第136話 聖女と導線
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朝の礼拝後。
広場の一角にある治療小屋と水場の周辺には、いつもより早い時間から人が集まり始めていた。
行列ってのは、必要な場所にできるとは限らない。人の期待が集まったところに、勝手にできるものだ。
俺は迎賓館のバルコニーから、コーヒーを片手に眼下の様子を眺めていた。
並んでいるのは怪我人ばかりじゃなかった。不安そうな母親もいれば、出立前らしい家族連れもいる。呆然と立ち尽くしている老人までいた。
急いで治療が必要な者は、一目見ればわかる。今あそこにいる大半は、そうじゃない。
「聖女様に見ていただければ、気持ちが落ち着くんです」
「ほんの一言でよいのです」
「司祭様もおられる今なら、きっと……」
村人たちは、善意と、少し浮ついた期待を表情に出したまま並んでいた。
エレノアはいつものように立ち回りながら、擦り傷の子供を見てやり、不安げな母親に温かい白湯を渡し、少しだけその手を握ってやっていた。
「あらまあ、わたくしはただの衛生組合長ですのよ?」
エレノアは冗談めかして笑い、「順番にまいりますから、慌てずにお待ちくださいませね」と声をかける。
だが、根が優しいエレノアは、相手の不安を無下にできず、つい一言余計に添えてしまう。
彼女は何も間違っていない。むしろ、正しく、優しい。
だからこそ、そのせいで列が伸びていく。
◇
「……お急ぎでない方は、まず休息所でお待ちください」
最初に動いたのは、ロッテだった。
彼女は水場と治療小屋を繋ぐ通路に立ち、柔らかく、だが凜とした声で整理をしていた。
「体調の確認から順にお通しします。ご相談は、その後になります。そちらの方、通路を空けてください」
だが、列はなかなか動かない。怒って押してくるわけでもなければ、無理を通そうとしているわけでもない。だから余計に動かしにくい。
皆、善意と期待で並んでいるだけで、自分たちが通路を塞いでいるとは思っていなかった。
治療小屋前に人が溢れ、水場まで人がはみ出す。
本来なら休息所で受けるはずのものまでが、この狭い治療小屋にまで流れ込んでいた。
「……やっかいだな」
見回りに来ていたロイルが、舌打ち混じりに低く呟いた。
「これ、いざって時に通れねえぞ」
◇
リナが眉を寄せて、エレノアの袖を引いた。
「ごちゃごちゃしてる」
「分かっていますわ」
「水の子、やりにくいって」
「火の子も、落ち着かない」
言われるまでもないことだった。水場の端へ退いた水の精霊たちがいる。煮沸釜の炎も、いつもより落ち着きがない。風の精霊まで、人の熱気にあてられてざわついていた。
エレノアは内心で焦りを感じながら、それでも次の人へ向き直った。
その時だった。
「どいてくれ! 熱湯が……!」
男の声が、人波を割った。
「道を、道を開けてくれ!」
父親が叫ぶが、治療小屋への通路は聖女の言葉を待つ列で隙間なく詰まっていた。人々は驚いて道を譲ろうとするが、密集しすぎてうまく動けない。
その場の空気が、一気に固まった。
「道を開けてくださいませ!」
エレノアの声が、周囲の空気を断ち切った。
「今はこの子が先ですわ! ロッテ、通路を確保して! ロイル、後ろの方々を下げてくださいませ!」
エレノアは躊躇なく人の列を割り、父親が子供を抱えたまま治療小屋へ駆け込む。エレノアが後を追いながら、そのまま処置台へ向かった。
「お水を! いえ、冷たすぎては駄目ですの、常温の濡れ布を急いで!」
エレノアは叫びながら、精霊たちにも声を飛ばした。
「火の子たち、静かに! 今は煮立ちすぎてはなりませんの!」
素早く状態を確認する。
「そこは冷やしすぎるな。癒着するぞ」
俺は処置台の横に歩み寄り、必要最小限の指示だけを出した。
「布を替えろ」
「はい!」
エレノアは余計なことなど一切口にせず、濡れ布を当て、火傷の深さを確認し、ひたすらに手を動かした。
「いい、そのまま続けろ。初期の冷却が勝負だ」
俺の言葉に、エレノアは無言で頷き、汗だくのまま子供に張りついていた。
今のエレノアは、祀られる側じゃなく、ただ目の前の命をつなぐために動いていた。
◇
子供が落ち着いた頃には、外の人波も静まっていた。
父親が涙を拭いながら、何度も頭を下げた。
「ありがとうございます、ありがとうございます……」
列にいた人たちは、誰も言葉を発していなかった。
自分たちが通路を塞いでいたことも、優先順位を見誤っていたことも、もう誰の目にも分かっていた。
エレノアが、注意することはなかった。ただ、振り返って静かに言った。
「お祈りやお言葉を軽んじているわけではありませんの」
エレノアの声は、広場のざわめきの中でもよく通った。
「けれど、それより先に、手を動かさなければならない時もございますわ。わたくしは、今、そのためにここにおりますの」
少し離れた広場の端で、バルテルは随員たちとともに、その一部始終を黙って見ていた。
口を挟むことも、近づいてくるわけでもない。ただ、汗だくで現場を回すエレノアを見ている。
祭られる聖女ではなく、目の前の命を選ぶ。
その在り方が、彼らには厄介に映ったはずだ。
◇
騒ぎが収まり、治療小屋の前の列がすっかりなくなった後のこと。
空になった薬缶を抱えたまま、水場の縁にへたり込んだエレノアは、さすがにひどく疲れた顔をしていた。
「……わたくし、聖女らしくはありませんでしたわね」
俺は壁から背中を離し、答えた。
「単に奇跡を配るのが聖女ってんなら、この村じゃ邪魔なだけだ」
「……」
「今日のお前は、ちゃんと仕事してただろ」
エレノアは少し間を置いて、それからかすかに笑った。
安堵でも納得でもない。まだ揺れてはいたが、少しだけ前を向いた表情だった。
俺はそれ以上、何かを諭すようなことは言わなかった。
祈りの列を崩してでも、あいつは目の前の一人を選んだ。
たぶん、答えがあるとしたらああいうところなんだろう。エレノアも、そう感じたはずだ。
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