金曜の夜、異世界へ
《運搬 Lv1》
《仕分け Lv1》
見覚えのない文字を眺めながら、相馬悠真はしばらく黙り込んだ。
「……これ、今日の倉庫バイトじゃないか?」
数時間前まで、悠真は物流倉庫で段ボールを運び、商品を仕分けていた。
それが今は、石造りの大きな建物の中で、剣を腰に下げた男たちに囲まれている。
目の前には冒険者ギルドの受付嬢。
手元には、自分の名前と見慣れない能力が刻まれた金属板。
どう考えても日本ではない。
そもそも、ここへ来る直前まで悠真は、明日の昼飯を何にするかで悩んでいたはずだった。
話は数時間前に遡る。
◇
「……今月、あと1万8420円か」
大学の講義を終えた悠真は、構内のベンチに腰を下ろし、スマートフォンに表示された口座残高を眺めていた。
今日は6月最初の金曜日。
次の家賃が落ちるまで、あと2週間少々ある。その間に食費も必要だし、電気代や携帯代も払わなければならない。
洗剤もそろそろなくなる。
冷蔵庫の中身も、昨日確認した限りでは卵が2個と調味料くらいしか残っていなかった。
大学2年になってから、似たような計算を何度したかわからない。
実家が極端に貧しいわけではない。
ただ、弟も今年高校へ進学したばかりで、両親に余裕があるわけでもなかった。
学費は奨学金。
家賃の一部だけ親に負担してもらい、それ以外の生活費は基本的に自分で稼いでいる。
だから講義が終わると、悠真はいつものように単発バイトアプリを開いた。
飲食店、イベント設営、引越し、スーパーの品出し、倉庫作業。
画面を流しながら、勤務地と時給、それから勤務時間を確認していく。
悠真が仕事を選ぶ基準は単純だった。
なるべく近くて、なるべく高い。
そしてできれば面倒じゃない。
仕事に夢ややりがいを求めるほど、今の生活には余裕がなかった。
「これでいいか」
指を止めたのは、物流倉庫の仕分けスタッフ。
18時から23時までで日給7500円。
最寄駅から送迎あり。
明日は土曜日だから、多少帰りが遅くなっても問題ない。
悠真はそのまま応募ボタンを押した。
数秒後には画面に『勤務が確定しました』と表示される。
「よし」
これで来週の食費くらいはどうにかなる。
悠真にとっては、それで十分だった。
◇
「相馬君、そっち3番レーンお願い!」
「はい!」
21時を過ぎたころ。
郊外にある大型物流倉庫で、悠真は流れてくる段ボールを次々と仕分けていた。
送り先ごとに分かれたレーンへ荷物を運び、棚番号を確認しながら決められた位置へ積んでいく。
単純作業に見えるが、何も考えずにやっているとすぐに身体がきつくなる。
重い荷物は腕だけで持たず、腰を落として身体へ引き寄せる。
同じ場所へ運ぶものは先にまとめる。
軽い箱の上に重い箱を載せない。
伝票と中身が合わない荷物や、潰れている箱があれば別に分ける。
最初のころは、翌朝になるたび全身が筋肉痛になっていた。
今では単発バイトにも慣れ、どう動けば少しでも楽なのかが自然とわかる。
「相馬君、それ重いぞ。無理なら2人でいいからな」
近くにいた社員から声をかけられた。
「大丈夫です。この持ち方ならいけます」
悠真は段ボールの底へ腕を回し、身体に密着させて持ち上げる。
確かに重い。
それでも、持てないほどではなかった。
「慣れてんなあ」
「いろいろやってるんで」
そう答えて、悠真は苦笑した。
実際、いろいろな仕事を経験している。
倉庫、警備、居酒屋、スーパー、引越し、イベントスタッフ。
同じ場所に長く勤めた方が条件はいいのかもしれない。
ただ、大学の講義や課題と両立するなら、空いた日にだけ働ける単発バイトの方が都合が良かった。
23時。
ようやく勤務が終わった。
休憩室でスマートフォンを確認すると、アプリには『勤務完了』の表示が出ている。
数日後には7500円が振り込まれる。
「これで今週は生きられるな」
冗談とも本気ともつかない独り言をこぼしながら、悠真は倉庫をあとにした。
◇
アパートへ戻ったころには、日付が変わりかけていた。
シャワーを浴び、コンビニで買っておいたおにぎりを1個だけ食べる。
もう1個は明日の朝飯用だ。
そのままベッドへ倒れ込むと、身体中から一気に力が抜けた。
「疲れた……」
明日は昼まで寝よう。
そう思いながら部屋の照明を消そうとして、悠真は手を止めた。
「……ん?」
部屋の奥。
クローゼットの横に、見覚えのない扉があった。
悠真はしばらく黙ってそれを見つめる。
この部屋は6畳1間のワンルームだ。
