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はしゃいだ笑い声に犬の鳴き声が混じる。小さなリエトがアーテルとともに駆けている。学院に入学するほどに成長した今も小柄だが、もっと小さい。幼いころのことだ。カントリーハウスの庭を駆けまわる。アーテルは本来はもっと速く走れるが、隣のリエトに顔を向けながら、速度を合わせて跳ねるように走っている。そんなアーテルがふと前を向いた。
『主さま!』
アーテルの黒い毛が陽光を艶やかに弾く。ふわふわの尾が左右に揺れている。ほんの少しばかり、前のめりになって先行する形となった。釣られてリエトはアーテルが向かう先に視線をやる。
斜面のてっぺんに立っている者がいる。逆光で顔は見えない。
アーテルは彼の方の足元でぴたりと止まってお座りをしたが、リエトは勢いを殺せず膝に抱き着くような形となってしまった。アーテルとの駆けっこをしていたままの全開の笑顔で。
眷属である力ある獣とともに駆ける小さな子供は、さんざめく輝きの音が聞こえそうなまばゆさをまとっていた。
『光を凝縮したような輝かしさだ』
アーテルの主さまはリエトがぶつかった反動で後ろに倒れ込まないように、身をかがめて手で背中を支えてくれながらそう言った。なんのことかと尋ねる前に、アーテルがリエトの真似をして主さまの逆側の膝に甘えるように首筋をこすりつける。主さまは残った手でアーテルの頭を撫でる。
リエトが見ていると、アーテルと目が合った。どちらからともなく、ふふっと笑い合う。
『————』
最後、主さまがなんと言ったか。
リエトは寝台で横になったまま、ぼんやり天井を見上げながら考えた。
「わうん」
枕元近くに、ぬ、とアーテルが顔を出した。そのまま寝台にぽすんと顎を乗っける。至近距離で見つめ合っていると、つい今しがたまで見ていた夢を想起させる。
「おはよう、アーテル」
『リエト、おはよう!』
朝から元気いっぱいだ。
アーテルは寒さ暑さに強いし、なにより大きい身体をしているから、屋外で過ごすのが通常だろう。けれど、アーテルの行動指針はとにかく『おれ、リエトといっしょ!』なのである。だから、どこに行くのもいっしょで、リエトの寝室の床で眠っている。ベッドのすぐ傍だ。寝ぼけて足置きにしても平然としている。逆にいえば、リエトといっしょならば、野外でも気にしない。
さて、伯爵家の末っ子のリエトは、リュケイオンに入学するまでは使用人に着替えをさせてもらっていたが、自分でできるようになった方が良さそうだと考え至った。以後、自分で着替えるようになっている。顔を洗って食堂に行くと、父と兄、兄嫁がすでに着席していた。母と下の姉はカントリーハウスにいる。上の姉は別家に嫁いだ。
「おはようございます」
「おはよう」
「よく眠れたか?」
「疲れていませんか?」
学院に魔物が入り込むといった椿事があったばかりで、家族に心配される。それに答えたのはリエトではなく、アーテルだ。
『大丈夫。リエト、ぐっすり!』
顎を上げてえへんとばかりに胸を張る。
「まあ、よろしゅうございましたわ」
初めてアーテルを見た時はあまりの大きさに驚いていた兄嫁も、今ではすっかり慣れ、しゃべるということすらも受け入れている。
すでに何度もしたやり取りではあるが、父も兄もリエトがしっかり睡眠をとれていると知ってほっとしている。
アーテルはリエトの席の斜め後ろに食事が入った器があり、いっしょに食べる。もちろん、『リエトといっしょ!』である。
「本日は鹿肉のローストの赤ワインソース添えをご用意しました」
前菜の皿の次に、メイン料理が置かれる。
肉は臭みがなく柔らかく、ソースにはバルサミコ酢やバターが加えられ、コクがある。
「おいしい! ソースにハチミツがはいっているね」
リエトのために食べやすくしているのだ。給仕はうっすら微笑んで、料理長に伝えておくと言った。気に入られたと聞けば喜ぶだろう。リエトもまたそれを知っているので、積極的に感想を伝えるようにしている。
これは下の姉から教わったことで、「みんな、リエトにたくさん食べて欲しくて頑張っているのよ。でも、リエトだって好みを主張しても良いのよ。その方が美味しく食べられるわ」とのことで、得心が行くものだった。
