ニコ 2
僕が返事をすると、部屋の主は
「ゆ、郵便屋さん?」
と、いかにも戸惑った様子で言った。
そして僕が「はい、そうです」と言うと、今度は
「なんで、郵便屋さんが窓から?」
と疑問を口にする。
もっともな質問だった。しかし、引っ掛かるのはそこなのか? とも思う。
僕だったら、ベランダも何もない3階の窓をいきなりノックしてくる男が「郵便屋です」と名乗っても、郵便屋だとは信用しない。きっと、泥棒か変態か、まぁそんな輩だと思っただろう。でも、この部屋の主はとりあえずは、僕のことを言葉通り、郵便屋だと思ってくれているようだった。
なんと言うか、人が良いのだろうか? 僕はそう思いつつも、この少しオドオドした声を聞くだけで、どことなく気弱で、儚げな青年の顔を思い浮かべた。そして、この声の主がサマルの友人ニコ・エリオット、その人に間違いないだろうとも、僕はなんとなくだがわかった気がした。
僕はもう一度しっかりとロープを持ち直す。
そして、確信が欲しくて
「色々と事情がある郵便屋なんです。まぁ、でもその事情というのは、ニコさん、あなたの方がよくご存知だとは思いますが」
と言ってみた。すると、微かに「えっ?」と言う声が聞こえ、そっと、窓に架かったカーテンが開けられた。
そこには眩しい月明かりに照らされた、一人の青年の姿があった。
彼は小柄で、少々子供っぽいパジャマを着ている。髪は茶色のパーマ頭、瞳もブラウンで、容姿はリーの手紙のデータ通りだった。ただ、しっかりと開かれたその目は、とても盲目とは思えないほど綺麗に澄み、僕の方をじっと見つめていた。
「そうですね?ニコ・エリオットさん」
何も口を聞こうとしない青年に向かって、僕はさらに尋ねてみた。
青年は僕のその言葉にちょっと後退し、カーテンをぎゅっと握る。僕はそれを見て、どうやら余計な質問を重ねても、無駄に警戒させてしまうだけらしいと気づく。でも、この青年の態度と沈黙こそ、僕の質問への肯定だと、僕は受け止めた。
だから、まず自分から名乗ることにした。
「すいません、自己紹介がまだでしたね。僕は郵便飛行機乗りのラシェット・クロードと申します。そして、あなたの友人、サマル・モンタナの中等学校時代の友人でもあるんです」
僕がそう名乗ると、青年は
「えっ、あなたがあのラシェットさんっ!?」
と驚いた。
それで僕は確信した。やっぱり彼がニコだったのだと。
僕は想定していたよりも早くニコと接触できたことに内心喜んだ。しかし、一方で「あの」という言葉が気になった。一体、サマルは僕のことをどんな風に言っていたんだろう。
「えーっと、あのと申しますと?」
「あ、いえ、すいません。随分前に新聞で読んだもので……」
ニコはそう答えた。僕はそれを聞いて、ああ、そっちの方ねとがっくりと肩を落とす。また昔の恥ずかしい若気の至りを思い出し、耳が熱くなった。
それに、これでまたもやこの青年が本当にニコなのかわからなくなってしまったな、と考えていると
「あっ、もちろんサマルくんからも色々と聞いていますけど」
と彼が慌てて付け足してくれたので僕はほっとした。
「と、とにかく、中に入りますか?ここではお話もし難いですし」
ニコはそう言うと窓のカギを開け、僕を促してくれる。だから僕は
「ありがとうございます。じゃ、遠慮なく」
と言い、するっと窓から部屋の中へ入った。
でも、それは話難いうんぬんというよりも、敵に見つかってしまうことを恐れたからだ。僕はそんなどこかズレたようなニコの言い分に違和感を感じつつも、すばやく部屋の中を見渡す。
特に変わった様子もなく、誰かが潜んでいる感覚もない。
部屋は簡易なワンルームでベッドと机と椅子、そして戸棚とその上に蓄音機が置いてあるだけだった。たぶん、風呂やトイレは共同で、食事は食堂でとるのだろう。僕は観察からそう見て取った。
異常がないとわかると僕は、時間がないので早速本題に入ろうと思い、懐からサマルの手紙を取り出し、ニコに向き直った。
