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追放物理学者の快適辺境ライフ 〜辺境の暮らしを快適化していただけなのに、なぜか聖女と賢者が弟子入り志願してきた〜  作者: しいたけ
第9章 自治と干渉

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第135話 肩書と居場所

お読みいただき、ありがとうございます。

少しでも楽しんでいただけたら、幸いです。

朝の礼拝が終わったあと、エレノアの一日は、広場の外れにある水場や治療小屋から始まる。


「はい、指の間もしっかりですわよ。そう、よくできました」


治療小屋の手前に設えた手洗い台の前で、エレノアは小さな男の子の両手を取り、石鹸をよく泡立てて洗わせた。膝に擦り傷を作っていた子だった。

傷そのものより、汚れた手で触る方がまずい。そういうことも、この村の子供たちは少しずつ覚えてきていた。


「消毒は痛い?」


「……ちょっとだけ」


「すぐ済みますの。我慢できたら、偉いですわ」


男の子は唇を引き結んで頷いた。

エレノアが薄めた消毒液を浸した布を傷口へ当てる間、子供は声を出さなかった。


「偉かったですわ」


包帯を巻き終えると、母親が深く頭を下げた。


「聖女様がいてくださると、本当に安心できます」


「あらまあ、わたくしは衛生組合長ですのよ?」

エレノアはいつものように笑って返した。


だが、その言葉を口にした瞬間、エレノアの表情がほんのわずかに止まった。少し離れて見ていた俺にも、それは分かった。


「聖女」という言葉。

村人に悪気があるわけじゃない。感謝と敬意から出た呼び方だ。

だが、その肩書は時々こうして、彼女の足元に影を落とす。


エレノアはすぐにいつもどおりの明るい顔に戻り、立ち上がって煮沸釜の様子を確かめに水場へ向かった。

すると、釜の縁で火がわずかに揺れた。エレノアにしか見えない火の精霊どもが、少し張り切りすぎているらしい。


「だめですわ、火の子たち。今日は煮立ちすぎですの」


彼女は、泥だらけの長靴のまま釜の前に立ち、目に見えない精霊たちに向かって腰に手を当てて説教を始めた。


「師匠の釜は優秀ですけれど、皆様のお口まで煮えてしまいますと困りますもの」


エレノアがそう言うと、釜の底で猛っていた熱がすっと落ち着き、代わりに水の精霊が、ちゃぷんと音を立てた。


エレノアだけがその変化に気づいて、かすかに目を細める。


傍らをふよふよと漂うリナが、「エレノア、むずかしい顔」と言った。


「そんなことはありませんわ」


「してる」


「……していませんの」


エレノアは笑って、眠れていない様子の母親へ白湯の入った椀を渡しに行った。


「少し温まってくださいませ。お子さんが眠ったら、ちゃんとあなたも横になること。それもお仕事ですわよ」


母親が、目を赤くしながら椀を受け取る。


そんな朝が、今は毎日のように続いていた。



「……見事ですな、エレノア殿」


不意に、背後から穏やかな声がかけられた。

振り返ると、そこにはバルテル司祭が立っていた。


側近も護衛も連れていない。礼拝の空気をそのままつれて歩いてきたような、静かな佇まいだった。


「お見苦しいところをお見せしましたわ」


「いいえ」

バルテルは穏やかに首を振った。

「祭壇の前で祈るばかりが、人を支えることではない。そうお考えなのでしょう」


その言い方には、エレノアの働きを頭から否定する響きはなかった。むしろ、ちゃんと見た上で言っているように聞こえた。


エレノアは少し戸惑いながらも、手に持っていた木桶を置き、軽く一礼した。


「……困っている方がいらっしゃれば、お手伝いするだけですわ」


「そうでしょうな」

バルテルはゆっくりと歩み寄り、清潔に保たれた水場と、そこで一息つく村人たちを見渡した。


「それを卑しい仕事だと申し上げるつもりはありません」


「……」


「むしろ尊い」


「では、」


「ですが、それでも惜しいのです」

エレノアの言葉が、静かに遮られた。


「帝国で聖女と呼ばれたほどの御力を持つあなたが、その比類なき御力を、このような形にまで細かく砕いてお使いになっている。……尊いものほど、どこに置かれるかで意味が変わるものです」


バルテルの物言いは、エレノアの仕事そのものを見下しているわけではなかった。

だからこそ厄介だった。


「貴女は今、その御力を誰のもとで、何のためにお使いなのですかな」


その静かな問いに、エレノアは一瞬、言葉に詰まった。


帝国の聖女。村の衛生組合長。師匠の弟子。精霊が見える自分。

どれも自分なのに、まだ一つにはなっていない。そんな気がした。


バルテルは答えを急かさず、ただ静かに彼女を見つめている。


エレノアは少しだけ目を伏せ、やがて顔を上げると、今の彼女が持つ飾らない本音だけを口にした。

「……必要としてくださる方が、ここにおりますもの」


それだけでは足りない気がして、エレノアは言葉を継いだ。

「祭壇の前でなくても、手を洗って、お茶を飲んで、やっと一息つける方もおりますの。わたくしは、そういう方のお役に立ちたいだけですわ」


バルテルはわずかに微笑んだ。

「……なるほど」


彼は、それ以上、言い返すことも揺さぶってくることもなかった。


「今は、ということですかな」


ただその一言だけを静かに置き、バルテルは一礼して背を向けた。


エレノアは、去っていくバルテルの背中をじっと見送っていた。

否定されたわけではない。だが、「今は」という一言だけが引っかかったまま残った。


その後ろ姿が見えなくなると、エレノアは仕事に戻った。

ただ、薬缶を棚へ戻すとき、一度だけ置き場所を間違えた。


リナが違うと指摘してくれなければ、気づかないままだったかもしれない。


水の精霊が水場の端へ寄ってきた。いつもならすぐに笑うところなのに、その反応が今日は半拍遅れた。


俺は少し離れた場所から、その様子をただ黙って見ていた。


バルテルの問いは、誰かが代わりに答えてやれるものじゃない。

エレノア自身が、自分は何者なのかを自分の言葉で掴まない限り、あの引っかかりは消えない。



夕方、水場の片付けをしながら、エレノアはぽつりと漏らした。


「聖女って、何なのでしょうね……」


傍らのリナが、ふわりと浮かんだまま答えた。


「エレノアは、エレノア」


リナはエレノアの鼻先を小さな指でつんと突いた。


「泣いてるの、放っておかない。あったかくする。それだけ」


エレノアは一瞬きょとんとして、それから困ったように苦く笑った。


「……それでは、答えになっておりませんわ」


そう言いながらも、彼女の表情からは先ほどの強張りが少しだけ抜けていた。


俺は壁に寄りかかったまま、何も言わずに目を閉じた。

聖女という肩書は、ずっと前からあいつについて回っていた。だが、その意味を自分の言葉で考える暇なんて、たぶんなかったのだろう。


泥のついた長靴の先を見つめたまま、エレノアはしばらく動かなかった。


夕方の水場には、答えの出ない問いだけが静かに残っていた。

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます!

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