15話
葵は、リセッタのカウンターに深く身をもたせ、頭を抱えた。指の間から見える使い古された店内の風景が、今はひどく遠く、脆いものに感じられた。
このままでは、父が人生を懸けて守り、自分へと繋いできたこの喫茶店の看板を、自分の代で「営業停止」という最悪の形で終わらせてしまう。再開発による立ち退きという時代の流れに抗えないのであればまだしも、理不尽な圧力に屈して店を閉じることは、彼女にとって死よりも重い屈辱であった。
「ひどすぎる。こんなの、私たちを追い出すためだけの卑劣な嫌がらせじゃないですか」
高橋美咲が、白くなるまで拳を握りしめ、絞り出すような声で言った。その若さゆえの正義感は、目の前の巨大な壁を前にして、激しい怒りへと変わっていた。
「その通りなのだ。阿部議員は、鈴木さんが開いた『語る会』の余韻を潰し、反旗を翻した私を黙らせるために、法という名の暴力を使ってきたのだ」
葵の声は乾き、かすかに震えていた。近隣のテナント仲間からは、形ばかりの同情の言葉はかけられた。しかし、誰もが再開発の波に呑まれ、自分の店の行く末に必死な者ばかりだ。具体的な支援の手を差し伸べる余裕など、今のオリエント・スクエアには残されていなかった。葵は、この古いビルの薄暗い光の底で、底知れない孤独に苛まれていた。
記録という名の防波堤
その時、隣の古書店から、佐藤悠馬が数冊の分厚いファイルを抱えてリセッタに入ってきた。ファイルはどれも煤け、時代の重みでひどく色褪せていた。
「小川さん。先ほどの査察の報告書を、私に貸してくれないか」
「佐藤さん、一体何を……。いくらあなたでも、法律や複雑な建築基準のことまで分かるわけがないでしょう」
佐藤は葵の制止には答えず、無言のまま重厚なファイルをテーブルに置いた。そして、査察官が残していった冷徹な報告書と、自らが持参した資料を対比させるように広げた。
「私は建築の専門家ではない。だが、私は『記録』を扱う専門家だ。阿部議員が突きつけてきた老朽化の証拠は、彼の都合の良いように解釈された、薄っぺらな『現在』に過ぎない。我々が唯一対抗できる武器は、このビルが積み重ねてきた『確かな過去』だけなのだ」
佐藤は、オリエント・スクエア建築当時の仕様書や、行政へ提出された膨大な申請記録の控えを、査察官の指摘事項と一つずつ照らし合わせ始めた。その眼差しは、静かな狂気すら孕んでいるように見えた。