「ニコさん、僕はあなたに色々とお聞きしたいことがあってここに来ました。と言うのも、全ては僕宛に届いたこのサマルの手紙から始まったんです。ですので、手短に済ませるために、まずはこの手紙を読んでみてください。これが僕からあなたへのお届けものです」
そう言うと僕はニコに向かって手紙を差し出す。
僕は今までこの手紙をリーにもアリにも読ませてこなかったが、飛行機で海峡を渡っている途中に何回も考えてみた結果、とりあえずニコには読んでもらおうと決めていたのだ。
そうしなければ、僕にはわからないことがたくさんあり過ぎる。僕はそう思っていた。そして、そう思うのは、僕はもう手紙が読まれることの影響を気にするよりも、少しでも早くサマルを見つけてあげたいと思い始めているからなのかもしれない。
果たして、それが良い傾向なのか悪い傾向なのかは、僕にはわからなかったが……
しかし、僕の思いとは裏腹にニコは手紙を受け取らず
「すいません、僕は目が見えないので手紙は読めないんです……」
と言った。
「あっ」
僕はしまったと思った。つい、ニコのクリッとした瞳に忘れがちになってしまうが、彼は盲目だったのだ。わざとじゃないとはいえ、大変失礼をことをしてしまったと僕は気まずく頭を下げる。
「い、いえ。こちらこそ、すいません。ついうっかりしてました。知っていたはずなのに……」
僕が言うとニコは特に気を悪くした感じではなく、首を横に振り
「いえ、いいんです。気にしないでください。それよりも、そのサマルくんの手紙は本当にサマルくんが書いた手紙なんですか?」
と聞いてきた。
僕はその質問の真意がわからず、戸惑った。でも、すぐに
「え?あ、はい。たぶんそうだと思います。僕もサマルの筆跡なんて覚えてはいませんが、この手紙の感じはサマル本人が書いたものとしか思えないんです。まぁ、証拠はありませんが……」
と尻つぼみにそう反論した。
なぜか、心の中では自信を持っていることなのに、いざ言葉にすると自信が消え失せそうになる。
しかし、ニコはふふっと笑うと
「そうですか……うん、ラシェットさんが言うのなら間違いないですね。きっとそれこそが、何よりの証拠なんだと思います」
と初めて和らいだ顔を見せてくれた。
僕はその顔を見る。
部屋の明かりは彼には必要ないためか、ひとつも点いていないが、今日はそんなものは必要ないくらいに強い月の光が窓から射し込んできていた。
僕はその顔を見てふと、大学時代のサマルの話を聞いてみたいなと思った。
この気弱そうな、でも心優しそうな青年とサマルは、いったいどんな青春時代を送ったのだろうかと。
でも、残念ながら今日はそんな暇すらない。
僕はサマルについての明るい話題がない今の状況に、切なさを感じずにはいられなかった。
「そ、そう言っていただけると、ありがたいのですが」
僕が気持ちを入れ替え、手紙が読めないのならば手紙の内容をかいつまんで説明しようかと考えていると、同じく何かを考え込んでいたニコが
「ということは、サマルくんはあそこから逃げられたんですね……でも、どうやって?それに他の皆は?」
と逆に僕に掴みかからんばかりの勢いで尋ねてきたので、僕は少々面を食らった。
「逃げた?わからない。なぜ逃げたと思うのです?それに、他の皆とはジェラルダ・ヤン、イニエ・イリエッタ、ナーウッド・ロックマン、ケーン・ダグラスさん達のことですか?」
「そうです。だって、サマルくんも皆と一緒の所に閉じ込められているんです。だから、手紙を送れたのだとしたら、それは逃げ出さないことにはできないと思うんです」
僕はその言葉に頷く。
「なるほど?だとしたらサマルはどうにかして、そこから逃げ出したんでしょうね。この手紙によると、サマルは今、誰も知らない遠い遠い島にいるみたいですから」
「島に?」
ニコは言った。
僕はその反応に少し期待しながら
「ご存知ありませんか?とある古代アストリア文明の遺跡にだけ、僅かに記述がある島らしいのですが」
と聞いてみる。しかしそれを聞くと、ニコは困った顔になり
「遺跡の……?」
と漏らした後、しばらく黙ってしまった。
