第3話
何とか理由をつけて百瀬から逃げるように別れた俺は、自動車が行き交う大通りを見渡した。
総浦高校の校舎は、少しばかり立地が悪い。
正門へ向かうには、長い坂道を上らなければならない。周囲には比較的平坦な土地が広がっているため、そこだけが不自然に盛り上がっているようにも見える。山道というほど大げさなものではないが、毎朝通う身としては十分に厄介だった。
徒歩ならまだいい。問題は自転車通学の生徒たちである。
坂の手前までは軽快にペダルを漕いでいた生徒も、傾斜が始まると途端に速度を落とす。立ち漕ぎで一気に駆け上がろうとする者もいれば、早々に諦めて自転車を押し始める者もいる。朝から無駄に体力を消耗するのだから、たまったものではない。
坂を上るにつれて、後ろの景色は少しずつ低くなっていく。道の両側に並ぶ建物や、遠くに広がる街並みが、いつの間にか視線の下に収まっている。息を切らして坂を上りきる頃には、ようやく学校の敷地が目の前に広がる。
校舎は決して特別な造りをしているわけではない。けれど、坂の上という立地もあってか、下から見上げると妙に堂々として見える。毎朝あそこまで上らなければならないと思うと、少しばかり気が滅入るものだ。
もっとも、帰りはその逆だ。ペダルを漕がなくても、自転車は勝手に坂を下っていく。朝の苦労を考えれば、せめてそれくらいの恩恵はあってもいいだろう。
そして、この坂道は帰宅RTAをする際にも重宝している。スタート直後の加速装置、いわばブースターとして利用するのだ。
重要なのは、大通りにある交差点の歩行者用信号である。あれが青に変わるタイミングに合わせて坂を下らなければ、交差点で赤信号に引っかかり、せっかくの勢いが台無しになってしまう。そのため、自動車用信号が黄色に変わったタイミングで出発するのがベストだ。そうすれば、坂を下りきって交差点に着く頃には、歩行者用信号が青になっているはずである。
俺は自転車に跨り、自動車用信号が黄色に変わるのを待った。
そして、黄色に変わった瞬間、スマホのストップウォッチを起動。すぐさまポケットにしまい、勢いよくペダルを踏み込んだ。
坂道を一気に下っていく。風が顔に吹きつけ、髪の毛が後ろへ流れていく。
「ふーっ!」
思わず声が漏れた。だが、周囲にも下校中の生徒がいることに気づき、すぐに口を閉じる。顔が熱くなるのを感じた。こういうことはたまにある。歌いながら帰っていたら、実は後ろにクラスメイトがいて、恥ずかしい思いをしたこともあった。
やがて、交差点の歩行者用信号が青に変わる。俺は坂道を下った勢いをそのままに、交差点を突っ切った。
これで、駆け出しは完璧だ。
その後も、要所要所で待ち受ける難所を突破しながら帰路を進み、家に着くなりスマホを取り出してストップウォッチを止めた。
二十一分五十秒。新記録更新ならずと。
卒業までに二十分を切れるのか。見どころはまだまだありますね。
そうですね。えー、この先はいかに無駄な動作を省けるか、どれだけ上手く立ち回れるかが鍵になってきますね。
おっと、俺の百八の奥義の一つ。
脳内実況&解説(CV両者共俺)がぽろっと出てしまったようだ。
家に入ると、俺は鞄を自室の隅に放り出し、ベッドへ倒れ込んだ。柔らかなマットレスが全身を受け止める。この包容力、この安心感。人間関係に疲れた日は、やはりここに限る。
俺の恋人は、いつだって優しく俺を包み込んでくれる。
百瀬のように殺意を向けてくることもなければ、余計な文句を言ってくることもない。俺が何をしようと、ただ黙って受け入れてくれるのだ。
あまりにも天使すぎる存在である。
今日は久しぶりに女子と……いや、人間と、学校でまともに話した。おかげで精神的な疲労は限界に近い。こんな日は、恋人の温もりに癒やしてもらうに限るだろう。
誤解のないように言っておくが、俺の恋人とはベッドのことである。
別に恋人がいない事実を誤魔化そうとしているわけではない。決して。
ベッドに寝転がったままスマホを手に取り、小説投稿サイトを開く。最近読み続けているラブコメのページを確認すると、ちょうど最新話が更新されていた。
続きを読むことにしたのだが、妹が登場したところで、そんな妹いるわけねぇだろ、と鼻で笑ってしまった。俺は早々にサイトを閉じ、スマホから目を離す。
どうやら、妹という存在をよく分かっていないらしい。実際の妹というものがどれほど恐ろしい存在なのか、教えてやろうか? あまり妹を神格化するなよ。そもそも、妹をラブコメのヒロインレースに加えるなっての。
虎視眈々と兄を狙っているくらいの添え物ならいいだとか、妹はすでに勝利者だから戦う必要なんてないんだとか。多種多様な主義主張があることは認めよう。
だが、大人になることを考えれば、誰も幸せな未来を迎えられないだろう。
え? じゃあ血が繋がっていなかったことにするって?
