25話
葵と美咲は、祈るような思いで「黄昏文庫」の重い扉を押し開けた。
店内に漂う防虫剤と古紙の匂いは、以前よりも濃く、沈殿しているように感じられた。佐藤は、先日の美咲との対峙以来、自らが築き上げた書物の壁のさらに奥、深い静寂の中に引きこもっていた。窓から差し込む斜光が埃を白く浮き上がらせ、彼の横顔を無機質に照らしている。
「佐藤さん、お願いです! メルティの倉庫が、急に『違法増築』だと言われて……。このままでは解体費用を請求され、店が潰れてしまいます」
葵が焦燥を押し殺しながら事情を説明しても、佐藤は開いている本から視線を一ミリも動かさなかった。頁をめくる指先だけが、規則的に、そして冷淡に動く。
「その手の法的なトラブルは、専門の弁護士に相談すべきだ。一介の古本屋にできることは何もない。帰りなさい」
その声は、紙の端で指を切るような、鋭く乾いた響きを帯びていた。
「いいえ、あなたにしかできないことがあります。あなたは、このビルの『正確な過去』を誰よりも知っているはずだ」
葵は、佐藤の拒絶を真っ向から受け止め、さらに一歩踏み込んだ。
「阿部議員は、偽りの事実を振りかざして、私たちに『未来の負債』を背負わせようとしています。一度は折れたかもしれないあなたの手にあるその記録で、今度こそ不当な圧力を止めることができるはずです。そうでしょう?」
葵の必死の訴えに、佐藤の手が止まった。彼は数秒の沈黙の後、重い瞼をゆっくりと持ち上げた。
佐藤の眼差しの奥には、かつて彼自身が東京の大手出版社で味わった、巨大な組織による理不尽な圧力への怒りが、再び微かな熱を帯びて灯ったのかもしれない。彼は葵の瞳の中に、過去の自分が見失ってしまった「抵抗の光」を見出していた。
「……違法増築か。このビルが竣工した時代、行政の管理体制は今ほど厳格ではなく、縄張りも曖昧だった。特に裏側の倉庫や通用口などは、『慣習的な使用』として長年放置され、既得権益化している場所が多いのが実情だ」
彼は美咲に向き直ると、短く、命じるように言った。
「メルティの倉庫の正確な寸法と、保管されている最も古い賃貸契約書の控えを持ってきなさい。一刻を争うはずだ」
美咲は弾かれたように店を飛び出し、数分後には息を切らしながら資料を抱えて戻ってきた。佐藤は、その資料をひったくるように受け取ると、自らの広大なコレクションの中から、特定の年代のファイルを探し始めた。
棚の最奥から引き出されたのは、オリエント・スクエア建設当初の『土地利用実測図』と、『行政への建築確認申請書』の写しであった。
「阿部は、現在の図面だけを盾にしている。だが、建設当時の未整理な記録の中には、当時の行政が便宜的に認めた『特例措置』の記載が残っている可能性がある」
佐藤は拡大鏡を手に、煤けた図面を凝視した。それは、一人の隠遁者が、再び社会という名の戦場へ「記録」という武器を持って赴くための、静かな出陣の儀式であった。