だから、僕はニコが再び口を開くのを辛抱強く待った。きっと、彼は考えてくれているのだ。そして、自分の記憶を頼りに、僕に何かを示してくれようとしている。僕はそう感じることができたから、待つことができた。すると、思っていたよりも早くニコが口を開いてくれた。
「たぶん……それはきっと、ここより遥か東にある「アスカ遺跡」にあった記述のことだとは思いますが、でも、それ以上のことは僕にはわかりません。それに確か、あの記述は解読が難しくてサマルくんも、古代語が得意だったリッツくんとナーウッドくんでさえ、正確には読むことはできなかったはずです……」
「アスカ遺跡……」
僕が呟くと、ニコはこくんと頷く。
「なるほど、ありがとうございます」
どうやら島に関してニコが知っていることは、これだけのようだった。
まぁ、そうだ、そんなに簡単にいくわけない。僕は思った。でも、これを聞いただけで収穫はあった。「アスカ遺跡」という場所。そこは行ってみなければならないだろう。
「あの……」
僕が考えているとニコが言った。
「それで、他の皆も無事なんですか?」
と。ニコの瞳は微かに潤み、それを隠すためか顔を俯けている。そうか、それに関しても彼は知らないのだなと僕は思った。きっと友人達のことが心配で堪らないのだろう、その気持ちも痛いほど感じた。
僕はそんな彼を見て、なんと言って答えてあげたらいいかわからなかった。でも、決して安易な嘘で安心などさせてはいけないとは思った。だから結局は正直に僕の得た情報を話すしかなかった。
「僕も正確にはわかりません。ですが、サマルとあなたとリッツ・ボートバル以外の4人は今も行方不明であり、捜索願が出されたままです。ですから、まだ捕らわれてるのだと思います」
僕がそう言うと、ニコはさらに顔を俯け
「そうですか……まだ皆はショットに……」
と呟く。僕はその名前に、ビクッと反応し
「ジース・ショットを知っているんですね?」
と聞いた。ニコは小さくこくっと頷く。それを確認すると僕は思い切って
「教えてください。ジース・ショットとは何者なんですか?あなた達とショットとの間に一体、何があったんですか?」
と、ニコの心情は察していたが強く、真剣に聞いてみた。
でも、ニコの反応は悪かった。
僕にはその様子が何かを口にしたくても、本当に口にしていいものか、躊躇っているように見えた。
それほどの恐怖が彼をここに縛り付けているのか?
僕は思った。
だから考える。どうしたら、彼の恐怖心を取り除いてあげられるのか、そしてもっと僕のことを信用してくれるようになるのかと。
……ええい、考えてもわからん。
僕は話しながら考えることにした。
「ニコさん。僕がここに来たのは、サマルを助けたいと思ったからです。そして、そのためにはあなたの協力が是非必要だと思ったからなのです。いいですか、ニコさん。サマルは今、一人その島で死のうとしています。自殺しようとしているんですよ」
僕がそう言うと、ニコはえっ? と言い、顔を上げた。僕はその表情を確認しつつ、話を続ける。
「サマルは手紙の中で、自分は死ななければならないと言っていました。そして、こうも言っていました。もし、サマルが自殺することに失敗したら、その時は僕の手でサマルを殺して欲しいと。そんなお願いを書いた手紙をわざわざ僕の元に送り届けたんです。こんなのバカげてると思いませんか?ふざけるなよと思いませんか?少なくとも、僕はそう思いました。だから、僕はサマルのお願いなんて聞いてあげるつもりはありません。必ず見つけ出して、そして一発ぶん殴って、目を覚まさせてやるつもりなんです」
ニコと目が合った。彼には決して見えていないはずなのに、向こうにもそれはわかったようだった。そこにはまだ涙が溜まっていた。
「でも、僕だけの力ではサマルの元へは辿り着けそうにないんです。だからお願いですニコさん。何か知っていることがあったら僕に教えてください。あなたのお友達のことが心配な気持ちもわかりますし、たぶん、あなたがここから脱け出さないのは、そのお友達を楯に使われているからでしょう?」
