第48話:自由と責任
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翌朝。
ウルム村を包んでいた空気は、昨日までとは物理的に変質していた。
朝霧が晴れると共に姿を現したのは、村の正門前、街道に面した場所に鎮座する、巨大な黒皇石の石碑だった。
高さはおよそ三メトル。
磨き上げられた黒い表面には、帝国皇帝の紋章である「双頭の鷲」が金泥で刻まれ、その下にはヴァレリアン・フォン・アドラーの署名と共に、簡潔かつ絶対的な一文が彫り込まれている。
『此処より先、帝国の友邦なり。剣を抜く者、即ち帝国の敵と知れ』
それは、皇帝ヴァレリアンが去り際に残していった、最大級の「置き土産」だった。
◇
時間を少し巻き戻す。
昨日の夕刻、皇帝一行が馬車に乗り込む直前のことだ。
村の正門前では、帝国工兵――黒鴉の精鋭たちが、巨大な黒御影石の石碑を地面へと固定していた。
「……陛下。本当に、これを?」
御者台のベアトリクスが、控えめに問う。
「構わん」
ヴァレリアンは、窓越しにウルム村を見やった。
「あれはただの石ではない。余の『理』だ。――此処は、静かでなければならん」
それだけ言って、皇帝は口角を上げた。
「不可侵とは、剣を向けぬことではない。近づく意思そのものを折ることだ」
馬車が動き出す。
夕陽を受けて、双頭の鷲が鈍く輝いた。
◆
そして現在。
ウルム村から数キロ離れた丘陵地帯。
そこには、アルベール失脚後の事後処理と、あわよくばウルム村の隙を突いて制圧しようと目論む、エルディナ王国の正規騎士団・偵察部隊の姿があった。
「……おい、あれを見ろ」
斥候の兵士が、望遠鏡を覗き込んだまま、震える声で隣の隊長を呼んだ。
「なんだ、騒がしい。追放者どもが白旗でも上げたか?」
「ち、違います! 門の前に……見たことのない石碑が……いや、あれは!」
隊長は望遠鏡を引ったくり、自ら覗き込んだ。
レンズ越しに映り込んだのは、朝日を反射して黒く輝く石碑と、そこに刻まれた黄金の双頭鷲。
隊長の顔から、瞬時に血の気が引いた。
「て、帝国の紋章……だと……!?」
カチャリ、と望遠鏡が手から滑り落ち、乾いた音を立てる。
「馬鹿な……なぜだ!? なぜ、こんな辺境の村に、皇帝直筆の不可侵条約碑があるんだ!?」
帝国の紋章。
それは大陸において、絶対的な力の象徴だ。
「た、隊長! どうしますか!? 上層部からは『隙を見て制圧せよ』と命令されていますが……」
部下の問いに、隊長は青ざめた顔で首を激しく横に振った。
「無理だ! あんなもの、触れるわけがないだろう! 撤退だ! すぐに王都へ報告しろ! 『ウルム村は、帝国の聖域と化した』とな!」
王国軍の斥候たちは、逃げるようにその場を去っていった。
彼らが去った後には、ただ夏の風が吹くだけの、静寂が残された。
◇
「……ふぅ。どうやら、本当に誰も来なくなったようだな」
アシュランは、実験庭園の木陰に設置したハンモックの上で、ゆらゆらと揺られながら呟いた。
石碑が設置されてから三日。
村の周囲をうろついていた不審な影は一掃され、時折聞こえていた遠くの馬蹄の音も消え失せた。
文字通り、物理的な静寂が訪れていた。
「ええ、そうですわね師匠。リナちゃんが森の木々を通じて教えてくれましたけれど、街道の方にいた悪い気配の人たち、みんな蜘蛛の子を散らすように逃げていったそうですわ」
ハンモックの傍らで、エレノアが冷たい果実水を差し出してくる。
彼女の表情は晴れやかだ。聖女としての重荷を下ろし、一人の村人として、そしてアシュランの弟子として生きることを、誰に憚ることなく肯定されたのだから無理もない。
「ふん。まあ、皇帝陛下の御威光というやつでしょう。物理法則とは異なりますが、『権力』という力場もまた、人間社会においては無視できないエネルギーを持つということです」
カインが、木陰のベンチで分厚い洋書を読みながら、呆れたように言った。
彼はこれから「技術顧問」として定期的に帝都へ報告書を送る義務を負ったわけだが、その顔に悲壮感はない。むしろ、帝国の最新情報を合法的に入手できるルートを手に入れ、研究者としては満更でもない様子だ。
「まあ、何にせよだ」
アシュランはハンモックから空を見上げた。
木の葉の間から差し込む木漏れ日が、優しく網膜を刺激する。
気温は聖樹と空調魔導具によって最適化され、聞こえてくるのは小鳥のさえずりと、遠くで働く村人たちの穏やかな喧騒だけ。
完璧な、スローライフの舞台。
「これでようやく、俺の安眠を妨げる邪魔者はいなくなった」
アシュランは目を閉じた。
求めていたのは、この静寂だ。
追放されたあの日から、ただひたすらに「快適さ」だけを求めて突き進んできた。
壁を作り、風呂を作り、作物を育て、迎撃兵器を配備した。
その全てが、この瞬間のためにあったのだと思えば、苦労も報われるというものだ。
だが。
「あ、師匠。そういえば、トマスさんが『難民の受け入れ区画、もうすぐ満杯になりそうです!』って言ってましたわよ」
エレノアが無邪気に報告してくる。
「む。……そういえば、ヘイム殿も言っていましたね。『最近、村の外から商人がひっきりなしに来て、宿屋が足りない』と。不可侵条約の噂を聞きつけた商会が、安全な交易ルートとしてこの村を使いたがっているようです」
カインもページを捲りながら追撃する。
「あとね、家主様! お水がちょっと足りないかも! 畑が増えすぎて、今のパイプじゃ水圧が落ちてるの!」
頭上の枝から、リナが顔を逆さまに出して言った。
閉じていた目を開けたアシュランは、少しだけ肩をすくめて笑った。
「……わかってるよ。まったく、静かになったと思ったら、今度は内側が騒がしくなってきやがった」
邪魔者は消えた。
だが、その代わりに、村は勝手に大きくなり始めている。人が集まり、物が動き、静寂は内側から擦り切れていく。
快適さとは、放っておけば壊れるものだ。これは、エントロピー増大則に抗う物理学者の宿命とも言える。
アシュランはハンモックから起き上がった。
「よし。昼寝は終わりだ。カイン、上水道の拡張計画を見直すぞ。ベルヌーイの定理を応用して、水圧を維持したまま分岐を増やす。エレノアは、商人たちの衛生管理だ。変な病気を持ち込まれたらたまらないからな」
「はい、マスター! すでに計算式は用意してあります!」
「お任せください、師匠! 検疫所を作りますわね!」
弟子たちが嬉々として動き出す。
アシュランは伸びをして、それからニヤリと笑った。
「忙しいな。……まあ、退屈するよりはマシか」
かつて王都を追われた無能な三男坊は、今や大陸の二大国が無視できない特異点の主となった。
だが、彼の望みは変わらない。
ただ、最高に快適な生活を送ること。
そのために、彼は今日も物理法則を武器に、世界という難題に立ち向かっていくのである。
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