埋葬したかったはずのその手に、今、他人の人生を左右する「過去の断片」が容赦なく渡された。


佐藤は、喉元まで出かかった拒絶の言葉を、静かに飲み込んだ。そして、吸い寄せられるようにその重い鍵を掴んだ。


彼は直感していた。この鍵が導く真実を白日の下に晒すことこそが、自分自身の長い「埋葬」を終わらせ、再び「記録」と共に生きるためのきっかけになるかもしれない、と。

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