魔物襲撃事件があってから、アーテルがいっしょに通学するようになった。父と兄は追加の寄付をしてカフェテリアでアーテル用の食事を用意してくれるよう頼んだ。ここでも、『リエトといっしょ!』が発動し、そうなるとリエトも肉を食べざるを得ない。食の細い末っ子に食べさせるチャンスを逃すものか、という思考が透けて見える。
父も兄も執務に携わるときには前者は悠然と、後者は無表情で泰然としている。けれど、父はたとえばリエトがアーテルと庭を駆けまわっていて、その勢いのまま飛びついたら相好を崩して抱きとめる。そして、「ああ、大きくなったなあ、リエト。お父さまはいつまでもリエトのことを抱きとめられるように、足腰を鍛錬しておかなくては!」と言って本当に鍛え始めた。
兄は兄で、無表情のままで「父上、ずっと抱き上げているのならば、腕の鍛錬も必要でしょう」などと言っていた。
「む! そうだな。よし、腕立て伏せもしておくか」
父はノリノリでリエトを背に乗せ腕立て伏せをした。
「お父さま、すごーい!」
リズミカルに上下するのに、リエトは歓声を上げた。ちょっとしたアトラクションだ。末っ子の称賛に、父のノリノリはノリノリノリノリくらいに高潮する。
身体を鍛えることは良いことだから、ときに諫めることがある執事もなにも言わずにこやかな表情で、そっとリエトが転がり落ちないように背を支え続けた。
兄はそれなりに整った容姿の生真面目な男性で、厳しい面もあるが、実は面白いとリエトは思っている。だが、母と姉ふたりとの社交界について話していたところから察するに、常に無表情だから女性からはあまり好まれない様子だった。
そんな兄と結婚した兄嫁がまだ許嫁だったときに、いっしょうけんめい兄の良いところをアピールしたことがあるリエトに、兄嫁は「ほんとうに仲のよろしいご兄弟ですこと」と笑った。
そして、リエトにこっそり教えてくれた。
「リエトさまのお兄さまはね、デートのときもご家族のことをたくさんお話してくださるのよ。口数が少ないなんて、とんでもないですわ。ご家族のことをよく見ておられるの。リエトさまに読んで差し上げる本をいっしょに選んだこともございましてよ」
題名を聞けば、確かに、兄に読んでもらったことがある冒険譚だ。兄よ、せっかくの女性とのデートに家族のことばかりでどうするのだ。そんな風な考えがちらりと脳裏をかすめたが、リエトは面白かった冒険小説を思い出してそちらに気を取られる。
「あれ! 覚えています。とても面白くて、眠るどころじゃなくなったやつ!」
「まあ、あらあら」
「翌日、寝不足でお昼寝をたっぷりしました」
庭の木陰でアーテルの腹を枕にぐっすりだ。獣のふいごのような呼吸の一定のリズムは、いかにも眠りに誘われる。
「目に浮かぶようですわ」
兄の婚約者はほのぼのとした表情をする。
「それで、続編も出たのだと、お兄さまが買って来て下さって」
「またおふたりで夢中になって、次の日、お寝坊さんになったのかしら?」
「えへへ」
察しの良い兄の婚約者にリエトは照れ笑いをする。
「ね? すてきな方でしょう?」
つまりは、リエトが心配するまでもなく、ちゃんと兄の良いところを知っているということなのだろう。
「僕、お義姉さまのような方がお兄さまと婚約されてうれしいです」
「まあ! わたくしも、リエトさまのような方と縁づいてうれしゅうございますわ」
さて、このとき、まだ慣れていなかったら怖いだろうからと言われたアーテルはリエトに言い含められて少し離れたところで待機をしていた。仲間外れにされてすっかりムクれてしまい、機嫌を取るのにちょっとばかりやっかいだった。
そんなやり取りを見ていた兄は婚約者にせっせとアーテルのことを話してくれ、次に会ったとき以降は仲間外れにされることはなくなった。
兄がくれたお気に入りの冒険小説は今でも手に取り、アーテルに読み聞かせてやることがある。
「いつか、僕もいろんな場所に行ってみたいなあ。船に乗るのも楽しそうだね」
『船?』
「そうだよ。大海原に乗り出すんだよ」
『リエト、船に乗るの? じゃあ、おれもいっしょ!』
「うん、アーテルもいっしょに乗ろうね」
物心つくころまで病がちで生死が危ぶまれるほどだった。そこから十年近く、カントリーハウスで過ごした。けれど、今は元気になって、学院にも通えるようになった。
もう少し先の未来では、船に乗って海を渡っているかもしれない。きっと、そのときも、頼もしい相棒が傍らにいるだろう。その相棒はうとうととし、ぷふひーと妙ちくりんな鼻息を漏らしてリエトの笑いを誘うのだった。