ひと時
「嘉韻!」
その日の朝早く、維月が、月の結界を通って飛んで降りて来た。待っていた嘉韻は、維月に向かって両手を差し伸べた。
「維月…。」
維月が、嘉韻の胸に飛び込んだ。嘉韻は維月を抱き締めて、その気を感じながら言った。
「よう帰ったの。待っておった。」
「お待たせしてしまったわ…。」
後ろから来た十六夜が、その様子を見てため息を付いた。
「迎えに行ってやったのはオレだぞ?ま、向こうでもオレに飛びついて来てたけどよ。」と、苦笑して踵を返した。「ま、何にしても約束だ。三日後には返せよ?じゃあな。」
「世話を掛けたの。」
嘉韻がまるで維月が自分だけのものであるように言うのに、十六夜は呆れたように笑って、宮のほうへ飛んで行った。嘉韻は維月に口付けた。
「待ちかねたぞ。さあ、屋敷へ戻ろうぞ。」
維月は微笑んだ。
「ええ。変わったことはなかった?」
嘉韻は維月を抱き上げて飛びながら、言った。
「そうよの、今日は天気も良いし、昼から明人と慎吾の家族も共に、湖へ出掛けようと言うておるのだ。慎也が遊びたい盛りでの。結朋も困っておるのだ。」
維月は笑った。
「まだ5歳でしょう?私があれぐらいの時は、宮の中でも飛んで壁にぶつかったら危ないと、父に叱られたわ。十六夜がいつも心配そうに付いて回っていたっけ…。」
嘉韻は笑った。
「主がお転婆であったのは知っておるぞ。噂が軍のほうにまで来ておったものよ。そのうち宮では手に負えなくなって、我ら軍神が月の子守りを言いつけられるのではと我ら気が気でなかったからの。」
維月は膨れた顔をした。
「まあ、嘉韻!そこまでじゃなかったわよ?十六夜ほど力もなかったもの。」
嘉韻はフッと笑って維月の額に唇を寄せた。
「良い。主がそんな気質であるから、我らは出逢ったようなもの。もう、我の金髪は珍しゅうないか?」
維月は、記憶のない精神的に幼い自分が、釣竿を放り出して嘉韻の金髪を見ていたことを思い出して赤くなった。
「あの時は…まだ子供で。私ったら、本当に恥ずかしいわ。お父様もお母様も、育てかた間違ったと思うの。前世の記憶がなかったら、今でもあんな感じだったわ。困ったこと…。」
嘉韻は、屋敷の前に舞い降りて、戸を気で開けながら言った。
「どちらも主よ。我はどっちでも良い。」と、屋敷へと入って行きながら言った。「さあ、主の屋敷ぞ?まずは昼まで、我とゆっくり過ごさぬか。念で主の声を聞くだけで我慢しておったのだ…まさか日が高いなどとは言うまいな。」
維月は困ったように微笑んだ。
「まあ嘉韻…困ったかた…。」
そう言いながらも、維月は自分を抱き上げている嘉韻に口付けた。嘉韻は歓喜してそれを受け、そのまま奥の部屋へと入って行った。
明維が、晃維と共に再び月の宮を訪れていた。その明維が、先ほどから落ち着かない。どうしたのかと、蒼が声を掛けた。
「どうした、明維?何か気になるのか。」
明維は、ハッとしたように蒼を見た。
「いや…」と、外を伺う。「何やら、その、珍しい気がすると思うて。」
蒼はあ、と思った。母さんが帰っているのだ。明維も晃維も、母さんが転生しているのを知らない。まだ話していないからだ。おそらく、明維は母さんの気を感じて、落ち着かないのだろう。
「…そうだな。なあ明維、三日後にもう一度来い。そうしたら、話すことがある。」
明維はじっと蒼を見た。
「どういうことぞ?我は…思えば、新しい月の、十六夜のほうには会ったが、女のほうには会っておらぬ。会いたいと思うが、今では駄目なのか。」
蒼は首を振った。
「三日後だ。いろいろ忙しくてな。月だってやることがある。わかったの。」
明維は、まだ何か言おうとしたが、頷いた。きっと、母さんの気を感じて、それを新しい月の女だと思ったのだろう。間違ってはいないが、それが母さんの転生した姿だとは思っていない。ただ、きっとその月に会いたくて仕方がないのだ。明維は、まだ母さんの面影を探しているのか…。
「では、我は帰る。こやつがここですることがあると申すから、我は砦を放って置けなくてここに長居出来ぬのだ。」と、晃維を見た。「我は三日後ここへ来るゆえ。」
晃維は頷いた。
「はい、兄上。それまでに用を済ませておきまする。」
明維は、慌ただしく帰って行った。蒼はため息を付いた。明維はいいヤツなんだが、維心様のああ言う所を極端にしたような感じで、扱いに困る時がある。だが、本当に素直なんだが。
晃維を見て、蒼は言った。
「明維は相変わらずよの。主は本当によく長年一緒に居るものよ。」
晃維は笑った。
「幼い頃からであるから、扱いには慣れておる。あれで案外、素直で真っ直ぐであるのだ。」
それは知っているが。蒼は思いながら、立ち上がって出て行く晃維を見送った。
「晃維様!」
回廊を歩いていると、自分を呼ぶ声がした。晃維は振り返った。
「和奏。」
和奏は、蒼と桂の間の子で、黒髪に澄んだ茶色のような緑のような瞳の皇女だった。桂に似て大層美しかったが、蒼や維月に似て明るく快活だった。晃維は和奏を、幼い頃から知っていた。
「いつもイチゴのタルトをありがとうございまする。また、治癒の対へ行かれるのですか?」
