chapter 2
2
ジュリエットが転校という名目(本人がはっきりと明言した)で忍び込んでからというもの、観月智一の脂汗が途絶える暇がない。
人の話を聞いているようで聞いてない彼女のことだ、『絶対に魔法は使うな』とは口を酸っぱくしたうえ耳タコにさせた観月だが、どこまで理解してくれたのかわかったものでない。
悪意はないのだ。
ただ、「駄目」と言われるほど面白半分に反応する。
芸人の「押すなよ。絶対押すなよ」理論である。
頭に浮かんだ言葉を瞬時口にする裏表ない性格のうえ、脊髄反射の行動力。
ジュリエットの性格を純粋無垢あるいは天真爛漫、などと人の良い近所のおじさん――、もとい基地副司令の平田大佐は評したが、すかさず観月は一言「ただの馬鹿野郎です」とバッサリ切った。
頼むからだれも彼女に喋らせないでくれ。
そう願う観月の隣で、気の知らぬジュリエットはやはり、予想どおり、期待に反せず、ほら見たことか、という具合でアウトラインぎりぎりのコースで攻めてくる。
たとえば英語の授業。
誕生日パーティと思わしき絵を英語で状況を説明しなさい、という問いにジュリエットは透き通る声色で言った。
「このなかに一人、エルフがいます」
本人はいたってまじめである。
国語の授業では――、
「言葉も通じない彼らですが、心は通じた瞬間が的確に表されていますねえ」
「思考クラッキング技術か」
意味深に頷くジュリエット。
物理の授業はさすがに焦った。
「量子の世界では、まるでコンピュータゲームと喩えられるような観測結果が――」
「わーい、ぼくそれ詳しく知ってまーす」
「ジュリエット、ストーップ」
肩で息をする観月をよそに、天宮羽衣はあきれ顔で呟いた。
「忙しいツッコミだこと。あんたちょっと痩せてない」
「だと嬉しいけど……」
「いや不健康に、ね」羽衣が心配顔で声を掛ける。
「そりゃ気苦労が絶えないからな。不倫疑惑の渦中の政治家だって、あんな失言はしないだろうぜ」
「わけわからんけどわかる気がする」
「つぎが山場だ」
そう、体育である。男女別の授業であり、座学ならまだしも、躰を動かすとなると、きっとジュリエットのことだ、ついうっかりで魔法を使ってしまうに違いない。奇術師も真っ青な水上歩行だってなにが不思議なの、とは先日やってのけてばかりである。
「そんなに心配だったら連れてこなきゃいいのに」
「駆け引きっていうか、取引っていうか、まあ仕事だよ」
「わがままお嬢様にこき使われる執事だって、そりゃあ仕事ではあるでしょうよ」
「ぐぬぬ……」羽衣の的確な嫌みに、ぐぬぬ以外の言葉を返せない。
「ウィー」ジュリエットが手を振って呼んでいる。
「あいよー」と羽衣は答えて「ということだから。あんたもすこしは運動して痩せなさい。健康的にね」皮肉っぽく口を尖らせて、彼女は更衣室に消えていった。
「任せるよ」
そうつぶやいたとき、そっと音もなく観月の背後に現れる二つの影。
軍部からジュリエットの監視役の任を負う猫山曹長と兎田軍曹である。
「ご安心を、博士」猫山曹長が短く答える。
「魔法だけは使わせないように」
「承知、してます」
「俺は待機っスね」兎田軍曹の返事はいつも緊迫感がない。
「それでは、のちほど」猫山曹長はさも当然のように更衣室に消えた。
「ん」ここで男二人、同時に思う。
いや待て姐さん。
あんたまで更衣室に入ってなにするの?
いやまさか、という引きつった顔で男達が顔を見合わせて数分後、答えが返ってきた。
「体操着に着替えとるぅー」音声なしの吹き出しで二人は絶叫した……。
――さて、グラウンドに出た彼ら。
男子は隅っこに追いやられハードル競争、女子は円盤投げをする。
それ自体はふつうの体育授業風景なのだが……、
観月はジュリエットがなにかやらかすか気が気でない。女子高生の授業を覗き見る近所の無職おじさんだって、こんなには凝視しないだろう、というくらい観月は女子から目が離せない。
「大人しくしてくれよぅ、ジュリエット……」
そうこうしているうちにジュリエットの番になった。
不思議そうに円盤を両手でいじっている。
「頼むよ頼むよぉ……」
「おーい観月。あんま女子ばっか見るなあ」
そんな観月は杞憂だったようだ。
ジュリエットは「へやぁ」という情けない声を発して、円盤もそのかけ声どおりに頼りなさげに放たれる。結果は、平均よりもむしろ飛んでいない。
耳を澄ませば、「四十肩で腕が上がらないんだよなぁ」と照れながら、クラスメイトの女子と喋っているようだ。
「ほっ、地球の裏側まで飛ばすのかと思ったよ。ん、四十肩……」
「おーい観月。だから女子見過ぎだって」
つぎ、交代に投擲場にスタンバイしたのは大柄な女子だった――、いや世間一般に女子とはいわない年齢で、というか生徒ですらない。
「つぎは猫山曹長か……、って曹長」観月はダンサーよりも機敏に首を捻る
猫山曹長(二十九歳・独身)登場。
彼女は長い黒髪を頭の高い位置で結い、高校生にまじってジャージ姿でやる気満々の様子だ。白いTシャツの〝4-2〟のプリントは悪意さえ感じるが、モデル体型で美形の猫山曹長がやるとネタでも惚れ惚れしてしまう(してはいけない)。
猫山曹長はキリッとした目つきで本気の投擲。
それが世界大会クラスを記録したのだからリアクションは決まっていた。
「ええぇ……」観月は全力で脱力した。
これで彼女は満足したのか、というとまだ納まらない。
猫山曹長が名に違わず、挑戦的な吊り目を土手に向ける。そこに寝そべっていたのは、挑発(される側)に定評のある兎田軍曹。
退屈そうに両手を枕にしていた兎田軍曹がむくりと起きあがると、大股でのしのしとサークルに入場しようというではないか。
「ちょっとちょっと」慌てて駆け出す観月。
二人とも辞めてくれよ、という声も届かず「ふんぬぁ」と軍曹がデタラメだが力強く円盤を投げる。
こんな展開、だれが用意したのだろうか。
吸い込まれるように観月の額にクリーンヒットした。
ピギーィ、という出荷される豚のような悲鳴をあげて、観月は仰向けに倒れた。
観月が意識を失う前に最後に聞いた声は、「バックホームぅ」という決定的場面に際する主審の判定のようなジュリエットの声だった。
「それ違うやつや、ガク……」