第135話 肩書と居場所
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朝の礼拝が終わったあと、エレノアの一日は、広場の外れにある水場や治療小屋から始まる。
「はい、指の間もしっかりですわよ。そう、よくできました」
治療小屋の手前に設えた手洗い台の前で、エレノアは小さな男の子の両手を取り、石鹸をよく泡立てて洗わせた。膝に擦り傷を作っていた子だった。
傷そのものより、汚れた手で触る方がまずい。そういうことも、この村の子供たちは少しずつ覚えてきていた。
「消毒は痛い?」
「……ちょっとだけ」
「すぐ済みますの。我慢できたら、偉いですわ」
男の子は唇を引き結んで頷いた。
エレノアが薄めた消毒液を浸した布を傷口へ当てる間、子供は声を出さなかった。
「偉かったですわ」
包帯を巻き終えると、母親が深く頭を下げた。
「聖女様がいてくださると、本当に安心できます」
「あらまあ、わたくしは衛生組合長ですのよ?」
エレノアはいつものように笑って返した。
だが、その言葉を口にした瞬間、エレノアの表情がほんのわずかに止まった。少し離れて見ていた俺にも、それは分かった。
「聖女」という言葉。
村人に悪気があるわけじゃない。感謝と敬意から出た呼び方だ。
だが、その肩書は時々こうして、彼女の足元に影を落とす。
エレノアはすぐにいつもどおりの明るい顔に戻り、立ち上がって煮沸釜の様子を確かめに水場へ向かった。
すると、釜の縁で火がわずかに揺れた。エレノアにしか見えない火の精霊どもが、少し張り切りすぎているらしい。
「だめですわ、火の子たち。今日は煮立ちすぎですの」
彼女は、泥だらけの長靴のまま釜の前に立ち、目に見えない精霊たちに向かって腰に手を当てて説教を始めた。
「師匠の釜は優秀ですけれど、皆様のお口まで煮えてしまいますと困りますもの」
エレノアがそう言うと、釜の底で猛っていた熱がすっと落ち着き、代わりに水の精霊が、ちゃぷんと音を立てた。
エレノアだけがその変化に気づいて、かすかに目を細める。
傍らをふよふよと漂うリナが、「エレノア、むずかしい顔」と言った。
「そんなことはありませんわ」
「してる」
「……していませんの」
エレノアは笑って、眠れていない様子の母親へ白湯の入った椀を渡しに行った。
「少し温まってくださいませ。お子さんが眠ったら、ちゃんとあなたも横になること。それもお仕事ですわよ」
母親が、目を赤くしながら椀を受け取る。
そんな朝が、今は毎日のように続いていた。
◇
「……見事ですな、エレノア殿」
不意に、背後から穏やかな声がかけられた。
振り返ると、そこにはバルテル司祭が立っていた。
側近も護衛も連れていない。礼拝の空気をそのままつれて歩いてきたような、静かな佇まいだった。
「お見苦しいところをお見せしましたわ」
「いいえ」
バルテルは穏やかに首を振った。
「祭壇の前で祈るばかりが、人を支えることではない。そうお考えなのでしょう」
その言い方には、エレノアの働きを頭から否定する響きはなかった。むしろ、ちゃんと見た上で言っているように聞こえた。
エレノアは少し戸惑いながらも、手に持っていた木桶を置き、軽く一礼した。
「……困っている方がいらっしゃれば、お手伝いするだけですわ」
「そうでしょうな」
バルテルはゆっくりと歩み寄り、清潔に保たれた水場と、そこで一息つく村人たちを見渡した。
「それを卑しい仕事だと申し上げるつもりはありません」
「……」
「むしろ尊い」
「では、」
「ですが、それでも惜しいのです」
エレノアの言葉が、静かに遮られた。
「帝国で聖女と呼ばれたほどの御力を持つあなたが、その比類なき御力を、このような形にまで細かく砕いてお使いになっている。……尊いものほど、どこに置かれるかで意味が変わるものです」
バルテルの物言いは、エレノアの仕事そのものを見下しているわけではなかった。
だからこそ厄介だった。
「貴女は今、その御力を誰のもとで、何のためにお使いなのですかな」
その静かな問いに、エレノアは一瞬、言葉に詰まった。
帝国の聖女。村の衛生組合長。師匠の弟子。精霊が見える自分。
どれも自分なのに、まだ一つにはなっていない。そんな気がした。
バルテルは答えを急かさず、ただ静かに彼女を見つめている。
エレノアは少しだけ目を伏せ、やがて顔を上げると、今の彼女が持つ飾らない本音だけを口にした。
「……必要としてくださる方が、ここにおりますもの」
それだけでは足りない気がして、エレノアは言葉を継いだ。
「祭壇の前でなくても、手を洗って、お茶を飲んで、やっと一息つける方もおりますの。わたくしは、そういう方のお役に立ちたいだけですわ」
バルテルはわずかに微笑んだ。
「……なるほど」
彼は、それ以上、言い返すことも揺さぶってくることもなかった。
「今は、ということですかな」
ただその一言だけを静かに置き、バルテルは一礼して背を向けた。
エレノアは、去っていくバルテルの背中をじっと見送っていた。
否定されたわけではない。だが、「今は」という一言だけが引っかかったまま残った。
その後ろ姿が見えなくなると、エレノアは仕事に戻った。
ただ、薬缶を棚へ戻すとき、一度だけ置き場所を間違えた。
リナが違うと指摘してくれなければ、気づかないままだったかもしれない。
水の精霊が水場の端へ寄ってきた。いつもならすぐに笑うところなのに、その反応が今日は半拍遅れた。
俺は少し離れた場所から、その様子をただ黙って見ていた。
バルテルの問いは、誰かが代わりに答えてやれるものじゃない。
エレノア自身が、自分は何者なのかを自分の言葉で掴まない限り、あの引っかかりは消えない。
◇
夕方、水場の片付けをしながら、エレノアはぽつりと漏らした。
「聖女って、何なのでしょうね……」
傍らのリナが、ふわりと浮かんだまま答えた。
「エレノアは、エレノア」
リナはエレノアの鼻先を小さな指でつんと突いた。
「泣いてるの、放っておかない。あったかくする。それだけ」
エレノアは一瞬きょとんとして、それから困ったように苦く笑った。
「……それでは、答えになっておりませんわ」
そう言いながらも、彼女の表情からは先ほどの強張りが少しだけ抜けていた。
俺は壁に寄りかかったまま、何も言わずに目を閉じた。
聖女という肩書は、ずっと前からあいつについて回っていた。だが、その意味を自分の言葉で考える暇なんて、たぶんなかったのだろう。
泥のついた長靴の先を見つめたまま、エレノアはしばらく動かなかった。
夕方の水場には、答えの出ない問いだけが静かに残っていた。
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