晃維は頷いた。
「もう少しで治癒の仙術がまとめ上がるのだ。一日ほどあればの。ただ、我はどうも治癒の術には向かぬようで…うまく行かぬ。そこが気になるだけなのだ。」
和奏は、首を傾げた。
「でも、少しはお時間がありまするか?我は、晃維様に見せたいものがありまする。」
晃維は少し迷ったが、明維が来るまでまだ三日あるのだ。少しぐらいいいだろう。
「良い。どこへ参る?」
和奏は嬉しそうに微笑んだ。
「あちらへ。」
和奏が飛んで行こうとすると、晃維は和奏をスッと抱き上げた。
「こ、晃維様?!」
和奏が真っ赤になって言う。晃維は笑った。
「何を赤くなっておる。幼い頃より、あちこちへ抱いて参れとうるさかったではないか。」
和奏は、怒って言った。
「もう!我はもう子供ではありませぬ!」
晃維は笑って、和奏を連れてそのまま庭へ出て飛んで行った。
和奏が晃維を連れて行った先は、湖の向こうにある森だった。ここは、誰もが散策するのに使っておる場所と聞く。現に、辺りにはちらほらと神達の気がした。
「あの、奥ですの。」
和奏が指差す先へと行くと、そこには小さな穴が開いていた。なんだろうと思っていると、和奏は晃維の腕から離れて、そちらへそっと歩いて行った。
「おいで。ご飯持って来たのよ。」
中から、ウサギが跳ねて出て来た。晃維は微笑した。そういえば、母もこうして小さな生き物が好きだった。だが、龍の宮ではこんな生き物は飼えない。我らの本性を気取って、皆怯えて死んでしまうからだ。なので、そっと父の目を盗んでは、母は近くの森へ自分達を連れて出て行った。まだ小龍だった自分達のことは、動物達もそれほど怖がらなかったからだ。
晃維は離れて立っていると、和奏が言った。
「晃維様?こちらへ来られませぬか。」
晃維が首を振ろうとした時、ウサギが物凄い速さで巣穴へと飛び込んで行った。
「あら?まあどうしたの?おいで、まだあるのよ?」
晃維が、首を振った。
「すまぬの。我が龍だからぞ。」和奏がびっくりして振り返った。晃維は続けた。「小さな動物は我らの本性を見る。ゆえ、怖がるのだ。我は特に大きな龍であるから。」
和奏は、まじまじと晃維を見た。確かに、龍の王族はとても大きな龍だと聞いた。晃維様もそうなのか。
「まあ…でも、晃維様はこんなに優しい気であられるのに。」
晃維は驚いた。その言葉…。
「主、我の母と会うたことはないの?」
和奏はきょとんとした。
「え?前の龍王妃様ですか?いえ…まだ我が赤子の時に亡くなられたので…。」
ならばこれは和奏の言葉。しかし、我はそれを幼い頃に言われたことがある。
『まあ…大丈夫よ、晃維。あなたはとても、優しい気であるから。私はこの気がとても好きよ?私に似ているのかも…月の気の方が多いもの。』
そう、我も小さな動物が好きだった。だが、皆逃げてしまう。それで、まだ幼かった我は、泣いたのだ。母は、そんな我にこう言っていた。そして共に宮の外で動物を世話してくれた。我はそれで、兄弟の誰よりも早く、己の龍を抑える術を身に付けた…。
晃維は進み出て、和奏が持って来ていたキャベツを手にした。そして、気を極限まで抑え、じっと待った。
しばらく和奏と二人でそうしてそこで座っていると、そのうちに、中からおずおずとウサギが出て来た。
「出て来たわ…。」
和奏は、小さな声で言った。晃維が頷いてじっとしていると、ウサギは何度も止まりながらも、進み出て来て、晃維の手のキャベツをサクサクとかじった。
「おお、かじったの。」
晃維は、満面の笑みでそう言った。和奏も嬉しそうに微笑んだ。
「やっぱり、晃維様は気がお優しいもの。」
晃維は、懐かしかった。母上…我は、やはり母上の気質を継いでおるのですな…。
「感謝するぞ、和奏。」
晃維が言うと、和奏はびっくりした顔をした。
「まあ。何でございまするか?」
晃維は微笑んだ。
「思い出したのよ。我はきっと、治癒の仙術をうまく掛けれるようになったと思うぞ。」
晃維が嬉しそうなので、和奏もなんだか嬉しかった。
「お役に立てたなら、よかったですわ。」
晃維は頷いて、和奏の肩を抱いた。和奏はびっくりして耳まで真っ赤にして俯いたが、そのままじっとしていた。和奏と居ると和む…。晃維は思っていた。母に似ている気質のせいかもしれない。だが、和奏は昔から、自分を癒すような気を発しているように思った。
「…主の気、我は癒される。」
和奏は、気遣わしげに晃維を見上げた。
「まあ。お疲れですか?」
「疲れた。」晃維は、和奏を見た。「ずっと必死にしておったからかの。だが、我を癒してくれるか?和奏よ。」
和奏は胸がどきどきした。どういうことかしら…でも、晃維様のことは、癒して差し上げたい…。
「はい。」和奏は、晃維を見つめ返して言った。「晃維様、我でお役に立つのなら…。」
晃維は微笑むと、そっと和奏に唇を寄せた。
和奏はそれこそ驚いて心臓が口から出るかと思ったが、声を飲み込んでじっとしていた。
そして、晃維は和奏に口付けた。
和奏は、暖かく幸せな感覚に、気を失いそうだと思った…。




