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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第3章 不可侵と均衡

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第48話:自由と責任

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

翌朝。

ウルム村を包んでいた空気は、昨日までとは物理的に変質していた。

朝霧が晴れると共に姿を現したのは、村の正門前、街道に面した場所に鎮座する、巨大な黒皇石こくおうせきの石碑だった。


高さはおよそ三メトル。

磨き上げられた黒い表面には、帝国皇帝の紋章である「双頭の鷲」が金泥で刻まれ、その下にはヴァレリアン・フォン・アドラーの署名と共に、簡潔かつ絶対的な一文が彫り込まれている。


『此処より先、帝国の友邦なり。剣を抜く者、即ち帝国の敵と知れ』


それは、皇帝ヴァレリアンが去り際に残していった、最大級の「置き土産」だった。



時間を少し巻き戻す。

昨日の夕刻、皇帝一行が馬車に乗り込む直前のことだ。


村の正門前では、帝国工兵――黒鴉の精鋭たちが、巨大な黒御影石の石碑を地面へと固定していた。


「……陛下。本当に、これを?」

御者台のベアトリクスが、控えめに問う。


「構わん」

ヴァレリアンは、窓越しにウルム村を見やった。


「あれはただの石ではない。余の『理』だ。――此処は、静かでなければならん」


それだけ言って、皇帝は口角を上げた。


「不可侵とは、剣を向けぬことではない。近づく意思そのものを折ることだ」


馬車が動き出す。


夕陽を受けて、双頭の鷲が鈍く輝いた。



そして現在。

ウルム村から数キロ離れた丘陵地帯。

そこには、アルベール失脚後の事後処理と、あわよくばウルム村の隙を突いて制圧しようと目論む、エルディナ王国の正規騎士団・偵察部隊の姿があった。


「……おい、あれを見ろ」


斥候の兵士が、望遠鏡を覗き込んだまま、震える声で隣の隊長を呼んだ。


「なんだ、騒がしい。追放者どもが白旗でも上げたか?」


「ち、違います! 門の前に……見たことのない石碑が……いや、あれは!」


隊長は望遠鏡を引ったくり、自ら覗き込んだ。

レンズ越しに映り込んだのは、朝日を反射して黒く輝く石碑と、そこに刻まれた黄金の双頭鷲。

隊長の顔から、瞬時に血の気が引いた。


「て、帝国の紋章……だと……!?」


カチャリ、と望遠鏡が手から滑り落ち、乾いた音を立てる。


「馬鹿な……なぜだ!? なぜ、こんな辺境の村に、皇帝直筆の不可侵条約碑があるんだ!?」


帝国の紋章。


それは大陸において、絶対的な力の象徴だ。


「た、隊長! どうしますか!? 上層部からは『隙を見て制圧せよ』と命令されていますが……」


部下の問いに、隊長は青ざめた顔で首を激しく横に振った。


「無理だ! あんなもの、触れるわけがないだろう! 撤退だ! すぐに王都へ報告しろ! 『ウルム村は、帝国の聖域と化した』とな!」


王国軍の斥候たちは、逃げるようにその場を去っていった。

彼らが去った後には、ただ夏の風が吹くだけの、静寂が残された。



「……ふぅ。どうやら、本当に誰も来なくなったようだな」


アシュランは、実験庭園の木陰に設置したハンモックの上で、ゆらゆらと揺られながら呟いた。

石碑が設置されてから三日。

村の周囲をうろついていた不審な影は一掃され、時折聞こえていた遠くの馬蹄の音も消え失せた。

文字通り、物理的な静寂が訪れていた。


「ええ、そうですわね師匠。リナちゃんが森の木々を通じて教えてくれましたけれど、街道の方にいた悪い気配の人たち、みんな蜘蛛の子を散らすように逃げていったそうですわ」


ハンモックの傍らで、エレノアが冷たい果実水を差し出してくる。

彼女の表情は晴れやかだ。聖女としての重荷を下ろし、一人の村人として、そしてアシュランの弟子として生きることを、誰に(はばか)ることなく肯定されたのだから無理もない。


「ふん。まあ、皇帝陛下の御威光というやつでしょう。物理法則とは異なりますが、『権力』という力場もまた、人間社会においては無視できないエネルギーを持つということです」


カインが、木陰のベンチで分厚い洋書を読みながら、呆れたように言った。

彼はこれから「技術顧問」として定期的に帝都へ報告書を送る義務を負ったわけだが、その顔に悲壮感はない。むしろ、帝国の最新情報を合法的に入手できるルートを手に入れ、研究者としては満更でもない様子だ。


「まあ、何にせよだ」


アシュランはハンモックから空を見上げた。

木の葉の間から差し込む木漏れ日が、優しく網膜を刺激する。

気温は聖樹と空調魔導具によって最適化され、聞こえてくるのは小鳥のさえずりと、遠くで働く村人たちの穏やかな喧騒だけ。


完璧な、スローライフの舞台。


「これでようやく、俺の安眠を妨げる邪魔者はいなくなった」


アシュランは目を閉じた。

求めていたのは、この静寂だ。

追放されたあの日から、ただひたすらに「快適さ」だけを求めて突き進んできた。

壁を作り、風呂を作り、作物を育て、迎撃兵器を配備した。

その全てが、この瞬間のためにあったのだと思えば、苦労も報われるというものだ。


だが。


「あ、師匠。そういえば、トマスさんが『難民の受け入れ区画、もうすぐ満杯になりそうです!』って言ってましたわよ」


エレノアが無邪気に報告してくる。


「む。……そういえば、ヘイム殿も言っていましたね。『最近、村の外から商人がひっきりなしに来て、宿屋が足りない』と。不可侵条約の噂を聞きつけた商会が、安全な交易ルートとしてこの村を使いたがっているようです」

カインもページを(めく)りながら追撃する。


「あとね、家主様! お水がちょっと足りないかも! 畑が増えすぎて、今のパイプじゃ水圧が落ちてるの!」

頭上の枝から、リナが顔を逆さまに出して言った。


閉じていた目を開けたアシュランは、少しだけ肩をすくめて笑った。


「……わかってるよ。まったく、静かになったと思ったら、今度は内側が騒がしくなってきやがった」


邪魔者は消えた。


だが、その代わりに、村は勝手に大きくなり始めている。人が集まり、物が動き、静寂は内側から擦り切れていく。


快適さとは、放っておけば壊れるものだ。これは、エントロピー増大則に抗う物理学者の宿命とも言える。


アシュランはハンモックから起き上がった。


「よし。昼寝は終わりだ。カイン、上水道の拡張計画を見直すぞ。ベルヌーイの定理を応用して、水圧を維持したまま分岐を増やす。エレノアは、商人たちの衛生管理だ。変な病気を持ち込まれたらたまらないからな」


「はい、マスター! すでに計算式は用意してあります!」


「お任せください、師匠! 検疫所を作りますわね!」


弟子たちが嬉々として動き出す。

アシュランは伸びをして、それからニヤリと笑った。


「忙しいな。……まあ、退屈するよりはマシか」


かつて王都を追われた無能な三男坊は、今や大陸の二大国が無視できない特異点の主となった。

だが、彼の望みは変わらない。

ただ、最高に快適な生活を送ること。

そのために、彼は今日も物理法則を武器に、世界という難題に立ち向かっていくのである。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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