第47話:皇帝と相互不可干渉の理
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ヴァレリアンの発した「世界の均衡を壊す存在」という言葉が、重い質量を持って室内に留まっていた。
皇帝は、琥珀色の茶が残る器を指先で弄びながら、アシュランを逃さぬよう、その双眸に力を込める。
「アシュラン。余は皇帝だ。欲したものは手に入れ、従わぬものは砕く。それが帝国の理だ。だが、先ほども言った通り、そなたを砕くにはその価値が惜しく、従わせるにはそなたという器が余の法には収まりきらん」
ヴァレリアンはそこで一度言葉を切り、カインとエレノアを順に見た。
「そなたらがこの村を『楽園』だと思い定めているのは理解した。だが、客観的に見よ。王国の追放者が、帝国の至宝である聖女と賢者を侍らせ、既存の魔法を児戯に変える技術を弄んでいるのだ。これを放置すれば、大陸の軍事バランスは数年と持たず崩壊する。そうなれば、余は帝国を守るために、全軍を以てここを更地にするしかなくなる」
「……それは、脅しですか?」
アシュランが静かに問い返す。その声に怯えはないが、わずかに眉をひそめていた。
「いいえ。脅しではなく、物理的な帰結を仰っているのですよね、陛下」
皇帝の代わりに答えたのはカインだった。彼は眼鏡のブリッジを震える指で押し上げ、冷や汗を流しながら続けた。
「マスター。陛下の仰る通りです。高度な技術が限定的な場所に集中すれば、そこは周囲の国家にとっての『特異点』となります。「特異点は、周囲との落差が大きすぎると、必ず摩擦を生みます。そして歴史というのは、摩擦を放置しない。――吸収するか、消し去るか。そのどちらかです」
アシュランはふう、と深くため息をついた。
「……やはり、そうなりますか。私はただ、自分の周囲数メトルのエントロピーを下げて、静かに昼寝ができる場所を作りたかっただけなのですが……。効率を求めた結果、外部との圧力差が生じ、余計な摩擦を引き起こすというのは、なんとも皮肉な計算ミスですね」
「ならば、アシュラン。その計算ミスを修正する案を提示せよ」
ヴァレリアンが天秤を揺らすように言った。
「余が何も得ずに引き下がれば、帝国の臣下は納得せん。そして、余もそなたという爆弾を、野放しにすることを自分自身に許さん。余が『勝ち』を確信できるだけの条件を出せ」
室内に張り詰めた緊張の中、アシュランは椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
数秒の沈黙。アシュランの頭の中で、物理定数を組み換えるような高速の演算が行われる。
やがて、彼は視線をヴァレリアンに戻した。その瞳には、一人の学者が結論を出す際の、冷徹なまでの透明感が宿っていた。
「……三つの条件を提示します。これで手を打ちませんか」
アシュランは人差し指を立てた。
「第一に、ウルム村の技術の『限定封印』です。私がここで開発した反射炉の構造や、マナ・エントロピー理論の核心部分は、帝国が許可しない限り他国――特にエルディナ王国へは一切提供しません。つまり、帝国がこの村を独占しない代わりに、敵国にも渡らないという『排他的中立』を約束します」
ヴァレリアンの眉がピクリと動いた。
「……戦略的独占の拒否か。面白い。続けよ」
「第二に、カイン・フォン・ローゼンベルクを通じた『非公式な技術顧問契約』です。カインは定期的に帝都へ戻り、私が許可した範囲での技術報告を行わせます。これは帝国にとって、最先端の知見を常に傍受しているという名分になります。実態がどうあれ、陛下は臣下に対し『ウルムは帝国の管理下にある情報源だ』と説明できるはずです」
「師匠……。それでは私は、一生マスターの使い走りと言うことに……?」
カインが情けない声を上げたが、アシュランはそれを無視して三本目の指を立てた。
「最後に、これが最も重要です。ウルム村と帝国は『相互不可干渉』の協定を結びます。帝国は当村に対し公的な干渉を行わず、また王国からの不当な干渉に対しても政治的な圧力をかける。その代わり、ウルム村は帝国の存亡に関わる重大な危機――例えば人理を脅かすような災害や戦争に限り、技術的な協力を惜しみません。いわば『緊急時限定の防衛協定』です」
