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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第3章 不可侵と均衡

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第46話:皇帝と合理の天秤

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

石造りの建物に響き渡っていた皇帝ヴァレリアンの轟笑が、潮が引くように収まった。

笑いの余韻が消えた室内には、先ほどまでとは質の異なる、薄氷を踏むような冷ややかな静寂が降り積もっている。


ヴァレリアンは椅子の背もたれに深く体を預け、目尻に浮かんだわずかな涙を指先で拭った。その瞳には、すでに先ほどまでの愉快そうな光はなく、獲物の急所を見極める猛獣のような、鋭く冷えた光が宿っていた。


室内の空気が、目に見えぬ重圧となってアシュランを包み込む。

だが、その中心に立つ本人は、眉一つ動かさなかった。手持ち無沙汰そうに指先を眺め、ふと思い出したように視線を上げる。


「……失礼。話を始める前に、茶を淹れさせましょう。陛下も遠路、喉が渇いたでしょうから」


大陸の覇者を前にした言葉としては、あまりにも日常的だった。皇帝を畏怖すべき象徴としてではなく、ただの「客」として扱うその自然な振る舞いに、カインは心臓が跳ね上がるのを感じた。


「エレノア、先日収穫した薬草を」


「はい、師匠。お任せくださいませ」


エレノアは誇らしげに胸を張り、アシュランに一礼すると、室内の隅に設えられた作業台へと向かった。

その背に、帝国の暗部『黒鴉』を統べるベアトリクスの視線が突き刺さった。

毒見――それも、失敗すれば即座に斬り伏せる覚悟を孕んだ視線だ。

だが、ヴァレリアンは制止しない。

彼は無言で、エレノアの指先の動きを追っていた。それは信頼でも油断でもない。アシュランという男が、どのような「体系」で物事を動かしているのかを測るための、冷徹な観察であった。


ほどなく、茶が差し出される。茶器の中の液体は、濁りのない澄んだ琥珀色。立ち上る香りは、薬草特有の刺激が削ぎ落とされ、深い森の朝を思わせる静かな清涼感を湛えている。湯気は穏やかで、熱すぎず、冷めすぎず――制御された温度が、触れずとも伝わってきた。


ヴァレリアンは、迷いなく茶器を手に取り、一口含む。

喉を通る瞬間の温度、舌の上で広がる苦味の抑制、そして鼻腔を抜ける澄んだ余韻。

表情は、ほとんど動かない。だが、二口目を嚥下した後、低く、重みのある声が落ちた。


「……また一段、腕を上げたな。エレノア」


その評価は、茶の味に向けられたものではなかった。

エレノアは一瞬だけ目を見開き、すぐに背筋を正して答えた。


「ありがとうございます、陛下。ですが、これはわたくしの力だけではありません。師匠の教えに従って、土と水を調えましたの」


「それだけではありませんよ」

アシュランが、淡々と補足する。


「薬草の有効成分の中には、高温で抽出すると苦味や微弱な毒性に変質するものがあります。必要な成分だけを残すため、抽出温度を正確に二度下げました」


二度。

その極めて具体的な数値に、ヴァレリアンの指先がわずかに止まる。


魔術の世界において、お茶やポーションの「出来」は、淹れる者の魔力や「感覚」、あるいは精霊との相性といった抽象的な言葉で語られる。だが、そこには一切の神秘が介在していなかった。

温度を二度下げる。その物理的な操作によって、誰がやっても同じ結果が得られる。

すなわち、それは――再現性があるということだ。


(属人技術ではない。この男が定めた『法』に従えば、誰でも同じ結果に至る……これは、魔法ではない)


ヴァレリアンの内面で、評価が静かに切り替わる。

驚異から――危険へ。

体系化された力は、個人を懐柔しても止められない。一度広まれば、国家の枠組みすら侵食する。


皇帝ヴァレリアンが、静かに茶器を置いた。

カチャリ、という小さな陶器の音が、室内の空気を一瞬で凍りつかせる。


笑みは完全に消えていた。そこにあるのは、何万もの兵を動かし、一国の興亡を冷徹に決断してきた、絶対者の(かお)であった。


ベアトリクスの殺気が、一瞬だけ、だが明確にアシュランの頸動脈を捉えた。カインは言葉を失い、エレノアは初めて、事態の重さを悟って息を呑んだ。


「――理解した」


ヴァレリアンが、重々しく口を開く。


「そなたは、単に『使える』という次元の人間ではないな、アシュラン。……放置すれば、そなたは世界の均衡を壊す側の人間だ。」

皇帝の視線は、アシュランという個人を越え、その背後に広がる未来を見据えていた。

「そなたが呼吸をするだけで、既存の価値観は塗り替えられていく」


王国の正規軍を無傷で退け、精霊王を住環境の一部に組み込み、聖女と賢者を合理の僕へと変えた男。

そんな男を帝国の枠に嵌めることなど、もはや不可能だと、皇帝の理性が告げていた。檻に入れるには、この男が持ち込んだ「真理」はあまりにも巨大すぎる。


ヴァレリアンは、アシュランの瞳をじっと見つめ返した。

そこには、勧誘を断られたことへの怒りも、技術を独占できないことへの焦りもなかった。あるのは、巨大な質量を前にした際の、冷静な計算だけだ。


征服すれば、この男は自ら壊れるだろう。

勧誘すれば、この男の自由という名の合理が損なわれる。


ならば、帝国が取るべき道は――。


ヴァレリアンの視線が、アシュランの隣に立つカインとエレノアを、そして窓の外に広がる「秩序(アシャ)」に満ちたウルム村を、ゆっくりと量るように動いた。


その瞬間、皇帝ヴァレリアンは征服でも勧誘でもない、まったく別の選択肢を天秤の上に載せた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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