僕がそう言うと、ニコはまた涙を浮かべた。しかし、今度は僕の方をしっかりと見て
「はい……」
と答えてくれた。僕はニコを励ますように、肩に手を置く。
「やっぱりそうでしたか。ショットにはなんて言われているんです?」
僕が聞くと、ニコは戸惑いつつも
「ぼ、僕がこの寮から一歩でも外に出たり、助けを求めたりしたら、皆の命はないって……あとはこれまで通り、ただ仕事をしていろって……」
と教えてくれた。
僕はそう聞いて、色々引っ掛かることがあった。
「そうだったんですか……でも、なぜあなただけがここに?やはりエンジン技師としての能力を買われてですか?」
僕が聞くと、ニコは首を横に振って否定した。
「そんなんじゃないんです。それはただ単に、僕が目が見えないからショットの奇妙な術にかからなかったから……だから、エンジン技師とか、そんなことは関係ないんです。僕がここにいるのは外部に情報が漏れないように監視しているだけだと思います」
「奇妙な術?」
僕は他にも聞きたいことは山ほどあったが、その謎の言葉に首をひねった。
ショットが使う術? なんだ、手紙や遺跡に続き、またオカルトじみたことだろうか?
「それはどういう?」
僕が聞くと、ニコは
「詳しくはわかりませんが」
と前置きをしたあと
「ナーウッドくんが言うには、ショットの目を見た瞬間から、まるで皆、操られているみたいになってしまったそうなんです。いくら叫んでも自分の言うことには耳も貸さないのに、ショットの言うことはなんでも聞いたって……」
と答えた。
な、なんだそれは?
と僕は思った。人を操る能力?そんなの見たことも聞いたこともないぞ。しかも、目を見た瞬間からだって?ということは、その目に何かしらの秘密があるとでも言うのか?
「な、何かの薬品などを使って、一時的に人を操るというのは聞いたことがありますが、目を見ただけでそういうことができるというのですか?ショットという男は」
「はい。ナーウッドくんはそう言っていました。だから僕はショットの術にはかからなかったんだって。なにせ、目が見えないんですから。でも、あの場にいたナーウッドくん以外の皆は術にかかってしまい、僕は捕まってしまいました」
ニコはそう悲しげに言った。
僕はその様子を気の毒に思ったが、ここでもっと色々聞いておかなくてはと
「先ほどから気になっていたんですが、そのナーウッドという男はショットに捕まらなかったんですか?」
と言った。
「え?あ、はい。そうです。ナーウッドくんだけはあの場からうまく逃れることができたんです。今も無事かどうかは、ここにいてはわかりませんが……」
ニコは弱々しくそう答えた。
そうか。もう一人、接触可能な当事者がいたのか。
僕はそのことを頭の中に刻み込んだ。
ナーウッド・ロックマン。彼とも近いうちに会ってみないと。
「ニコさん。貴重な情報ありがとうございます。きっとその情報がなかったら、僕も簡単にショットの、その奇妙な術にかかっていたことでしょう」
そう僕は言った。
するとニコは驚いた様子で僕を見た。
やはり目は見えていないが、確かに僕を見た気がしたのだ。
「ショットのところに行くおつもりなのですか?」
「ええ。行ってみようと思います。そうでないと、やっぱり得られない情報があると思いますし。それに……」
僕はそこで、一度言葉を切ったあと
「そんな話を聞いてしまったら、助けてあげたいじゃないですか。皆さん、僕の親友の友達なんですから」
と笑顔で言った。
これは素直な気持ちだった。
また、これがニコへの励ましになればいいとも、僕は思った。
「ラシェットさん……」
ニコは思わずそう漏らす。
それはやがて嗚咽に変わっていき
「ラシェットさん……ありがとうございます。本当に、どうか……よろしくお願いします。皆を助けてあげてください。お願いします……」
と、ニコはついに堪えきれなくなったのか、大粒の涙を流してそう言った。
だから僕は「はい、約束します」と言い、肩に置いた手に力を込めた。
ニコが少し落ち着くのを待って