逃げるな卑怯者! 逃げるなァ!!
そこは腕の見せ所だろうが!!!
ちなみに、ここまで語っておいてなんだが、俺は妹が登場するラブコメをあまり好んで読まない。
その理由は――
「ねぇ、カス兄貴。お腹空いた。ご飯作って」
「妹よ。人を呼ぶのに余計な言葉を付け加えるんじゃない」
「分かった。カス。早くご飯作って」
どうやら妹にとっては、「兄貴」の方が余計だったらしい。
声の主は、ノックもせずに俺の部屋へ入ってきた。こちらの都合など知ったことではないといった顔で、当然のように飯を要求している。
こいつが俺の妹、千景葵である。
中学三年生。俺が通っている高校の中等部に在籍している。顔は俺と違ってかなり可愛い部類らしく、そこそこモテているという話も聞く。
兄妹なのに、どうしてここまで差がついたのだろうか。遺伝子の配分を担当した神様には、一度説明を求めたい。
理由を問いただした上で、もし、その答えに納得できなかったら、そうだな。殺すしかなくなっちゃったよ。
いや、やっぱり、ある程度のことは噛み殺して我慢できるからいいや。少なくとも、神殺しなんてできる度量は俺にはないだろうし。
けど、スマホのフィルムを剥がして気泡を入れるくらいの意地悪はさせてもらうね。神がスマホを持っているかは知らないけど。
「というか、葵。入る時くらいはノックしてくれよ。兄貴にだって見られたくないことがある時もあるんだぞ」
「あるの? 基本、勉強してるか、本読んでるか、スマホを見ながらニヤニヤしてるか、気持ち悪い顔をしてるだけでしょ? あ、最後のは常にだけど」
「……いや、ほら、そのね。自家発電とかしてたらどうすんのさって話だよね」
「自家発電……? あ、そういうことね。大丈夫だよ。見たら、気まずさ六割、嘲笑一割、哀れみや悲しみ、その他諸々の感情を含めた顔をしてから、見なかったことにしてあげるから」
「気遣われるのが一番効くからやめて」
「じゃあ、思いっきり馬鹿にしてあげる」
「こういうセクハラ発言で動揺しないの、凄えな、お前」
「こういうのは過度に反応した方が調子に乗るからね。上手く受け流さないと。さらに、その後の対応で相手が一番やってほしくないことをやるとなおよし」
どうやら、性格の悪さに関しては神様も配分を間違えなかったらしい。どちらかというと、妹の方に行き過ぎている気もするけど。
「パスタとかでいいか?」
「うん、それでいい。あ、あと、お父さんとお母さんは今日も遅くなるって」
「おっけー」
俺は名残惜しくベッドから起き上がり、キッチンへ向かって料理を始めた。
もっとも、麺を茹でてレトルトのパスタソースを温め、最後にかけるだけだ。これを料理と呼んでいいのかは議論の余地がある。
少なくとも、わざわざ人を呼びつけるほどの作業ではないはずだ。
「つか、パスタでもいいなら自分で作れよ」
ソファに座り、スマホをいじりながらテレビを眺めている妹へ声を飛ばす。
「やだよ。面倒くさいし。家にせっかく奴隷がいるんだから働かせないと」
「おい、誰が奴隷だ」
これで分かっただろうか。俺が妹の出てくるラブコメを好き好んで読まない理由が。
妹は控えめに言って、性格が終わっている。
そんな妹を身近に持つ俺からすれば、兄を溺愛する妹など幻想でしかない。画面の向こうにいる妹たちは、きっと現実の妹とは別の生き物なのだ。少なくとも、俺の知っている妹は兄に飯を作らせたうえ、感謝するどころか奴隷呼ばわりしてくる。
それに、妹という身近な存在に恋愛感情が絡む描写を見ると、妙に生々しく感じてしまう。フィクションだと分かっていても、どうにも落ち着かない。
実際の妹なんてゴミだぞ。
