龍の皇子
嘉韻と維月は、それからしばらくずっと一緒に寄り添っていたが、日も暮れて来たので森から出て、湖の方へと歩いて来た。
腕の中で歩く維月を見て、嘉韻は不思議な気持ちだった。あれほどにこんなことは自分とは無縁だと思って来たのに。こうしているのが、何よりもホッとするように思うのはなぜなのだろう。
「…十六夜の気がする。コロシアムからこっちへ来るわ。」
維月が不意に言った。嘉韻は維月を名残惜しげに離すと、普通に並んで歩いた。夫は二人…なのだから、やましいことはない。だが、まだ知られぬ方がいいような気がした。
すると、見る見るコロシアムの方角から、二人の人型が飛んで来るのが見えた。一人は十六夜、一人は、驚くほど大きな気の龍だった。
「何をしてる!釣りって言ってただろうが!」
維月はふんと横を向いた。
「飽きたんだもの。嘉韻が来たから、森へ野うさぎの赤ちゃんを見に行ったりしていたの。」と、後ろに立つ、黒髪の背の高い男を見た。「…どなた?」
十六夜はためらいがちに振り返って、維心を見た。
「ああ…維心だ。龍の宮の皇子。将維の息子だよ。オレらと同い年だ。」と、維心に維月を説明した。「一応オレの嫁だ。陰の月の維月。」
維月はじっと維心を見た。何て懐かしい…慕わしい気。この姿に、どうしてこんなに胸が熱くなるんだろう。初めて会うのに、抱きしめられたいような気持ちが湧きあがって来る…。
維月が戸惑っていると、維心が十六夜に言った。
「…一応?」
十六夜はため息を付いた。
「正確には、オレだけの嫁じゃねぇって事さ。オレ達は兄弟だし対で生まれたから月で、必然的に結婚してるんだが、こいつには、おそらく運命の相手ってのが居るんだ。だから、その相手と共有になるだろうよ。月なんだし、いろいろあるんだ。気にすんな。」
やはりそうか。
嘉韻は思っていた。では、まだ維月を娶る機はあるということ。ここは退こうと嘉韻は口を開いた。
「では、我は失礼する。十六夜殿が迎えに来たのだから、大丈夫だろう。」と維月を見た。「ではまたの、維月。」
維月は嘉韻をじっと見た。
「嘉韻…。」
嘉韻はフッと笑うと、少し維月の頬に触れて、飛び上がって行った。
十六夜は眉をひそめた。
「…維月。お前…、」
「部屋へ帰るわ!」維月は遮るように飛び立った。「御機嫌よう、維心様。」
「維月!」
十六夜が後を追って飛ぶ。維心は訳が分からずそれに付いて飛び上がりながら、ふと目に付いたその維月の左手に、自分と同じような輪が嵌められてあるのを見た。
あれは、我と同じ物…?!
維心の心臓は今までなく速く拍動した。あれは、もしかして、我の求めるものなのか?
維月は遥か先をすいすいと泳ぐように飛んで行く。
維心はただ茫然と、小さくなって行く維月を見送った。
実は維心は、宮に到着した時からそれは宮の女たちから見られていた。
龍王の跡継ぎの皇子。その美しい顔立ちと、洗練された身のこなしは、龍の宮の格の高さを伺わせ、そして憧れるのに充分だったのだ。
だがやはり、あの将維の息子だけあって、回りの女などには見向きもしなかった。来て早々に十六夜を訓練場に引っ張って行き、対等に立ち合って見せた。それだけで、宮の中では大騒ぎだった。
蒼はその騒ぎを聞いて、苦笑した。いやいや、あれは将維より手強いぞ。あの維心様なのだから。
そんな騒ぎなどないかのように、立ち合いから戻った維心はすぐに与えられた対へ引き上げ、出て来なかった。何か物思いに沈んでいるようだと聞いたが、おそらく明日の十六夜との再戦のことなど思いを巡らしているのだろう。蒼がそんなことを考えながら寝ようかと思っていると、十六夜がやって来た。
「蒼、手遅れだったとしたら、どうしたらいい?」
蒼は、十六夜から嘉韻の話を聞いた。もしかしたら、維月が嘉韻と愛し合ってしまったかもしれないという。
またこんなことになるのかと、蒼は頭を抱えたのだった。
一方、維心は十六夜との再戦の事など考えていなかった。