クローゼットの隣には壁しかなかったはずで、少なくとも朝家を出たときには、こんなものは存在していなかった。
古びた木製の扉。
茶色い木目に、黒い鉄製の取っ手。
上部には何を表しているのかわからない模様まで刻まれている。
「寝不足か……?」
頬をつねってみる。
普通に痛い。
扉も消えない。
試しにスマートフォンで写真を撮ると、画面の中にもはっきり映っていた。
「いや、怖いな」
普通なら開けない方がいい。
そんなことは悠真にもわかる。
ただ、自分の部屋に突然こんなものが現れて、それを確認せずに眠れるほど神経は太くなかった。
しばらく迷った末、悠真は扉の前まで歩いた。
取っ手へ手をかける。
ひやりと冷たい感触が伝わってきた。
ゆっくり回してみると、鍵はかかっていない。
扉を開ける。
その瞬間、悠真は言葉を失った。
「……は?」
向こう側にあったのは、アパートの廊下ではなかった。
石畳の道。
石造りの建物。
遠くには巨大な城壁がそびえ、道の上を馬車が走っている。
行き交う人々の服装も、明らかに現代日本のものではない。
腰に剣を下げた男までいた。
扉の向こうから風が吹き込み、土と煙、それから知らない料理の匂いが鼻をかすめる。
悠真は振り返った。
背後にはいつもの自分の部屋。
もう1度前を見る。
見知らぬ街。
「……意味わからん」
数分はその場で悩んだと思う。
それでも最後には、好奇心が恐怖を少しだけ上回った。
悠真は慎重に、扉の向こうへ足を踏み出した。
◇
そこが異世界だと理解するまで、それほど時間はかからなかった。
電柱も車も街灯も見当たらず、石畳の道を走っているのは馬車ばかりだった。
街を歩く人間の中には、剣や槍を持つ者が当たり前のように混じっている。
極めつけは、道端で杖を振った男の手から火が出たことだった。
「……マジかよ」
言葉はなぜか通じた。
看板に書かれた文字も読める。
その理由はまったくわからない。
ただ、そんな状況でも現実的な問題はすぐに浮かんできた。
金がない。
財布は持っていたものの、中に入っているのは日本円だけだ。
当然、この街で使えるとは思えない。
「仕事なら冒険者ギルドに行きな」
道端の露店商に尋ねると、そう教えられた。
指示された方向へ歩いていくと、剣と盾を組み合わせた大きな看板が見えてきた。
中へ入ると、酒場のような広い空間があり、鎧姿の男女が何人も集まっている。
悠真は周囲を気にしながら、奥にあるカウンターへ向かった。
「冒険者ギルドへようこそ。ご依頼ですか?」
声をかけてきたのは、栗色の髪を後ろでまとめた若い女性だった。
「いや……登録したいんですけど」
「新規登録ですね。お名前をお願いします」
悠真は一瞬だけ迷った。
この世界で「相馬悠真」と名乗るのは、なんとなく浮いている気がした。
「ソーマです」
その名を口にした瞬間から、この世界ではそう呼ばれることにした。
「ソーマ様ですね。冒険者経験はありますか?」
「ないです」
「戦闘経験は?」
「ないです」
「魔法の使用経験はありますか?」
「……ないと思います」
受付嬢の笑顔が、一瞬だけ固まったように見えた。
「それではFランクからの登録となります」
「Fランク?」
説明を聞くと、冒険者にはFからSまでのランクが存在するらしい。
新人は原則として全員Fランクから始まり、依頼の達成数や実績に応じて昇格していく。
Fランクが受けられるのは、採取や雑用など比較的危険度の低い依頼が中心だという。
「無理な依頼を受けて命を落とす新人の方もいらっしゃいます。最初は必ず、身の丈に合った依頼を選んでください」
「もちろんです」
ソーマは即答した。
英雄になりたいわけではない。
魔物と戦いたいわけでもない。
ましてや、異世界まで来て死ぬつもりなどなかった。
受付嬢に言われるまま、薄い金属板へ手を置く。
淡い光が広がり、しばらくすると文字が浮かび上がった。
「ソーマ様。Fランクですね。それから……スキルを2つお持ちです」
「スキル?」
「はい。《運搬 Lv1》と《仕分け Lv1》です」
ソーマは金属板を覗き込む。
《運搬 Lv1》
《仕分け Lv1》
どちらも、つい数時間前まで自分がしていた仕事を思わせる言葉だった。
「……これ、今日の倉庫バイトじゃないか?」
思わず声が漏れた。
「はい?」
「いや、なんでもないです」
偶然かもしれない。
そう思いながらも、胸の奥には妙な引っかかりが残った。
◇
Fランク用の依頼板には、薬草採取や荷物運び、街道清掃、店の手伝いなどの仕事が並んでいた。
討伐依頼らしきものもあったが、ソーマは迷わず候補から外す。