人をこき使うし、妹が泣けばなぜか全部こっちが悪いことになるし、「兄なんだから我慢しなさい」とかいう理不尽まで飛んでくる。兄という立場に、そんな万能の責任を負わせないでいただきたい。
まぁ、ラブコメはあくまで創作物であって、現実と作品を一緒にするなという意見も分かる。
そこに関しては理解している。俺も好き好んで読まないというだけで、完全に読まないわけではないし、書くなとも言っていない。
アニメなら「※個人の感想です」とテロップが出るところだ。あくまで俺個人の意見であり、すべての妹がそうだと主張するつもりはない。
ただし、少なくとも俺の妹は例外ではない。
パスタを作り終え、皿に盛り付けて食卓へ運ぶ。葵もソファから腰を上げ、当たり前のように向かいの席へ座った。
食事が始まっても、妹の手元からスマホが離れる気配はない。フォークを動かしながら画面を眺め、誰かに返信している。食事の時間くらい、目の前の人間と向き合えないものだろうか。
「飯食う時くらいスマホやめろよ」
「うるさい。私は兄貴と違って友達多いの。通知が公式ラインと家族しか来ない人は黙ってて」
「お前なぁ……」
呆れて言葉も出ない。
こいつは兄の心を抉ることに関して、無駄に才能を発揮する。しかも本人は悪びれもしない。傷つくこちらが悪いとでも思っているのだろう。
俺が妹の将来を心配するべきなのか、それとも自分の将来を心配するべきなのか。答えの出ない問題について考えていた、その時だった。
テーブルの上に置いていたスマホが震えた。
どうせ公式ラインか、父親か母親からの連絡だろう。俺の交友関係など、通知の種類を確認するまでもなく把握できる。便利といえば便利だが、少しばかり寂しい。
そんな諦め半分の気持ちで画面を確認すると、表示されていたのはラインの友達追加通知だった。
相手の名前は――。
「百瀬!?」
思わず声が裏返り、口に含んでいたパスタを吹き出しそうになる。どうにか飲み込んだものの、俺の声に反応した妹が勢いよく顔を上げた。
どうやら、俺以上に動揺している奴がいた。
「え!? 百瀬って真白先輩!?」
「ああ、そうだけど?」
「真白先輩のライン持ってるの? 駄目だよ、兄貴。グループラインから勝手に女子の個人ラインを追加しちゃ。普通に気持ち悪いよ」
「違うからな。俺は自分が気持ち悪いことを分かってるから、そんなことしない。百瀬の方から追加されたんだ」
俺の好きな言葉の一つは自己保身だぞ。そんなことするわけないだろ。
「えぇ……何で兄貴なんかに? というか、関わりあったの?」
「あー……まぁ、今日ちょっとな」
俺は葵に、今日あった出来事をざっくりと話した。
告白を目撃したこととか、百瀬に愚痴を聞かされたこととか、そして、周囲からの詮索を避けるために、話し相手になってほしいと頼まれたこととかな。
もちろん、百瀬の性格の悪さについては伏せておく。
あいつの本性を説明するのは面倒だし、何より妹がどんな反応をするか分からない。先輩の裏の顔を知って、ショックでも受けられたら寝覚めが悪い。
……いや、葵のことだ。むしろ喜んで食いつく可能性もあるな。
話を聞き終えた葵は、スマホを置いて不思議そうに首を傾げた。
「……でも、それおかしくない?」
「何がだよ」
「真白先輩って、その告白の話とかを周りに詮索されるのが嫌なんでしょ? でも、兄貴みたいな陰キャぼっちと仲良くしてる方が、余計目立つと思うんだけど」
「それは……」
言われてみれば、確かにそうだ。
俺と百瀬が親しげに話しているところを見れば、不思議に思う奴は多いだろう。今までほとんど接点のなかったクラスメイト同士なのだから、なおさらだ。