別れ際に見た、維月の左手の指輪が気になって仕方がなかったのだ。それに、維月を見た瞬間、電気が走ったように感じ、その懐かしく慕わしい気に身が震えるのを感じた。
あれが、自分の求めていたものなのか。
維心は葛藤していたのだ。ある日自分の字で書かれた書が机の上に置かれてあり、それに急がねば誰かに求めるものを掠め取られると書いてあった。
あの金髪の龍はなんだ。もしかして、維月が我の求めるものであるならば、我は今正に、掠め取られようとしておるのではないのか。
維心は、落ち着かなかった。自分は何かを忘れている。だが、それを思い出すことが出来ない…。それを知っていた自分が、今の自分を信じて託したであろう未来を、このままでは無くしてしまうように思えた。
十六夜の妃…だが、一応だと言っていた。維心は、十六夜に維月と話しをさせてもらえるように頼んでみようと思った。
嘉韻は、その日の自分の行動がまだ信じられなかった。
明人や慎吾に相談しようにも、はっきりとしないこの気持ちを、何と言って説明すればいいのか分からなかった。なので、屋敷には戻らず、宿舎の部屋でじっと考えていた。もしかして、自分は今、知らない龍の習性か何かで、誰でも受け入れようとしておるのではないのか。だから、維月を愛しているのだと勘違いしているのではないのか。
嘉韻は、結界を張るのも忘れて、ただ考え込んでいたのだ。
ふと、何かの気配に顔を上げると、見知らぬ女がそこに立っていた。
嘉韻は、結界を張るのを忘れていたことにやっと気づき、眉を寄せて立ち上がった。
「今夜は、受け入れてくださるのかと思い、入って来てしまいました。」
その女は、恥ずかしげにそう言った。男の部屋へ忍んで来る女が、今更何が恥ずかしいと申す。
嘉韻は苛立ったが、よく考えると、試すいい機会かもしれない。もしかして、自分が変な龍の習性か何かで維月に対してこんな気持ちであるなら、この女でも同じはず。
嘉韻は、じっと黙ってそんなことを考えながらその女を見ていた。
女は、嘉韻が何も言わないので、嬉しげに近寄って来て、嘉韻の胸にそっと触った。
「やっとお召しになって頂けるのでありまするね。」
相手が背伸びをして嘉韻の唇に触れようとした時、嘉韻は言い知れぬ嫌悪感を持った。
「…無礼ぞ!」嘉韻は、いきなり気を発して女を吹き飛ばした。「主、何を考えておる。我はそのようなこと、望まぬ!」
そして気で戸を開けると、女を外へと放り出し、また気で戸を閉めて、すぐに結界を張った。
「嘉韻様!」
バシッと結界の弾く音が鳴る。女は悲鳴を上げて、回廊を転がるように戻って行くのを感じた。
嘉韻は思った。間違いない。我は維月しか受け付けぬ。これは、龍の習性のせいではない…。
嘉韻は、月を見上げた。我は月を愛してしまったのか。あれを手に入れるなど、また途方もなく大変なことを…。このようなこと、明人にも嘉韻にも言えるものではないのに。
嘉韻は、その日一晩中沈んでいた。一介の軍神である自分。月は王族に匹敵するほどの地位で、そして力を持つ。数多の王族が望む、月との繋がり。それをこの自分が娶ることなど、また途方もないことを…。
次の日、十六夜と龍王の皇子が立ち合う様を、ただぼうっと見ていた嘉韻は、その皇子が十六夜から一本取るのを目の当たりにしてハッとした。
あの皇子は、何と優秀であるものか。
見ていると、十六夜が一戦だけで維心と共に貴賓席へ飛んで行くのを見た。そこには蒼と、維月が居た。何か話していると思うと、維心が維月の手を取って、どこかへ飛んで行った。
「…どこへ行く?」
嘉韻は気になって二人を目で追った。龍王の皇子…。もしかして、あれも維月をと願っておるのではないのか。龍の王族との婚姻を、宮では勧めているのだと維月は言っていた。まさか、王の将維ではなく、皇子の方と婚姻をと思うておるのではないのか…。
嘉韻は、気になってそれからの訓練では、一つの立ち合いも勝つことが出来なかった。
明人と慎吾が顔を見合わせた…嘉韻…どうしたのだろう。




