14話
美咲が古びた地図を凝視し、自らのルーツに触れようとしたその瞬間、リセッタの穏やかな午後の空気は無機質な足音によって切り裂かれた。扉を開けて入ってきたのは、制服に身を包んだ市の消防署員と衛生監視員の一団であった。
彼らの手にはクリップボードが握られ、その眼差しには日常的な点検とは明らかに異なる、執拗なまでの「粗探し」の意志が宿っていた。これこそが、阿部議員が裏で糸を引く報復の第一弾であった。
無機質な査察:踏みにじられる日常
「小川葵さん。防火設備の緊急確認と、厨房の衛生管理体制について、立ち入り検査を実施する。協力願いたい」
リーダー格の男が事務的に告げると、返事も待たずに査察員たちは店内の隅々へと散らばった。彼らは慣れた手つきで厨房の奥を覗き込み、倉庫の棚を動かし、天井の隅を指でなぞった。その一挙手一投足には、最初から「違反」という名の結論ありきで動いているような、冷徹な機械性が漂っていた。
隣接する「黄昏文庫」で異変を察知した佐藤悠馬が、音もなくリセッタへと姿を現した。彼は声を荒らげることもなく、ただ査察員の背後でその様子を静かに見守っていた。その瞳は、彼らがどこを執拗にチェックし、どのような言葉を投げかけるのかを克明に記録しているようであった。
突きつけられた過酷な宣告
「排煙窓の操作盤、カバーにひび割れを確認した。防火戸の稼働状況も、法定の規定速度に達していない。これは重大な過失だ。直ちに改善命令を出す」
「厨房の換気ダクトに付着した油汚れ、これは清掃不十分と判断せざるを得ない。このままの状態での営業継続は、食中毒や火災のリスクが極めて高い。最悪の場合、営業停止の対象となる」
次々と浴びせられる機械的な指摘と、淡々と書類に書き込まれていく改善命令。葵の顔からはみるみるうちに血の気が引いていった。それらの不備を解消するためには、最新の設備への交換や大規模な清掃業者への依頼が必要となり、総額で数百万円という多額の費用がかかることは明白であった。
逃げ場のない陥穑
「……そんな」
葵の膝が微かに震えた。再開発による取り壊しまであと一年を切ったこのビルに、それほどの巨額を投じる余裕などどこにもない。しかし、改善できなければ「営業停止」という名の死刑宣告が待っている。
葵は悟った。これは法を盾に取った、あまりにも露骨で残酷な「嫌がらせ」なのだ。阿部俊介という男の冷笑的な顔が脳裏に浮かび、彼女は悔しさのあまり唇を白くなるまで噛み締めた。
長年、地域の人々にとっての安息の地であり、彼女自身の唯一の逃げ場でもあった「リセッタ」が、今、巨大な権力の暴力によって、じわじわと外堀から埋められようとしていた。
消防と衛生の査察官たちが去った後に残された「改善命令」の書類は、あまりにも重く、リセッタのカウンターに横たわっていた。排煙設備と防火戸の改修。賃貸契約が残り半年を切ったビルに対して、その投資は事実上の立ち退き勧告と同義であった。