アシュランは言葉を終え、皇帝を見据えた。
「陛下。あなたは『征服』という膨大なコストを払うことなく、大陸最高の技術に対する『優先権』と『敵対の排除』を手に入れる。これは帝国にとって、最も効率的な勝利ではないでしょうか」
長い沈黙が流れた。
ベアトリクスが息を呑み、カインはアシュランの提示した「政治的な力学」の美しさに呆然としている。
一方、エレノアは、誇らしげに豊かな胸を反らしていた。
「ふふん、流石はわたくしの師匠ですわ。衝突せず、呑み込まれず、それでも逃げない……。それが師匠の言う『秩序』なのですもの」
彼女はアシュランの言葉の意味を、彼女なりの「聖女的解釈」で全肯定していた。
ヴァレリアンは、じっとアシュランを見つめていた。
やがて、彼は低く笑い、再び茶を一口飲んだ。
「……カインを通じた報告、か。実態はそなたの機嫌を伺い、残飯を分けてもらうだけのようなものだが……。なるほど、『緊急時の防衛協定』という言葉は重いな。帝国軍にアシュランの知恵が加わると公言できれば、周辺諸国に対するこれ以上の牽制はない」
ヴァレリアンは立ち上がった。
「よかろう。その天秤、受け入れよう。ウルム村を、帝国とも王国とも異なる、独立した『特異点』として認める。公式な使節は送らん。だが、そなたに何かあれば帝国が動く。……それを不干渉の証とせよ」
「……助かります。これでようやく、昼寝に戻れます」
アシュランが心の底から安堵したように息を吐く。
だが、ヴァレリアンは去り際に、アシュランの肩に手を置き、その耳元で低く囁いた。
「アシュラン。そなたは賢明だが、一つだけ勘違いをしているぞ」
「……何のことでしょうか」
「そなたは『昼寝のために摩擦を減らした』と言ったが。摩擦を失った平原で、唯一立ち止まっている巨岩がどう見えるか。……そなたが輝けば輝くほど、世界はそなたを放っておかなくなる。「そなたは今日、自由を得たのではない。楽園を守るために、世界という盤面の“王”になることを、自ら選んだのだ」
皇帝の言葉が、アシュランの胸に重く突き刺さった。
皇帝一行が去った後、村には夕闇が降りてきていた。
広場からは村人たちの歓声が聞こえる。帝国皇帝を追い返した、自分たちの勝利を祝う声だ。
だが、アシュランは一人、迎賓館のバルコニーに立ち、赤く染まる村の景色を見下ろしていた。
「……師匠? どうされましたの?」
エレノアが不思議そうに近づいてくる。その後ろには、まだ冷や汗を拭っているカインの姿もある。
「マスター。これ、大変なことですよ。陛下が不干渉を約束したということは、事実上、この村はどの国家の法も及ばない『独立自治区』になったということです。明日からは、王国からも帝国からも、非公式な視線が山ほど注がれることになります。通商の合意も出ましたし、商隊やスパイがひっきりなしに来るでしょうね」
カインの言葉に、アシュランは額を押さえた。
「……あぁ、わかってる。快適にするために防壁を作り、交渉を有利にするために技術を磨いた。その結果、俺はこの村を『守らなければならない責任者』になってしまったわけだ。……逃げ場が、なくなったかもしれないな」
アシュランは、自らの手を見つめた。
物理学を使い、不自由な世界を合理化しようとした結果、自分自身がこの村という巨大なシステムの、代替不可能な心臓部になってしまった。
自分が止まれば、この村の平穏も、エレノアの健康も、カインの未来も、すべてが物理的に崩壊する。
「……俺は、また面倒な立場になってしまったな……。もう、ただの昼寝好きの追放者ではいられないというわけか」
アシュランの独白は、夜風に溶けて消えた。
だが、その瞳には、諦めではなく、自分が創り出した「秩序」を最後まで管理し抜くという、管理者としての静かな覚悟が宿っていた。
こうして、ウルム村は地図上には存在しない「独立領」としての産声を上げた。
物理学者アシュランの、本当の意味での「快適なスローライフ」を賭けた戦いは、ここから新たな章へと突入するのである。
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