今の自分が魔物と戦う理由などない。
選んだのは、薬草を20束集める採取依頼だった。
報酬は銅貨40枚。
場所は北門の外にある森林で、期限は当日中。
ただし、森の奥へは絶対に入らないよう注意書きが添えられていた。
受付嬢に薬草の実物を見せてもらい、ソーマは街を出た。
森までは徒歩で1時間ほど。
最初のうちは、異世界で冒険しているというより、少し遠くまでハイキングに来たような気分だった。
だが森へ入って10分もしないうちに、その考えは変わった。
「……どれだよ」
しゃがみ込んだソーマの目の前には、似たような草が大量に生えている。
受付嬢に見せてもらった薬草を思い出しながら、1枚ずつ葉を確認していく。
そのとき、不意に頭の中で何かが切り替わった。
これは違う。
これも違う。
その隣も違う。
目の前の植物が、それまでとは少し違って見える。
名前が浮かぶわけではない。
何に使えるのかがわかるわけでもない。
ソーマは試しに、見たことのない青い葉の植物へ手を伸ばした。
「……これは、わからないな」
何も感じない。
毒草なのか、薬草なのか、それともただの雑草なのかもわからなかった。
どうやら何でも見抜ける能力ではないらしい。
だが、その中に混ざっている1種類だけは違った。
「あ……これか」
なぜかすぐにわかった。
1本摘み、受付で見せてもらった薬草を思い出す。
葉の形も、茎の色も同じだ。
さらに周囲を見渡す。
すると、さっきまで似たような草にしか見えなかった景色の中から、目的の薬草だけが自然と目につくようになっていた。
頭の中に文字が浮かぶ。
《仕分け Lv1》
「仕分け……?」
ソーマは今日の倉庫バイトを思い出した。
荷物を送り先ごとに分け、種類を確認し、破損しているものがあれば別にする。
試しに、見つけた薬草を何本か並べてみた。
そのうちの1本に、妙な違和感を覚える。
「これ……傷んでる?」
見た目はほとんど同じだった。
けれど葉の端がわずかに黒ずみ、他のものより張りがない。
触ってみると、少し柔らかくなっている。
逆に、小ぶりでも色が濃く、状態の良さそうなものもなんとなくわかる。
「同じ薬草の中でも分けられるのか……」
種類だけではなく、状態の違いもある程度わかるらしい。
ただし、知らない植物のことまでは何もわからない。
一度見本を見せられ、何を探しているのか理解しているからこそ、薬草だけが判別できているようだった。
「倉庫で破損品とか分けてたからか……?」
半信半疑のまま、ソーマは採取を続けた。
傷んだものは避ける。
状態のいいものだけを束ねる。
それを袋へ詰めていくと、《運搬 Lv1》のおかげなのか、思ったほど重さを感じない。
慣れてくると採取速度は一気に上がった。
20束。
25束。
30束。
気づけば35束ほど集まっていた。
「これ……本当にバイトの経験がスキルになってるのか?」
偶然では説明できない。
ソーマは薬草の入った袋を持ち上げ、街へ戻ろうと立ち上がった。
その瞬間。
背筋に冷たいものが走った。
「……?」
理由はわからない。
それでも、前へ進んではいけないという感覚だけは妙にはっきりしていた。
ソーマは足を止める。
1秒。
2秒。
前方の茂みが大きく揺れた。
「グギ……」
低い声とともに現れたのは、人間の子供ほどの背丈しかない緑色の生き物だった。
手には錆びた短剣を握っている。
ソーマでも知っている。
「ゴブリン……?」
1匹だけではなかった。
少し離れた茂みから、もう1匹。
さらにその後ろにも影が動いている。
合計3匹。
ソーマは反射的に腰へ手を伸ばしたが、当然そこには何もない。
剣もない。
戦闘経験もない。
どう戦えばいいのか、それ以前に逃げ切れるのかすらわからない。
ゴブリンの1匹が短剣を構えた。
その瞬間、視界に新しい文字が浮かんだ。
《警戒 Lv1を獲得しました》
「警戒……?」
思い当たる仕事がある。
3日前。
イベント会場で8時間、人の流れを見ながら来場者を誘導し、立入禁止区域へ入る人間がいないか確認し続けた。
倉庫。
イベント警備。
現実で経験した仕事が、この世界では能力として現れている。
ゴブリンたちが、じりじりと距離を詰めてくる。
恐怖で喉が乾いていく。
それでもソーマの頭の中では、別の考えが急速に形になり始めていた。
「……まさか、バイトした数だけスキルが増えるのか?」
最後までお付き合いいただき感謝します。
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