「でも、そもそもなぜそのような状況になってしまったんですか?あなた達はどうしてショットに?」
僕はそう聞いた。
「それは、おそらくサマルくんが執筆していた論文が原因ではないかと思います」
ニコはいくらか、しっかりとした感じで答えてくれた。よかった。どうやら、僕のことを本当に信用してくれる気になったみたいだ。
「そうだ、論文……」
僕は呟いた。
最初に聞こうと思っていたのに忘れていたのだ。そのことに気がついてよかった。
「それはどういった内容の論文だったのですか?確か、皆さんで共同執筆なさっていたとか」
「いえ、形上は皆の共同ということになっていたんですが、実際に執筆していたのは、サマルくんとリッツくんの二人なんです。だから僕も詳しい内容は知らなくて」
「リッツが?」
僕はそのことに引っ掛かりつつも、またサマルからの手紙を取り出し、ニコに渡してみた。
きっと、論文の内容はこの手紙に使われている技術に関するものだと思ったからだ。
手紙を受け取ったニコは僕の意図がわからず、困惑している様子だった。だから
「その手紙はサマルから届いたものなのですが、試しに思い切り破ってみてください」
と僕は言った。
するとニコは余計に困惑したが、すぐに僕の言う事を素直に聞いてくれ、手紙を思いきり破ろうとした。しかし、手紙はあまりの強度に破れる気配すらしなかった。
「なっ、なんなんですか、この手紙は?」
ニコは言った。
「それは、僕にはわかりません。しかしこの手紙には何かしらの加工が施されていて、そのために、ナイフでも、おそらく拳銃でも破壊できないほどの強度になっているんです」
僕は言った。しかし、僕のその言葉にニコは益々首を傾けるばかりだった。
その反応は意外だった。
そういえば、先ほどから手紙に対する、ニコの反応は新鮮過ぎる気がした。
「サマルが書いていた論文は、こういった古代科学技術に関する論文ではなかったのですか?」
僕は嫌な予感を感じつつも聞いてみた。
「古代科学技術?」
ニコは否定するように首を振った。そして
「すいませんが、そんな話は聞いたこともありません。サマルくん達が執筆していた論文は、確か、歴史についての論文だったはずです」
とニコはきっぱりと言った。
僕はあまりの予想外の言葉に頭が真っ白になった。
歴史だって?
なんだ?歴史って。それがなんで、自殺とか、捕まるとかいう話になってくるんだ……?
それに、だとしたらこの手紙に使われている技術はいったい……
僕は混乱しつつある頭をなんとか働かせて
「あの、その歴史ってどういう……」
とニコに改めて質問しようとした。
その時。
「クックック、おしゃべりはそのへんで止めにしましょうか。ラシェットさん」
と背後から、聞き覚えのある、ゾッとする声がした。
僕は全身に鳥肌を立てつつも、すばやく背後に振り向き、身構えた。
すると、狭い部屋の一番奥、閉められたドアに寄りかかる不気味なシルエットが目に入った。
それは黒いタキシードを着、背高帽をかぶった小人だった。
いつの間に入ってきたのだろう。そんな気配は微塵も感じなかったのに……
それはまるで、ここにあってはいけないものが、突然目の前に現れたかのごとく僕の目には映った。
「クックックックック」
彼は何が面白いのか、笑いを漏らしながら一歩、二歩とゆっくりこちらに近づいてくる。
それでも僕は身動きひとつとれなかった。
やがて、眩しい月明かりが彼の顔を浮かび上がらせる。
見間違うはずがない。彼はトカゲだった。
「な、なぜお前がここに……」
僕が辛ろうじでそう言うと、トカゲはまたクックックと笑い
「なぜじゃありませんよ、ラシェットさん。ダメじゃないですか。約束はちゃんと守っていただかないと。クックック」
と耳障りな、ねっとりとした口調で僕に言うのだった。
僕はまたじっとりと嫌な汗を掻いていた。
そして、頭の中で、もしかしたらキミの言っていた不吉な予感とは、こいつのことだったのではないかと、今となってはどうしようもないことを、ぐるぐると考えていた。