それでは、質問の矛先が変わるだけで、面倒ごとが減るとは限らない。
「……というか、真白先輩って……葵、知り合いなのか?」
ふと気になって尋ねると、葵はあっさり首を横に振った。
「いや、別に。ただ憧れてる吹奏楽部の先輩ってだけ。もう辞めちゃったらしいけど」
「ふーん」
「ていうか、兄貴は返信したの?」
「あ」
そうだった。
友達追加の通知に驚いて、そのまま放置していた。俺は慌ててスマホを手に取る。
画面には、『よろしく』と一言だけ送られていた。
ある意味、こういう感情の読めない短文の方が、リアルで百瀬と話すより怖いかもしれない。
普段のあいつなら、表情や声色から機嫌を読み取ることもできる。少なくとも、今この瞬間に怒っているかどうかくらいは分かるはずだ。
しかし、文字だけとなると話は別だ。たった四文字の裏に何があるのか、考え始めるときりがない。
というか、家族以外の女子とラインするのは初めてなんだが。
こういう時って何て返せばいいんだ?
普通に「よろしく」でいいのか?
いや、そもそも向こうから追加してきたのだから、何か話したいことがあるのかもしれない。だとしたら、こちらから話題を振るべきなのか。それとも余計なことを言わず、相手の出方を待つべきなのか。
考えれば考えるほど、正解が分からなくなる。
怖い。
「兄貴。貸して」
「あ、ちょ――」
俺が画面と睨み合っている隙に、葵が手を伸ばしてスマホを奪った。
「おい、返せ!」
慌てて取り返そうとしたものの、俺が手を伸ばすより先に、妹の指が画面を滑る。
『よろ。真白ちゃんって可愛いよね』
やっとの思いで取り返したスマホには、そんなメッセージが送られていた。
「何やってんだお前ェ!?」
俺は椅子から身を乗り出し、慌てて送信を取り消そうとした。
だが、既に既読が付いている。
終わった。俺の人生が終わった。
いや、まだだ。送信を取り消せば、見なかったことにできるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて操作したが、結局、相手が目を通したという事実は消えない。
俺はそのメッセージを削除し、改めて『よろしく』とだけ送り直した。
「何してくれてんだよ!?」
「あはは。兄貴はそれくらい大胆にならないと友達できないよ」
葵はいつの間にかパスタを食べ終えていたらしい。俺のスマホを返すと、腹を抱えるほどではないにせよ、十分に楽しそうな顔で笑っている。
こいつ、絶対に他人の不幸を娯楽として消費するタイプだ。
……血は争えないということか。
「笑い事じゃねぇよ!」
「はいはい。ごちそうさまー」
俺の抗議など聞く耳を持たず、葵は自分の皿を持って立ち上がった。そのまま食器を片付けると、まだ笑いを噛み殺しながら自分の部屋へ戻っていく。
残された俺は、スマホの画面を見下ろした。
百瀬からの返信はない。
そりゃそうだろう。いきなりあんなメッセージが送られてきたら、誰だって困る。ましてや相手は、俺のことを「気持ち悪い」と公言してはばからない女だ。
これ、あれだろ?
さっきのラインでのやり取りが、実はスクショされていて、その画像が俺のいないクラスラインで共有されているんだろ?
それで教室に入ると、何故だか俺を一瞥した後、誰かが嘲笑するように笑う声が聞こえてくるんだろ? 特に女子グループ辺りな。
そうなったら、もう死ぬしかない。
枕に顔を押し付けて「あー!」って叫びたくなる事案だ。そして、その枕は何故だか濡れているんだろうな。
もう休もうかな。
そんな憂鬱な気分になりながら、俺は残ったパスタを口に運んだ。せめて飯くらいは美味しく食べたいのだが、どうにも味がしない。




